真夜中の駆け引き

「大佐、もう少し……」
 真夜中の路地裏に、恥じらいを含んだ女の声が聞こえた。
 ほんの小さな声で囁かれた筈のそのたどたどしい声は、本人の意思に反して夜の静寂にこだまし、女は恥じ入るようにそこで口をつぐんでしまった。その代わりに堪えきれぬように漏れた彼女の吐息が闇を揺らし、路地裏に微かな艶が溢れる。
 凍えそうな空気に色を添えたその吐息に答えて、女が失った言葉を補うように低いバリトンの声が闇を震わせた。
「もう少し、何だね? 中尉」
 揶揄の響きを隠そうともしない男の甘い声が、闇に落下した女の艶を掬いあげる。
 男の意地の悪い言葉と共に、微かな衣擦れの音が闇を揺るがした。彼女の言葉にしない要望を的確に読み取った男が、北風の吹き荒ぶ中、彼女の為に厚い黒のコートの前を開いてやったのだ。男のその行為により、コートの中に隠されていた彼の体臭と体温が闇の温度を上げた。
「大佐……」
 ほっとしたように女の声が潤む。潤んだ声の持ち主はするりと暖かなコートの中に潜り込み、女が男の胸に寄り添った気配がした。
二つのシルエットが一つに重なり、男の手が女の腰を抱くように動いた。男の手の動きに身じろぎをした女は、何かを計るようにじっと俯いていた。しばらくの後、控えめな声が、それでも切羽詰まった口調で闇を揺らした。
「大佐、……もっと」
それを聞いた男の苦笑が、女の前髪をくすぐった。
「もっと? こんなところでかね」
 如何にもわざとらしい呆れ声の陰に笑いの気配を隠し、男は寒さに耳の端を紅く染める女の耳元に囁きを落とす。
返事は無かった。だが、それを予測していたらしい男は、彼女の返事を待つこともなく、先程より更に甘い声を彼女の耳に流し込んだ。
「もう待てない?」
 また返事は無かった。代わりに、こくりと頷く女の頭の動きがシルエットとなって浮かぶ。
密やかな笑みを浮かべた男は、それ以上の言葉を発することなく、女の為にコートの内に着たジャケットの前釦をも外してやった。女の手が温もりを求めるように、男のジャケットの内側へと潜り込む。胸を這う指先をくすぐったそうに受け止める男は、彼女を抱く手を緩めた。
 女は男の懐で十分に温もりを持った指先で、彼の肩口を引っかいた。ゆっくりと胸の中から、女の真剣な眼差しが男を見上げる。男は愉快そうに彼女のその眼差しを受け止めると、闇の気配を探るようにすっと目を細めた。やがて男は再び彼女の耳元に唇を寄せ、静かに優しく囁いた。
「君の好きにしたまえ」
 返事はやはり無かった。代わりに女の手が男の懐深くへと潜り込む。彼女の指の動きに、男は冷気の中で喉を鳴らした。
 次の瞬間。
 ガウン!
 闇に鈍い銃声が響いた。
「グゥッ!」
 路地の影に短い唸り声が響き、続いてドサリと重たいものが倒れる音がした。倒れ伏した影は厳つい男の姿をしており、その手からサイレンサーのついた拳銃が男の絶命と共に、ぽたりと地面に落ちた。
 そんな目の前の光景に動じもせずに、先程まで寄り添っていた筈の男と女の影は、再び二つに別れて静かに路地裏に佇んでいた。
闇に立つ女の手に握られた拳銃の銃口からは微かな硝煙の煙が立ち、その後ろでコートとジャケットの前を開けた男が空のショルダーホルスターを愉快そうな表情で弄んでいた。

