19.策士

騙されてあげる程度には 優しいつもりでいるけれど
 
           *
  
深夜に近い頃、何食わぬ顔で大佐が私の部屋を訪れた。
私も何事もなかったかのように、彼を迎え入れる。
 
いつも通りの彼の訪問に、一筋の緊張の糸を感じているのは、私だけだろうか。
酷薄に微笑む大佐の表情の奥を読もうと、私はただ彼を見つめる。
冷たいその微笑の中から、仄かに香水が香った。微かな薔薇の残響は、空気の中に溶けていく。
それは、どこかの女が私のテリトリーを犯した証だ。
 
「何も、言わないのか?」
大佐が問うた。
どうやら、張り詰めていたのは私だけではないらしい。
珍しく真剣な黒い瞳が、私に答える事を促すけれど、二人の間に漂う香水がそれを邪魔する。
大佐が近付く程に、甘い薔薇の香りが強くなる。
まるで、マーキングだ。
この男は私のモノだと主張する女の悪意に押され、私は一歩、後ずさる。
 
「言いたい事があるなら、」
大佐が、近付く。
また一歩、私は後ろに下がる。
「言葉にして、言ってくれ」
壁際に追い詰められた私は、香りの攻撃から逃れたくて、大佐を押し退けようとした。
しかし大佐は、無造作に私の両の手首を捕まえて、壁に縫い留めてしまう。
 
顔を背ける私のの耳元に、大佐の言葉が落ちる。
「どうして何時もそうやって、胸の内に全て収めようとするんだ。リザ」
顔を背けたまま、私はなるべく無表情を保ち、大佐の言葉を受け流す。
そして、心に渦巻く己の声に蓋をして、溢れないよう細心の注意を払う。
 
「余所の女とデートと言っても、いつものことじゃないか」
ならば、何故、今日に限って嘘をついたのか。
 
「怒ったなら、ちゃんと文句を言えば良い」
怒っている訳ではない、今は放っておいて欲しいだけだ。
  
「ある種、この手の付き合いが仕事の内なのは、君も承知の事だろう」
ええ、ええ。承知していますとも。
 
「分かってくれ、とは言わない。だが、割り切ってくれ」
そう思って出来るなら、誰も苦労はしないのだ。
 
「だが、今日の事は悪かった。すまない」
謝るなら、最初からしなければ良い。
 
「まさか君が仕事帰りに、一人であの店に行くとは、思ってもみなかった」
私だって、一人で飲みに行くこともある。
嘘をつくなら、偶然出会ってしまうような場所に来ないで欲しい。
 
「全く驚いたよ」
そんなことを言う割には、全く動じもせず、ヤニ下がった笑顔で私を女に紹介したのは誰だったろうか。
しかも、わざわざ“副官だ”と強調して。
   
「今日の彼女は、商工会議所の秘書だ」 
そんなことは、聞きたくない。
 
「君の欲しがっていた情報も取って来た」
そんな餌では釣られてやらない。
 
「査察だと嘘をついて出たことも、謝ろう。リザ。だから、いい加減口をきいてくれないか?」
話すタイミングを失って、つい黙りを決め込んでしまったが、いっそこのまま大佐を困らせてやるのも一興だ。
大佐は苛立ったような声音に私も意地になり、顔を背けたまま絶対に口をきいてやらないと,心に決める。
 
大佐が他の女と出歩こうが何をしようが、どうこう言う気はない。
『女好き』のレッテルが貼られる事により、大佐は何処でどんな女と会っていようと不審に思われる事は無い。
情報収集に於いて、これほど都合のいい事があるだろうか。
憧れのイシュヴァールの英雄に誘われた女達は、面白いように喋りだす。
自分たちの口から、黄金にも等しい情報が漏れているとも気付かずに。
全くいいカモフラージュだ。
 
私が不満なのは、嘘をつかれた事。
女と会うなら会うで、デートと言えば良いのだ。
黙ってコソコソされる方が、不安になる。
その上それがバレたからといって、開き直って女の匂いをまとったまま、我が家にやってくるのも気に入らない。
大佐は、何故私が怒っているか、ちゃんと分かっているのだろうか。
 
「リザ、いい加減に機嫌を直してくれ」
イヤです。
 
「君がそんな態度を取り続けるなら、私は退散するしか無いんだが」
それもイヤです……でも。
 
大佐の両手が、私の手を離した。
身体が離れていくと同時に、薔薇の香りも遠ざかる。
 
意地っ張りな私は追いかける事も出来ず、そっぽを向いたまま、大佐が去るに任せる。
本当は、引き止めて詰りたい。
しかし、私のプライドは、それを許さない。
 
大佐が玄関の扉を開いた。
嗚呼、行ってしまう。
それでも、私は動けない。 
その時、大佐が不意に振り向いていった。
 
「そうだ、ひとつ言っておこう」
何を?
 
「いつも事実を伝える事が、君への誠意だと思っていたのだが、最近どうもそうではないと思うようになったんだ」
急に何を言い出すのだろう、大佐は?
  
「デートの予定を話した後、フトした拍子に何とも寂し気な顔をする、誰かさんに気付いてしまったものでね」
!?
 
私は驚いて,思わず大佐の方を向いて小さく叫んでしまう。
「そんなことは!」
 
「ようやく口をきいてくれたな」
大佐はニヤリと笑って、私の方へと戻ってくる。
しまった、と思ってももう遅い。全く、この策士め!
 
「今言った事は、本当だ。だから嘘をついた。でも,それが裏目に出てしまうとは、私もまだまだだな。本当に悪かった、リザ」
そんな素直に謝られると、許してしまいたくなるじゃないですか。
 
大佐は、軍服の上衣を脱いで椅子の上に放り出し、そして、そのまま私を抱きしめる。
上衣を脱いだ大佐からは、薔薇の香りはもうしない。
 
「他所の女は私の上辺しか知らないよ。だから、上衣にしか香水の匂いはつかない」
香水のことは、分かっていたのか!
思わず憮然として、大佐を引き剥がそうとしたが、彼はますます力を込めて私を抱きしめる。
 
「愛しているよ、リザ。だから、許すといってくれないか」
「もう、知りません」
 
「こうやって、私は最後は必ず君の所に帰って来ているじゃないか、リザ」
「知りませんってば」
 
「リザ」
許すと言いたくても、唇を塞がれては何も言えないではないか。  
 
結局いつだって、この男のペースなのだ。
私は返事の代わりに大佐の背中に手を回し、彼の抱擁を受け入れた。
 
 
 
Fin.