不可侵領域 ー ソファーのある風景 番外 ー

 彼の部屋の明かりは、点けられないままであった。
 ただ一灯、いつもは彼の穏やかな時間を照らしている筈の読書灯が、広いリビングに薄ぼんやりとした陰影を落としている。
 薄暗い照明はリザに少し頼りない思いを抱かせたが、彼女はその感情を表に出すことなく、まっすぐに背筋を伸ばして視線を手元に落とすに止めた。淡い光の輪の届くギリギリの範囲に入ったソファーの片隅で、青い軍服に残った煤汚れがぼんやりと暗闇に輪郭を滲ませる。汚れた膝の上で重ねた彼女の指先は、やはり火薬と煤とで黒く汚れていた。指先の汚れは爪の隙間に入り込み、彼女の胸の中までも侵食しそうに見える。
 そんなものは錯覚であり、煤は煤に過ぎない。自分の揺らぐ感情が、そのように感じさせるだけであるのだ。
 そう考えながら、リザは黒くなった爪の先をそっと指先でなぞる。黒い粉末がハラハラと膝の上に散り、リザは慌ててそっと自分の指先を握った。
 ソファーを汚さないようにしなくては。
 リザは何か他の事を考えることで、思考が狭窄しないようにしながら、己の横に置かれたクッションを少しだけ後ろにずらす。そして彼女はまた、ソファーの端で静かに視線を伏せた。
 疲れ切った身体は休養を欲している。だが、彼女はこの場を立ち去る訳にはいかなかった。
 副官の姿勢を崩さぬまま、リザはきっちりと揃えた膝の上で手を重ね、ただ時を待つ。

          §        

 陰惨な事件の収束は、呆気ないものであった。
 イーストシティ中心部で起こった一般人を巻き込んだ無差別テロは、総計十七名の死者を出した挙句、犯人達の自殺で幕を閉じた。一昼夜に渡る説得は何の意味もなさず、突入作戦は遅きに失し、五名の人質は全員死亡。作戦に携わった軍人も二名、二階級特進の不名誉な栄誉を得ることになった。
 ロイが指揮を執った作戦で、これ程の死者が出ることはそうはないことであった。
 綿密な作戦の立案と、大胆な作戦の決行は彼の十八番であった筈だった。だが、狂気を宿した者を相手にした時、常識人である彼の論理は何の効力も発揮しなかった。彼が無能なわけではなかった。他の誰が指揮を執ったとしても、これ以上被害を抑えることは難しかっただろう。
 作戦に携わった誰もが自分を責め、任務を果たせなかったことに忸怩たるものを感じていた。リザとて間に合わなかった己の弾丸の数瞬の遅れを、適わなかった人質の奪取を、己の関わった全ての失策に唇を噛み、自身を責めた。だが、彼女の持つそれは、あくまでも命令を受けた部下としての責任の範疇での苦悩でしかなかった。指揮官であるロイの負うものは、その比ではないのだ。全ての作戦の責任を負い、全ての死の責任を負い、部下の悔恨と慙愧の捌け口さえ引き受けるのが、上に立つものの責務であった。その重責は、リザには想像もつかぬものであった。
 更に付け加えておくならば、本来、この事件を担当する予定であったのは、ロイではなく別の佐官である筈だった。要は、彼は貧乏籤を引かされただけなのだ。それも、意図的に。今頃、死者の数を気にすることなく、ロイの失策に祝杯を上げている輩が幾人もいることは間違いなかった。
 だが、ロイは自分を責めた。彼はそういう男だった。
 だからリザは、解散の命令が出た後も彼を置いて帰ることが出来ず、無言でロイの後についてきたのだった。

            §        

 ロイは彼女と反対側のソファーの端に、膝に肘をついて座っていた。
 脱がぬままの黒いコートのポケットから、煤けた発火布の手袋が顔を覗かせている。彼の青い軍服は黒いコートの影になり、黒々とした室内の闇に馴染んでいる。読書灯の真下で深く俯いたロイの黒髪が、光の輪の中で闇を映したように浮かび上がる。そして、彼の表情もまた、濃い陰影の底に隠されていた。
 まるで彼の全てが闇に塗りつぶされているかのように見え、リザは声にならぬ思いをぐっと飲み込んだ。

