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「すまない。少し、寄り道をしても構わないか?」
 夕闇に染まり始めた街路で立ち止まったロイは、リザに向かってそう言った。彼女は微かに小首を傾げてみせた。
 市井の様子を自身の目で見回るという彼のポリシーに則った、金曜日の定例の巡回の帰り道。彼ら二人とも軍服に身を包んではいるが、既に終業時間は過ぎているし、今日のデスクワークのノルマは達成されていることは彼も彼女も知っている。
 この状況で、きちんと副官に対して寄り道のお伺いを立ててくるロイの律儀さに、リザは内心で苦笑する。彼女は夕映えの中で、僅かに厳しい表情を崩した。
古書店にお寄りになるのでしたら、私はお付き合い致しかねますが」
 彼女の言い様に、ロイはくしゃりと表情を崩す。
「ああ、そういった場所には非番の時にしか行かんよ。時間が幾らあっても足りん場所だ」
「では、どちらに?」
 また夜遊びにでも行くのだろうか。そう考えた彼女の問い掛けに、ロイは拍子抜けするほど真っ当な答えを返して寄越した。
「三丁目の角のテーラーだ。先日スーツをオーダーしたのだが、頼んだ生地の製造に際してトラブルがあったらしくてね。生地を選び直して欲しいと連絡があったんだ。さほど時間は取らせん。もし所用があるなら、君だけ先に直帰してくれて構わんが」
 ロイの提案を受け、リザはくるくると思考を回転させる。
確かに、ここでロイと別れて直帰してしまっても構わない。だが、東方司令部に戻るまでは巡回の延長のような気がして、どうにも収まりが悪いと彼女は感じてしまう。どうやら彼女も彼のことを笑えない程度には、律儀な人間であるらしい。それなら、さっさと彼の用事を済ませて司令部に戻り、帰宅するのがベターだろう。
 リザはそう結論を出すと、ロイの先に立って歩き出した。瞬時に結論を出したリザの思考回路を理解する上官は、苦笑しながら彼女の後を追ってくる。
「相変わらず、君も律儀だな。職務は終わっているのだから、私に付き合う必要などないというのに」
 そう言いながら、ロイは彼女の隣に並んだ。
「さほどお時間は必要ないのでしょう? でしたら、お待ちいたします。貴方をお一人にして何かトラブルでもあれば、巡回のお供をした意味がなくなってしまいます」
 彼女の可愛げのない言い様に、ロイは芝居がかった様子で肩を竦めてみせる。
「信用無いな」
「何を今更」
 お定まりの台詞を吐き出して、リザはふっと夜の街へと視線を向けた。
 ロイと査察に出る時は、彼女の方が一歩引いて彼の背中を歩くの常だ。だから、軍服で二人並んで歩くこの状況は、どうにも落ち着かない。彼の背中を見る定位置に戻りたいが、どうやら今の彼はそれを許してはくれなさそうだ。
 そんな彼女の思考を裏付けるように、ロイは彼女の方を向いてこんなことを言った。
「ああ、君が一緒に来てくれるのなら、この際だ。君に生地を見立てて貰おうか」
 思い掛けないロイの言葉に、リザは眉間に皴を寄せた。
「それは副官の仕事ではありません。大佐」
「そうは言うが、既に職務は終わっている」
「そうはおっしゃいますが、現在の我々は軍服を着た軍人です。公務の時間にプライベートにお付き合いするだけでも問題なのですから、公私混同はお控え下さい」
 取り付く島もないリザの返答に、ロイはまた大袈裟に肩を竦めてみせる。
「まったく、君は律儀だな。こんなことなら、一旦帰宅してから君を連れ出せば良かった」
 軍人の顔と私人の顔を分けることは、彼らの暗黙のルールだ。頭の硬いリザは勿論のこと、変なところで律儀なロイも、そのルールだけはきちんと守っている。軍の規律に触れないように、という理由も勿論ある。だが、もっとも大きな理由はリザの生真面目さにあると言って、相異無いだろう。
「まぁ、副官としての君に見立ててもらうというのも悪くない、か」
