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「君はもう飲まないのか? エリザベス」
そう言った男は彼女の返事も待たず、彼女のグラスにボトルの白ワインを注ぎ入れた。
彼女は艶然としてボトルの口から垂れる甘い滴をぬぐう男の指先を眺め、そして机上に置かれているもう一本のボトルへと視線をやった。
彼女はついとグラスを男の方へと押す。
「私、赤いお酒が飲みたいわ。ロイさん」 
「なんだ、もう飽きたのか。困った人だな、君も」
そう言った男は愉快そうに笑うと、まるでそれが当然であるかのように彼女が押しやったグラスを手に取り、グラスに残った彼女のルージュと一緒にとろりとした果実酒を飲み干す。
彼が喉を鳴らすたび、まるで別の生き物のように彼の喉仏が揺れた。
彼女は笑みを崩さぬまま、ネクタイとワイシャツの襟で半ば隠された男の喉元を見つめる。
普段は高い軍服の襟で完全に隠されている首筋の意外な色の白さを目に刻み、彼女は自分も普段は露出することのない肩のラインを強調するように、己の手で己の肩を撫でた。
彼女は自分の手の動きに合わせて白い肌の上を這う男の視線を感じる。
この分だと彼女の視線の行く先も、彼には知られていることだろう。
即ち、彼女の欲望も。
そう思うと、身体の深奥が疼いた。
彼女は疼きを堪えきれず、酒精分の力を借りてドレスに包まれた足を緩やかに組み替えた。
深紅のドレスの深いスリットから、彼女のむっちりと白い腿が露わになる。
普段の彼女なら絶対にしないはしたない行為に、男は微かな驚きを滲ませながら素知らぬ顔で飲み干したグラスをテーブルに置いた。
グラスから彼女に視線を移した男は彼女の挑発を受けてたった証に、彼女と視線を合わせていかにも好色な笑みを浮かべてみせた。
その笑みと共に彼の視線が、ゆるりと彼女の身体を撫でた。
首筋から肩へ。
肩から胸へ。
下腹部を撫で、腰を滑り、男の視線はスリットの切れ目へと届く。
余裕の笑みを浮かべた男のねっとりと嘗めるような視線が彼女の肌を這う。
絡まぬ視線の中で、触れさえせぬ肉体が絡んだ。
しかし、男の視線はそれだけでは満足しない。
人目に触れさせることなど無い彼女の隠された場所を彼が求めていることを、黒い瞳は隠そうとしなかった。
その明白な欲望が更に彼女を昴らせた。
挑発に対する挑発のお返しに、彼女の背筋にゾクゾクと痺れが走る。
だが、まだこんなところで勝負を決するわけにはいかない。

リザはすっとドレスの裾を直すと、妖艶な女の顔をして己の上官を見上げた。
「もう、ロイさんったら」
「なんだい? エリザベス」
上官の顔を隠し手練手管に長けた男として彼女と相対するロイは、甘い声で彼女の鼓膜を撫でた。
ぐらりと揺らぐ理性の手綱を引き、リザは囁くように彼に言う。
「久しぶりにお会いしたのに、せっかちな方ね」
「君があまりに魅力的すぎるからさ」
ロイは恥ずかしげもなく気障な台詞を吐くと、空いた瓶の傍らにあった赤ワインに手を伸ばした。
ロイは先ほど自分が中身を飲み干した彼女のグラスに半ばまでワインを注ぐと、すっと彼女の前へとそれを滑らせた。
「君のリクエストの赤い酒だ。口に合うといいのだが」
「貴方が何か楽しい話をしてくださったら、どんなお酒でも美味しくなると思うわ。ロイさん」
「まったく、嬉しいことを言ってくれるね。君は」
駆け引きに満ちた会話が夜に満ちる。
彼らは笑みを交わし、杯を交わし、主導権を握るための見えない刃を交わす。
「ねぇ。何か楽しいお話をしてくださる? ロイさん」
「ああ、君が望むなら。さぁ、なにを話そうか。エリザベス」
真っ赤なアルコールと嘘で舌を染め、二人は夜の中で向かいあう。
男を誑かす夜の女『エリザベス』と、夜を遊ぶただの男『ロイさん』として。

     §

二人が生産性に欠くこの遊びを始めたのは、数年前のことだった。
潜入捜査の為、マダム・クリスマスの店に預けられたリザの修行の成果を確認するという名目で、ロイは彼女にこの『ロイさんとエリザベスごっこ』を仕掛けた。
いつもながらのロイのお遊びにうんざりしながら、生真面目なリザはそれでも律儀に上官を相手に夜の女を演じてみせた。
甘ったるい喋り方。
男の視線を釘付けにする仕草。
挑発を含ませた眼差し。
マダムから教わった、男を惑わせ情報を引き出す為の技術を、リザは機械的にトレースし、ロイの相手をした。
最初は莫迦莫迦しいと思っていた筈だった。
しかし、マダムの的確な指導はロイを相手にしてさえ絶大な効果をもたらした。
そして、リザは知ってしまったのだ。
彼女の一挙手一投足に反応して表情を変える、ロイの中の雄の存在を。
彼女の言葉に揺れ、隠し切れぬ劣情を滲ませるロイの中の獣の存在を。
それと同時に、リザは自覚してしまった。
彼の反応を楽しみ策を練りながら獲物を嬲る、彼女の中の雌の存在を。
彼の眼差しに犯され熱を上げる体を持て余す、彼女の中の獣の存在を。