 帰宅した彼は真っ直ぐに廊下を抜け、リビングを突っ切ると、ものも言わずにソファーに沈んだ。
 リザはただ黙って、その様子を見守るしかなかった。
 彼女がついてくることに、ロイは何も言わなかった。「ついてくるな」と言われても、彼女は彼を放ってはおけなかったから、リザは彼が彼女の存在を拒まなかったことに少しだけ安堵し、彼について彼の部屋に入っていった。
 彼が電灯を点けなくても、勝手知ったる彼の部屋でリザは躓くことはなかった。真っ暗な廊下に二人分の足音がコツコツと鳴り、こんな時でさえ規則正しい軍靴の響きを夜の静寂にもたらした。
 カーテンを開け放したままのリビングは、廊下よりも少し明るく、ソファーに座り込んだ彼の姿を朧な月明かりが静かに浮かび上がらせる。その冷たい光は彼の心中を照らし出すようで、リザは少し迷った末に部屋の明かりではなく、読書灯の灯りを点けるため、細いスイッチの紐に手を伸ばした。柔らかなオレンジ色のライトが、彼の邪魔をしない程度に、暖かな色を部屋に添えた。
 部屋に微かな明るさをもたらした彼女は、そのまま足音を殺してソファーの反対側に回り、ロイと逆の端に静かに腰を下ろした。
 何も出来ぬ自分を持て余したまま、彼女はじっと彼が己を必要とする時を待った。

 どのくらい、そうしていただろう。
 リザが静かに膝の上に置いた手を重ね直した時、不意にロイの手が動いた。
 視線だけを動かした彼女の前で、ロイは傍らのサイドテーブルに手を伸ばすとその引き出しをガタリと開けた。彼女が見守る中、ロイの手が引き出しの中から取り出したのは、掌に乗る程度の小さな箱であった。少し顔を上げたロイはその箱をサイドテーブルの上に置くと、更に引き出しを探る。次に引き出しの中から現れた彼の手が掴んでいたのは、灰皿とマッチであった。
 リザの見守る中、男は何も言わず机上にコトリと灰皿を置くと、その代わりにさっき置いた煙草の箱を掴む。
 トン、と長い指が箱の底を叩く。
 飛び出した一本を箱から直に口に咥え、ロイは手の中に握ったままにしていたマッチ箱から器用に片手で一本のマッチを取り出すと、咥え煙草に火を点けた。燐の焼ける臭いと、煙草の臭いが同時にリザの鼻腔を刺激する。だが、彼女は何も言わず、視線を己の膝の上に戻すに止めた。
 ゆらりと立ち昇る紫煙が、読書灯の光の下で揺らめく。煙草を吸うロイの深い息が、煙草の先に灯った火を深紅に燃やす。そして、大きな溜め息の代わりに吐き出された煙は、たちまちの内に闇へと溶けていってしまう。
 煙草を右手の指先に挟んだロイは、煙草を持ったままの手の甲に顎を載せた。眉間に深い皴を刻み、苦悩の表情を隠そうともせず、じっと彼は闇を見つめる。煙草の先に灯った小さな明かりが、彼の眼差しの行方を照らすともなく闇に揺れている。
 リザは自分の方へと流れてさえ来ない煙の行方と、まったく動かぬ彼の表情の狭間に、彼の吐き出せぬ思いを見る。そこには、今日一日の内に彼の中に堆積した負の現実が垣間見えた。

 救えなかった命の重さ。
 耳に残る断末魔の悲鳴。
 地面に散った大量の血痕。
 罪を犯したものに償いの機会を与えられなかった悔い。
 また、自分達の手が何者も救えなかった事実。