 ロイは自分で自分を納得させるように独りごちると、さっさと彼女の前に立って歩き出す。彼の軍服の背中を見つめるいつものポジションに安心しながら、リザは「候補を絞る際、某かの意見が必要であれば」と彼の言葉に対する折衷案を提示すると、彼の後を追った。

 テーラーでのロイの用件は、到着してものの五分も経たない内に終わってしまった。
 戦場での即断即決が求められる軍人が、たかがスーツの生地一枚に悩むことなどあるわけがないのだから、当然と言えば当然だ。しかも相手は、ロイを熟知したベテランの仕立屋だ。店主がロイの前に並べた布地は、如何にも彼が好みそうなものばかりだった。結局ロイはその中から、更に追加で一着スーツをオーダーする羽目に陥っていた。
 すっかりテーラーの主の手腕に完敗したロイを苦笑で眺め、出番のなかったリザは副官として護衛の任務を全うするだけで店を立ち去れそうなことにほっとした。
 今度こそ司令部に戻り、まっすぐ帰宅しよう。そう思ったリザの耳に、テーラーの店主とロイの会話が届いた。
マスタング様。この度はこちらの不手際で幾度もご足労を頂くことになり、大変失礼致しました」
「仕方あるまい。しかし、あの事件の余波がこんなところにまで出るとは驚きだ」
「おっしゃる通り、興味深い事例でした。ですが、マスタング様にご迷惑をお掛けした事実に変わりはございません」
「そうだな、君の謝罪は受け入れておこう、今日の私は君の商才に完敗する為に、ここに呼びつけられたようなものだからな」
「これは心外な。お詫びの品もこうして用意いたしましたというのに」
 そんな言葉と共に、店主はロイの前に平たい木箱を開いた。リザの立つ場所からは箱の中身は見えなかったが、ロイが少し嬉しそうな顔をしたことだけは分かった。
 何だろう? リザは興味のない体を装いながら、二人のやりとりを見守った。
「本日のお詫びです。どうぞ、お好みの物をお持ち下さい」
「構わんのか?」
「もう一着、スーツのオーダーを頂きましたお礼も込めまして」
 生真面目にそう言った初老の男は、ふっと表情を笑みの形に崩した。
「いつも愛用なさっていらっしゃるようですから、予備があってもよろしいかと思いまして」
「では、遠慮なく頂いていくとするか」
 ロイは店主の笑みにつられたように笑うと、不意にリザを振り向くと、手招きをした。
「折角ついてきて貰ったというのに、なんの任務もなくては君に申し訳ない。一つ、私に合う物を選んでくれないか?」
 店主はロイの為に何を用意したのだろう? ロイが躊躇無く受け取るということは、さほど値の張るものではない筈だ。なおかつ、あのサイズの木箱に入るものと言えば、ネクタイかカフスボタンといったところだろうか。
 そんな好奇心を隠しながら、リザは素っ気無くロイの申し出を蹴った。
「それは私の仕事ではありません」
「私が選ぶと、店主の策略にはまって余計なものまで買わされてしまう」
「それは大佐のご都合でしょう」
 リザは頑として、ロイの言葉に逆らい続ける。だがロイの方も慣れたもので、彼女のポーカーフェイスに構うことなく言葉を続けた。
「ここへ来る前に、必要であれば選んでくれると言っただろう」
「それはスーツの生地の話だった筈ですが」
 彼女はそう答えながら、結局は好奇心に負け、木箱の方へと歩み寄った。
 彼女は箱の中を見て、僅かな目眩を覚えた。
 そこにあったのは、箱いっぱいに整然と並べられた手袋であった。確かに発火布の手袋を筆頭に、普段からロイは手袋を使用することが多い。
 だから、店主の選択は正しいものであるだろう。
 だが。
 リザは自分の心臓が、仄暗い欲望の熾き火に炙られるのを感じた。
 手袋。
 たくさんの、手袋。
 色も形も素材も様々な、手袋。
 彼女の上官の大きな手を包み込む、手袋。
 リザは堪らず、僅かに瞳を伏せる。
 密やかな欲望が瞳から零れてしまわないように、彼女は注意深く感情をいつもより更に奥深いところに隠した。そして、さも仕方なく上官の命令を聞く体で、店主に手袋を手にとって見る許可を乞うた。