今まで何となくは感じていながらも、上司と部下という仮面の下で曖昧な境界に隠されていたもの。
それが、この危うい遊びによって白日の下にさらされてしまった。
それでも隠そうとする相手の自分に対する想いを確認したくて、彼らはあらゆる駆け引きを繰り返す。
駆け引きは熱を生み、身の内に溜め込んだ熱は彼らの中で膨らみ続け、その熱は新たな熱を欲し続ける。

     §

「そういえば先日、六丁目にセントラルで有名なジュエリー店が支店を出したことを君は知っているかい?」
リザはロイが提供した話題に、素知らぬ顔で嘘の返事をする。
「ええ。お店の女の子たちの間で話題になっているわ」
本当は、査察の帰りに偶然店の前を通りかかった時、ロイから教えてもらった。
しかも、彼は冗談めかしてその店の品を贈ろうかと彼女に言ったのだ。
副官として彼に随行していた彼女は、とりつく島もなく、彼のその申し出を断った。
過去を反芻し、リザは彼の何かを企んでいそうな顔を見る。
きっと、ここから彼は何らかの駆け引きを仕掛けてくるに違いない。
リザは胸の内で身構えながら表情にはそれを出さず、ただ微笑んでワイングラスを口に運んだ。
「そこは蹄鉄の形をしたアクセサリーが売りだそうでね」
「幸運のお守りね。素敵だわ」
「だから、プレゼントとしてとても人気が高いらしい」
「プレゼント?」
リザは怪しくなりそうな雲行きに、微かに眉をひそめた。
ロイはそんな彼女に笑って言う。
「幸運のお守りは大切な人にだけ贈るものだからね」
「そうかしら?」
「当然だろう、大切な人の幸福を願うのは」
リザは彼の言葉に相づちを打ちながら、彼の駆け引きの行方を見つけだす。
それに気づいたロイは己の魂胆を分かりやすく彼女の前に提示してみせる。
「私にとって、君は大切な人だ。エリザベス。どうか、これを受け取ってくれないか?」
「まぁ、ロイさん」
「気休めだが、君を守る存在でありたいんだ」
既に用意されていた小さなダイヤをあしらった馬蹄形のピアスに、リザは内心で溜め息をついた。

リザのお給料では到底手が出ない高級ブランドの品は、彼と彼女の関係を他人に勘ぐらせる種になりかねない。
だから、彼女はこれを受け取ることは出来ない。
それでも、そこに込められた彼の想いは嬉しい。
それは、彼女がエリザベスでいる時にだけ、彼が言葉にして伝えてくれるものであるからだ。
上官と副官としてはけして言えない言葉が、嘘と芝居いう名のオブラートに包んで差し出される時、彼女は至福の刹那に溺れそうになるほどなのだから。

ロイの想いを受け止め、リザは自分のエリザベスの顔が揺らぐのを感じる。
敏感にそれを感じ取ったロイは、さらに彼女に畳みかける。
「私の義母も君と同じ商売をしていてね、よく『客からの贈り物は、自分の魅力を認められた証だ』と言っていた。私は君の魅力に心から参っているのでね、その証だよ」
「でも、ロイさん。こんな高価なものいただけないわ」
「なに、気にすることはない。君が今飲んでいるワインよりは、よっぽど安いさ。なにしろその赤は一九〇〇年のヴィンテージものだからね」
しまった。
罠は周到に最初から張り巡らされていたのだ。
リザは胸の内で臍を噛む。
そんな彼女に向かい、ロイは隠すことなく溶けそうな眼差しを向けてくる。
「持っていてくれるだけでいいんだ、エリザベス。ただ私に君の幸運を祈らせてくれ」
ロイはそう言いながら、彼女の前にアクセサリーの入った小箱を置いた。

真摯な想いのこもった言葉にリザは頬を染めた。
こんなひたむきな言葉と眼差しを向けられて、平静でいられるわけなど無い。
だが、リザは彼との駆け引きの攻守をひっくり返すべく、隠し持っていたジョーカーを切った。
そう、こういう時のために、彼女はいくつかの切り札を隠し持っているのだ。