 青い軍服の生み出した結末の全てが、そこにはあった。きっとロイはこのまま何も言わず、自分の身体を苛める嗜好品の中にその全てを閉じ込めて、自分の中に飲み込んでしまうだろう。その紫煙と一緒に。
 そして、明日になれば、まるで何事も無かったかのように、不遜な若者の顔で常と変わらぬ一日を始めるのだ。デスクワークをサボリ、部下を叱咤し、査察に出、事件が起これば誰よりも早く駆け出す、そんな彼女の上官として。彼の失敗を喜ぶ輩に尻尾を掴ませぬように。
 そんな彼の行き場のない痛みが痛ましく、それでもそれに触れることさえ出来ぬ自分を知り、リザはただ彼の傍らに座り続ける。

 ロイの指先から立ち昇る煙が彼の視線の先で渦を巻き、闇をかき混ぜる。
 予測の出来ない動きをする煙を見ているのか、今日一日の出来事を記憶の中に反芻しているのか、その黒い瞳が映しているものは彼女には見ることは出来ない。それでも、同じ椅子の端に座り、彼の苦悩の場に同席する事を許された事実だけで、彼女には十分であった。
 少なくとも、この部屋には彼が一人で空を見つめ煙草を吸うよりは、人ひとり分の温度の上昇があり、読書灯一灯分の明るさが増し、彼が孤独に自責する事を許さぬ空気が存在していた。それが彼女に出来る、彼の邪魔をしない範囲での精一杯のお節介であった。
 ソファーの端と端で、二人は言葉も交わさぬまま、ただじっと闇を見つめる。それは、ロイが常の自分を取り戻す為に必要な時間であり、それを無言で受け止める事しか出来ないリザの懺悔の時間であった。
 そう広くはない部屋に、ゆっくりと紫煙が流れていく。この一日の全てを現すような苦い煙草の臭いが広がり、二人を静かに包んだ。ロイが紫煙を吐き出す細い吐息と時計の秒針の音だけが闇を揺らし、深夜の彼の部屋に流れる時間は煙草の煙と同じ緩慢な流れで部屋を満たす。同じ歩調で流れる時間と煙は、ゆっくりと彼の手の中の煙草を短くしていく。
 リザは姿勢を崩すことなく、じっと彼の沈黙を見守った。
 やがて、ふっと視線を闇から手元へと動かしたロイは、四分の一ほどを残したままの煙草を灰皿に押し付けた。
 指先でぎゅっと煙草の火を押し潰す行為は、まるで彼の苦悩の火種を押し潰す行為にも見え、リザは視線を灰皿の上にある彼の指先に固定したまま、その火が確実に消えるまで目を離さなかった。
 暗い部屋の中、一つの火が消えた。
 ロイは変わらず、闇を見つめていた。その眉間には苦悩の皴が未だ刻まれている。それでも、一服の時間を追えたロイは、まるでそうしなければならないかのように、ソファーから立ち上がった。
 彼が、自分に許す自責の時間が終わったのだ。
 ロイの瞳は未だ闇を見つめたままでいる。それでも明日になれば、彼は『いつもの自分』の顔を取り戻し、全てを反省すべき過去として飲み込み、前だけを見つめることを己に課すのだ。恐るべき意志の力をもって、彼は哀しみも怒りも飲み込んで、ただひたすらに前進する。それが、二人の約束した未来の為であるのだからと。
 ソファーを立ったロイはローテーブルをぐるりと回ると、寝室の扉の手前、リザの横で立ち止まった。リザは何も言わず、まだ黒いコートを着たままの男の姿を見上げた。
 真っ直ぐに彼女の見下ろすロイの視線は、痛いほどに鋭く透き通っていた。しかし、そこには彼のどんな感情も読み取ることは出来なかった。それでもリザは、彼の眼差しから逃げ出さず、その闇さえ受け止める。
 じっと彼女の瞳を覗きこんでいたロイは、不意にすっと上体を折ったかと思うと、彼女の顎を掴んだ。リザは彼の次の行動を予感し、静かに目を閉じる。
 闇を纏ったままの男は、苦い口付けを彼女に分け与えてくれた。煙草の味の舌が彼女の唇を割り、殴るような口付けは一瞬の嵐のようにリザの上を駆け抜ける。渇いた粘度の高い唾液が何かを分かち合うように二人を繋いだが、それも直ぐに離れていってしまった。
 目を閉じた暗闇の中、リザの膝の上に小さな重量とチャラリと鳴る音が落ちた。
「明日、〇七四五」
 ロイの声に、彼女は目を開く。膝の上に落とされたのは、彼の部屋の鍵であった。それを静かに握り締めたリザは、彼が明日の自分の為に用意したオーダーに、副官の顔で静かに答えた。
「サー、イエス、サー」
 彼女が答え終わると同時に、彼女の背後にあるロイの寝室の扉が開く。そして、無言のままその扉はぱたりと閉じられてしまった。
 リザは彼の部屋の鍵を握ったまま、やがてゆっくりとその場から立ち上がった。寝室に消えたロイの邪魔をしないように、リザは静かにリビングを横切り、廊下の電灯を点ける。少しだけ闇を明るくしてくれた読書灯の電気を消した彼女は、リビングの入り口で律儀な敬礼をする。
 紫煙の名残の残るその場所で、鼻腔をくすぐる煙草の香りに、リザは一瞬何かを考えるように自分の唇を中指の先でそっと押さえたが、直ぐに副官の顔を取り戻すと、彼に託された鍵で玄関を閉め、静かに彼の部屋から立ち去った。
 がちゃりと鳴る鍵の音で、寄り添えぬ夜の長さに封印を施して。それでも繋がる何かを、苦い唇の上に残して。

