moonlightblue

「ああ、くそっ! 全く無駄な労力だ」
ロイはそう言いながらホテルの部屋に入ると、上衣を片手にそのままベッドに勢いをつけて転がった。
子供のように大の字に両手を広げて、スプリングの効いたベッドに沈み込む男を呆れた目で見て、リザはゆっくりと部屋の扉を閉めた。
「大佐、シャワーも使わず、そのままお休みになるのはお止め下さいね。明朝は0615の汽車でイーストシティに戻りますので、0530には起床いただくようにお願いいたします」
「勘弁してくれ。始発じゃないか」
「いえ、始発の2本後です。それから、今回の突発の出張で業務が滞っておりますので、明日は駅からそのまま司令部に直行していただきます」
情け容赦のないリザの言葉に、ロイは顔も上げず呻いた。
「ますます勘弁してくれ、だ。全く莫迦な奴らの酔狂のおかげでセントラルまで呼びつけられた上に、あんな子供と勝負させられた挙げ句、壊した練兵場の後片付けまでさせられるとは。何が『焔vs鋼』だ。私のことを何だと思っているんだ、軍の連中は」
ロイの愚痴はもっともなものだったが、軍人である以上はどんな理不尽な命令でも受け入れねばならないのは仕方のないことだ。
リザは半ばロイに同情しながらも、副官としての顔を崩さずロイに向かって厳しい声で言った。
「それもお仕事の内と割り切っていただくしかございません。それに練兵場を壊されたのは概ね大佐ご自身なのですから、自業自得かと」
そうなのだ。実際“焔の錬金術師”が本気を出していたならば、いくらエドワードが天才的な錬金術師とは言え瞬殺するのは手易いことなのだ。
それを小さな子供の山のように高いプライドを守るために、わざわざ半日を潰して茶番に付き合う彼は、何だかんだ文句を言いながらエドワードの事を評価し保護者のような目で見守っているのだろう。
 
上官のお人好しに苦笑し、リザはロイが手に持ったままの軍服の上衣をハンガーに掛けようと、ベッドの上へと手を伸ばす。
案の定、ロイの上衣に手をかけたリザの手首をロイは捕まえた。
どれほど疲れていようとも、ロイはリザを構うことを止めない。
その事実に少しの喜びを感じながらも、リザはわざと素っ気ない口調でロイの行動を咎める。
「大佐? ここはセントラルで、我々は職務のために此処に来ていて……」
「とりあえずの仕事は終わった。そして、ここはあくまでもプライベートなホテルの一室で、例え副官の君が隣の自室に戻らなくとも私以外その事実は誰も知らない」
リザはわざとらしく、大きな溜め息をついた。
屁理屈を言わせたら、この男の右に出る者はいない。
「疲れた上官を労ってくれてもいいだろう?」
そう言いながら、ロイは彼女を引き寄せる。
「誓って何もしない。流石にそこまでの体力はないからな。私も歳を取ったか」
そう言っておどける男の確信犯的な甘えに絆され、リザはロイの腕に促されるままベッドに腰掛けた。
ロイはリザの手首を握っていた手を離し、寝返りをうつようにコロリと転がり彼女の膝枕を狙って来たが、リザはさっと身を避けクスリと笑った。
当ての外れたロイは不服そうな顔でリザを見たが、彼女は構わずベッドの上に広がるロイの埃にまみれた黒髪をその白い指で梳いた。
昼間の彼の労をねぎらうように、リザの指はロイの髪を優しく手の中に納め、そのまま小さな頭蓋骨の形を確かめるように彼の頭に添えられた。
ロイは陽向の猫のように心地よさそうに目を細め、リザにされるがままに身を委ね、全身の力を抜いた。
リザはそのままロイの髪を梳きながら、ふと思い出したように言った。

「そう言えば、大佐?」
「何だね」
「本日の昼間、エドワード君と戦いながら何か彼を挑発するような、小難しい言葉を色々と仰っておられましたね」
「?」
リザの疑問にロイは目を開け、いったい何の事だと眉間に皺を寄せた。
「『兵は拙速を貴ぶ』ですとか『怒らせてこれを乱せ』ですとか『兵は詭道なり』ですとか。あれはいったい何なのですか?」
具体的なリザの言葉にロイは破顔し、ああと優しい表情に戻ると彼女の疑問にさらりと答えた。
「あれはだね、シンの国の古い兵法書からの覚えだよ。『ソンシ』という名の書物でね、十三篇の成り立ちの中に火攻篇があって興味を持って取り寄せてみたんだ」
「そういうことだったのですか」
リザはなるほどと思い、ロイの説明に相槌を打った。
「ところが、その篇の最後の部分にこんな文章があってね」
ロイは己の記憶を探るように目を瞑り、呪文の様な言葉を唱えた。