          §

「まったく、本当に君は芝居が下手だな。何時気付かれるかと冷や冷やしたぞ?」
「申し訳ありません」
 倒れ伏した男を見下ろしていたロイは、呆れたような口ぶりとは裏腹に、自分の副官であるリザの勇ましい姿に笑みを含んだ視線を移した。ロイの懐から拝借した銃を彼に返しながら、リザは律儀に彼に反論をしてみせる。
「ですが、こんな場所で大胆にも大佐に対して暗殺を仕掛けてくる馬鹿がいるとは思いませんでしたので、他に方法がございませんでした。それに、大佐も演技とおっしゃるには状況のままのお言葉ばかりではなかったかと」
 リザの反論にロイは笑った。
「あまりに過剰な演技をしては、君が付いてこられないだろうと思ったものでね」
「これは失礼致しました」」
「それにしても驚いたよ。背後にあんなあからさまな殺気があるというのに、君がしな垂れかかってくるのだから」
「ですから、咄嗟のことですから他に方法がありませんでした。気付かれては、元も子もありませんから。大佐がすぐに私の意図に気付いてくださったので、助かりましたが」
「君ね」
 銃を受け取ったロイは、己のショルダーホルスターに銃を仕舞いながら、リザの言い様に苦笑した。
 ロイを狙った暗殺者の気配を察したリザは、ターゲットに気付かれないように、ロイと路地裏で睦みあう男女を装い、その油断を誘った。その上で彼女はロイがジャケットの下に装着したショルダーホルスターから銃を拝借し、振り向きざまの抜き撃ちで暗殺者を一撃の下に倒してしまったのだ。
 何の説明も無いリザの意図を読み取ったロイは、彼女の拙い演技に笑い出しそうになりながら、辛抱強く路地裏での寸劇に付き合ったのであった。
「あれで分からなかったら、本物の無能だろう。今日は雨は降っていないがね?」
「失礼致しました」
 上官の軽口を受け流し、リザは再び生真面目な口調で彼に言う。
「これ以上、馬鹿が出ませんうちに、さっさと帰宅なさってください。ご自宅までお送りさせていただきます」
 リザの言い様に、ロイはまた笑った。
「続きはしないのかね?」
「何のですか」
「分かっていて聞くのかね」
 愉快そうなロイの言葉に、リザは仏頂面を隠そうともせず、すぱりと彼に言い放つ。
「こんな寒い場所で、そんなコートの前を開けられたままでは、たとえ莫迦でも風邪を引きますよ?」
「ならば、帰宅してからでも、私は構わないが」
 そう言いながら、ジャケットの前を閉じたロイは、コートの前を閉じるついでにリザの身体を捕まえた。
「大佐!」
 抗議の声を上げる彼女の耳元で、ロイはさっきと同じように優しい声で囁いた。
「あんな冷えきった手をしていた君を、そのまま帰すには忍びなくてね。ほら、手だけじゃないじゃないか」
 暖かなコートに包まれたリザは、ロイの指摘する事実に言葉をなくした。素直なリザの反応に、ロイはクツクツと喉の奥で笑った
「反論があるなら、君の身体が温まってから聞こう。まぁ、その頃に、君に口をきく余力があるかどうかは知らんがね」
「大佐!」
 彼の言葉の裏の意味を汲み取ったリザが更なる反論の声を上げるより早く、ロイは彼女の唇を塞いだ。冷たい唇はその温度に反比例して、彼女の内に秘めた熱を彼に伝えてしまい、彼女は今度こそ反論の余地も無く黙り込む。
 ロイはそんな彼女の姿に満足げに笑うと、憲兵を呼んで事件の処理をする為に、大人しくなった彼女を腕の中から再び解放したのだった。

Fin.

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【後書きのような物】
 インテで配布させて頂いたペーパーのSSです。
 ペーパーだと『次の瞬間。』で改ページになるという部分に拘って作ったので、webだと「騙された」感が少ないかなと思います。ちょっと、残念。こういう遊びが出来る紙媒体って、やっぱり好きだなーと思います。
 そして、こういうシチュエーションって萌え&燃えだと思うのですが、いかがでしょう?

お気に召しましたなら。

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