                         【完】


 こんにちは、青井フユと申します。こちらは、冬コミ新刊「ソファーのある風景」のおまけ本「不可侵領域」になります。

 「ソファーのある風景」のネタ出しをしていた時に、このお話も候補の一つだったのですが、頁数が少なすぎること、ユーリさんとライさんお二人のどちらに振って良いか分からない暗い話だったこと、他の六本とあまりに毛色が違うこと、場面転換がほぼないので挿絵が描き難そうなこと、喫煙ネタだったこと、などから没にしたのですが、やっぱり書きたくて書いてしまいました。(笑)
 書き上がって、お二人に「おまけで出したいんですけどー」とこのお話を読んで頂いたら、やっぱり三人とも喫煙大佐萌えで意見が一致し、「しまった。描いてもらえば良かった」と思いながら(笑)、趣味が似てるってやっぱり素敵だなぁと幸せを噛みしめています。

 しかし、普段は三人とも上司部下である二人の関係性をメインにお話を作っているので、今回のソファー本みたいなストレートにプライベート恋人関係本というのは珍しく、これはやはり、ソファーという小道具ならではの展開かなぁとも思います。
 普通に甘いの書くのも、時には良いものですねぇ。お陰様で、お二人が普段はあまり描かれないシチュエーションも拝見出来、もう個人的にそれだけでも頑張った甲斐があったと思う次第です。

 そうそう、後、今回のソファー本は絵も文章も間取り&家具配置をきちんと設定して描かれて(書かれて)います。間取りはライさんが、家具配置はユーリさんが主にまとめて下さいました。間取りの方はp32にチラ見せしてありますので、お二方の挿絵から我々の設定した「大佐のお家」を想像してみて頂くのも、面白いかと思います。
 なお、都合により、セントラル設定のお話もイーストシティ設定のお話も同じ間取りになっていますが、そこは大佐が錬金術で頑張ったことにしておいて下さると助かります。(笑)

 今回の本は、作る方が莫迦みたいに楽しんで作りました。(少なくとも私はアホみたいにウハウハして、週刊連載ペースでガーガー原稿書いてました。(笑))
 この楽しさとか萌えとかロイアイ愛とかダダ漏れのロイスキー具合が、皆様にガッツリ届けば嬉しいです。そして、読んで下さった皆様にも楽しんで頂けたら、これに勝る喜びはありません。同人誌って、ホント楽しいですね! 
 あー、楽しかった! ロイアイ大好きッスーv  
                      2012.12.29   青井フユ拝


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 【ひと言】
 後書きまで、まとめて収録してしまいました。
 あと間取りのチラ見せは「p32」ではなく「p34」でした。すみません。

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