リザはちらりと小箱を一瞥し、それからにっこりと笑ってロイを見た。
「ロイさん、ごめんなさい。やっぱり受け取れないわ」
「どうしてだい? エリザベス。遠慮することは」
「遠慮じゃないの。私にはたったひとつの特別な幸運のお守りがあるの」
ロイは彼女の返事の意味が全く分からない様子で、小さく首を傾げた。
「どういうことだい? エリザベス」
リザは彼の言葉に答えず、ワイングラスを手に取った。
男を焦らすように彼女はゆっくりと深紅の液体を味わうと、僅かに中身の残ったグラスを小箱の隣に置いた。
そして彼女の言葉を待つ男にこう言ったのだった。
「ロイさん、私にはとても大切な人がいるの。その人のお守りが、私にとってもたった一つお守りなのよ」
「どういうことだね? エリザベス」
訳が分からないなりに怪しくなりそうな雲行きを察し、今度はロイが微かに眉をしかめた。
リザはそんな男の顔を愛おしく見つめ、そっと彼の方へと身を寄せた。
そして、焔のように紅いルージュを塗った唇を彼の耳元に寄せると、甘く囁いた。
「その人はね、私のあげた火蜥蜴を大事に持ってくれているの。大事なお仕事の時には、その火蜥蜴に必ずキスをして出かけるくらいに」
彼女がその言葉を彼の耳に流し込んだ次の瞬間、ロイの耳は彼女のルージュと同じ色に染まった。
「……どうして、それを」
彼女に聞こえるか聞こえないかほどに小さく、彼はエリザベスとロイさんのルールを忘れ、素の声で呟いた。
リザは自分の切ったカードがゲームの勝敗を決めたことを知る。

ロイは前線に向かう時、誰にも気付かれぬようそっと発火布の手袋に口付ける。
出陣の直前に、握った拳の甲のいる火蜥蜴に向かい、祈るように。
そして、彼はきりりとした国軍大佐の何ものをも恐れぬ顔を作り上げ、死線へと飛び出していくのだ。
彼は自分のそんな姿に、リザが気付いていることを知らない。
それは、彼の秘密の儀式であるのだから。
でも、鷹の目は何ものをも見逃さないのだ。
彼のそんな姿を初めて見てしまった時、彼女は知らず自分の頬が紅く染まるのを感じた。
だが、人目をはばかりそんな気障な行為を行う彼の姿に、彼女は喜びに似た感情も抱いた。
複雑な彼等の関係を象徴する火蜥蜴。
それさえ、彼はこれほどまでに愛してくれているのか、と。

だから、彼女はエリザベスとロイさんのルールに則って、自分の想いを彼に伝える。
「だから、私が信じるお守りは、その火蜥蜴だけなのよ。あの人と私を繋ぐ複雑な意味を持つけれど、それでも、大切なお守り」
リザがそう囁き終えた瞬間、ロイは己の方へ傾けられた彼女の肉体を不意打ちに抱きしめた。
羞恥に歪む顔を見られたくないせいか。
それとも彼女の言葉に煽られたのか。
どちらにせよ、今の彼女にはそれを確認する余裕さえなかった。
「ロイさん?」
彼女の問いかけに答え、甘く掠れた声が彼女の耳元で囁かれた。
「まったく。君には敵わないよ、エリザベス」
低いバリトンの声を流し込まれ、少し乱暴にさえ思える彼の腕に抱かれ、リザの心は彼の次の行動への期待に震える。
チュッと甘い音が耳元でたち、彼女の耳朶に彼の唇が這う。
リザはいきなり与えられた刺激に身を震わせた。
濡れた唇と共に、媚薬のような言葉が彼女の耳を刺激する。
「教えてあげるよ、エリザベス」
そこで意味深長に言葉を切った男は今度こそその声にまで欲望を露わにし、彼女の背中に手を回す。
「その男が本当にキスをしたがっているのは、己の手の甲の火蜥蜴ではなく、君の背中に住む火蜥蜴なのだよ」
その言葉と同時に、彼女のドレスの背中のファスナーが引き下ろされた。
「あ」
ロイの指先が彼女の火蜥蜴に触れ、リザは甘い吐息を強要される。
「男の秘密を曝くとは、悪い子だな。エリザベス」
そう言った男は彼女を組み伏せ、先程の言葉通りに彼女の背の火蜥蜴をべろりと舐めた。
「……あ、ンッ!」
背筋を甘い熱が走り抜け、リザは小さな悲鳴をあげる。
ロイの舌の這った軌跡から、アルコールと視線と駆け引きに引き上げられた熱が一気に放出していく。
息も絶え絶えの彼女の耳元で、再び男の声が響く。
「お仕置きの覚悟は出来ているだろうね」
そんな宣告と共に動き出したロイの唇と指先に、彼女は更なる悲鳴をあげさせられる。
それを合図に衣擦れの音と甘やかな吐息が闇を満たし、やがてそれは獣の息遣いと劣情の熱とに変わっていく。
もはやそこには勝負の勝ち負けも、駆け引きも存在しなかった。
エリザベスとロイさん、リザ・ホークアイロイ・マスタングの境界が曖昧になる。
互いの言葉が生んだ熱が、彼等の輪郭を溶かしていく。
そして彼等は麻薬のような熱に焦がれ、身を焼かれながら、ひとときの幻に酔うのだった。

Fin.

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 613! ロイさんの日ですよ! この時期いつもは更新出来ないので、今年は気合いを入れました。R15って程でもないですが。
 男は純情、女は魔性。たまにはロイさんをやり込めるエリザベスちゃんもありかなと思います。
 お気に召しましたなら。

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