「細部は違うかもしれんが、こうだ。『怒りは復た喜ぶべく、慍りは復た悦ぶべきも、亡国は復た存すべからず、死者は復た生くべからず。故に明主はこれを慎み、良将はこれを警む(いましむ)。此れ国を安んじ軍を全うするの道なり』」

「難しい言い回しですね。しかし大佐、兵法書というものは戦争のやり方を指南する書物であるはずですのに、警めるですとか慎むですとか押しとどめるような表現があるのは何故なのでしょう」
リザの言葉に、ロイは嬉しそうに目を開くと彼女の疑問に答える代わりに、先程の言葉の口語訳を口にした。
「『怒りはいつか薄れ喜びの心が戻る事もあるが、滅んだ国は戻らないし、死んだ人間も帰っては来ない。だから、良い君主や将は無駄な戦いはしない。それこそが国や軍を守る最善の方法なのだ』という意味合いの言葉なのだがね、まったく火攻めには5つのやり方があるだとか、火災を大きくするに都合の良い日だとかを事細かに書いておきながら、締めの言葉がこれだ。ふざけた本だと思うだろう?」
ロイは楽しそうにそう言いながら、自分の髪を梳くリザの手を掴んで緩く指を組み合わせるように彼女の手を握った。
疲れている所為だろう、常より饒舌な彼の言葉に耳を傾けながら、リザは自分の知らない国の不思議な兵法書の内容に少し心を奪われる。
リザの曖昧な笑みを面白そうに下から見上げながら、ロイは語り続ける。
「面白くなってね、全文を読んでみたのだが『無駄な戦いはするな』、『戦争をする時は兵や国民の為によく考えろ』『戦争は浪費だ』と書き連ねた上で、非常に現実的に戦争に勝つ方法を説くんだよ。あげく、兵士を死地に放り込めば勇猛果敢な軍が出来あがるだとか酷い説まで説いている。まったく、こんな兵法書は見たことがない」
リザの手を握る力をぎゅっと強くして、ロイは彼女の視線を掴まえる。
「君はどう思う? この不思議な本を」
「どう、と申されましても、ただ……」
「ただ?」
「最初のお言葉を聞く限り、用兵や戦略よりも思想書に近い部分があるように思います」
「ああ、確かに君の言う通りだ」
ロイはゆっくりと起き上がるとリザと並んで座る形になり、不意に真面目な声になって言った。

「『亡国は復た存すべからず、死者は復た生くべからず。故に明主はこれを慎み、良将はこれを警む』……」
こくりと頷いたリザに、ロイは返事をせずじっと彼女を見た。
穏やかなサイドテーブルのランプに照らされたロイの瞳が、リザを目の前で揺らめくように瞬きを繰り返す。
彼がこの言葉を諳んじている、ということは、彼はこの言葉を己の胸に刻んでいるということなのだろう。
リザはロイの言葉の言外の意味を汲み、過去を思う。
“滅んだ国は戻らないし、死んだ人間も帰っては来ない”、その事実を彼らは痛いほどに知っている、その身体で、その経験で。
彼は“良将”となろうと足掻き、“明主”とならんと茨の道を進む。
リザは彼の瞳を見つめ返し、そっと彼の望む言葉を口に出した。
「大丈夫ですよ、もしも大佐がその慎みや警めをお忘れになった時は……」
リザは愚図る子供をあやすように彼の手をしっかりと握り返し、己のショルダーホルスターに収められた愛銃をポンと上から叩いてみせる。
「ああ、頼む」
「何を今更」
リザがいつもの返事を返せばロイはくしゃりと表情を崩し、彼女の手を握ったまま再びベッドに上体を倒した。

「ああ、それにしても疲れた。子供相手の手加減は、本当に気を使う」
そう言ったロイの手は熱く、リザはその熱の届く範囲にいられる自分の今を思う。
彼が何処まで行けるのか、果たして自分がこの手で彼を撃つ日が来るのか、今の彼女には分からない。
しかし、少なくともこうして彼の想いを聞き、こうして彼の手を握る事は出来る。
「大佐、お疲れでしたら早くシャワーを使ってお休みになられれば……」
そう言いさして、リザはいつの間にかロイが小さな寝息を立てている事に気付く。
 
この無防備な寝顔を見守る事も、今の自分に出来る事の一つなのかもしれない。
リザは自分にそう言い訳し、しっかりと自分の手を握ったまま眠り込んでしまった男の夢を守るべく、暫く男の眠りに付き合う事を決め、そっと窓の外の月を見上げた。
 
Fin.
 
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【後書きのようなもの】
 3巻「外伝軍部祭り」補完で、静かな優しい夜シリーズセントラル出張編。「孫子」は本当に面白い書物です。
 
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