02.集中豪雨 【04.Side Roy】(完結)

永久に止まない 雨だとしても
例え傘さえ 持たぬとしても
 
     *
 
「今でも諳んじて言えるよ、片時も忘れた事はない」
リザの背中から書き写した後、夢にまで見るほど解読に没頭した。
あれから何年も経った今でも、一字たりとも忘れられない。
アメトリスの言葉に訳せばリザにも理解出来るし、万一誰かに聞かれても秘伝が漏れる心配もないだろう。
幸いにも、外は雨が降り出したようだ。
私は頭の引き出しから、言葉を引きずり出す。
 
「私を解放してください、主よ、永遠の死から」
 Libera me, Domine, de morte aeterna,
そう、この部分は元素の構成と分解の理論の序章だ。
「その恐ろしい日、天と地とが震え動くその時……」
 
祈りの言葉を唱えながら、私は徐々に複雑な思いに捕らわれていた。
また、この背中を目にする日が来ようとは、思ってもいなかった。
ましてや、戦場で部下として再会しようとは。
出来れば平和な世界に生き、暮らして欲しかった。その手を血で汚したくはなかった。
しかし、どんな形をとったにせよ、今彼女が私の人生に再び登場したことを明らかに私は喜んでいる。
自分の腕の中に彼女を抱き締めている現実に、私の心は震えているのだ。
 
この手で彼女に触れる事に、躊躇がなかった訳ではない。
ヒューズに言った言葉、『血に塗れた手で惚れた女を抱くのか?』は私の本心からの思いだったのだから。
言い訳になってしまうが、彼女が軍服を脱いだ時、その背中に触れたいと思った衝動は性的なものではなかった。
 
美しい背中、美しい錬成陣。
どちらも人を拒む孤高の気品を漂わせ、そのくせ、寂しいと泣き出さんばかりの孤独を湛えて佇んでいた。
あまりの痛々しさに、独りではないと言ってやりたいと思った。
しかし、言葉では届かないと感じた。
もどかしさのあまり、手を伸ばす。
気付けばこの手がその背に触れ、そして彼女を抱いていた。
小さな温もりに安堵を覚えていたのは、自分の方であったのかもしれないが。
 
「……天と地とが震え動くその時、主が来られて、この世を火によって裁かれる時。」
 
詠唱が終わった時、彼女が低くか細い息を吐くのを感じた。
今まで彼女がこれを知らなかったと言うのは驚きであり、逆に納得も出来る事ではあった。
知る事が良い事であったかは分からないが、彼女が満足出来たのなら良しとしよう。
 
「少佐、ありがとうございました」
「いや……」
続ける言葉が見つからない。
痛い沈黙が流れる。
雨はどんどん激しくなっているようだ。
バタバタとテントを叩く雨音が、我々の声を聞き取り難くするほどに。
これ以上待たせるのは酷だろう。やるしかないのか。
 
私は遂にリザを抱いた手をほどき、錬成陣を描いたシーツの上にうつ伏せに横たわるように指示した。
無言で従うリザの唇を開かせ、舌を噛まぬよう丸めたハンカチをくわえさせる。
シーツを握り締め身を硬くする姿はまるで贄になる処女のように淫靡で、要らぬ感情が湧き出しそうだった。
 
取り出した発火布の手袋をはめた手で、そっとリザの頭を撫でる。
答えは無い、ただ雨音だけがザァザァと激しく響く。
私は細心の注意を払って火力の調整をする。
錬成陣の位置、距離、若年者の皮膚の厚み、天候、湿度。
今躊躇えば、私は決して彼女の背を焼けないだろう。
彼女の為に。
これが彼女の望みなら。
やるしかあるまい。
 
躊躇うな。
今更。
 
「皆が幸せに暮らせる未来を信じていいですか」
幼いリザの顔が浮かぶ。
 
「恨みます」
ダリハ地区の老人の顔が浮かぶ。
 
罰なら受けよう、今ここで。
 
練成陣のみを視界に入れる
空の心で指を鳴らす
見慣れた私の焔が飛んだ
彼女の背に向かって
 
肉の焼ける厭な臭いが、狭いテントの中に充満する。
痛みに白い身体が跳ね上がり、食いしばった歯の隙間から本能の上げる悲鳴が漏れ響く。
涙を流して痛みに悶え、堪える姿。
白い背に覗く赤い肉、黒く炭化した皮膚の一部。
まるで鋭利な刃物のように、全ての光景が私の心に突き刺さる。
 
叫び出し、彼女を再び抱きしめたい衝動に駆られる。
そんな事をしても何の役にも立たぬと言うのに。
胸の痛みを押さえ込み、間髪おかずシーツの上の錬成陣に両手を置く。
焼けた皮膚を乾燥させて、薄い上皮を形成させる。周囲の皮膚から少しずつ組織を傷の上に持って来る要領だ。
治癒系の錬金術は知識としてしか持っていないのでどうなることかと思ったが、何とかなったようだ。
しかしケロイド形成は、かなり酷いレベルになってしまう。
急激な皮膚の乾燥で、痛みもひどいはずだ。
しかも、痛みが強過ぎて失神する事も出来ないなんて、あまりにも酷な話だ。
 
消毒をしなくては。抗生剤もだ。清潔な布と包帯はどこに置いた?
なぜ、こんなに視界が歪むのだろう。
屋内で焔を発した所為だろうか。
ボロボロと涙をこぼすリザが、霞んで見える。
雨音がうるさい。
リザ、まだ起き上がってはいけない。何を驚いている?
 
「少佐、なぜ少佐が」
だから、動いてはいけないと。
痛みに顔を顰め、泣きながら起き上がる彼女を制止しようと手を伸ばす。
 
と、ふわりと空気が動いた。
おぞましい肉の臭いに、柔らかい女の匂いが割り込む。
 
「リザ?」
「少佐、泣かないで下さい」
泣いている? 私が? 泣いているのは君のほうだ。
彼女の右手が私の頬に触れる。
彼女の指先についた雫が、私の目に留まる。
驚いた事に、確かに私は涙をこぼしていた。
 
マスタングさん」
涙のいっぱいに溜まったヘイゼルの瞳が、目の前にある。
いつの間にかリザは、私を抱く様に背中に右手を回していた。
 
「ごめんなさい。マスタングさんも、この内乱で人を殺めて傷ついていたのは、マスタングさんもだったのに」
「リザ」
「酷いことを言いました、その上こんなお願いまでしてしまって」
「大丈夫だ。むしろ、自分がまだこうやって泣くことが出来ると知って、正直ほっとしたぐらいだ」
マスタングさん」
そうだ、戦場にいて自分に涙があることすら忘れていた。
忘れなければ、正気ではいられなかった。
背中に回された右手の温かさに、泣く事で吐き出す事が出来る感情があることも一緒に思い出す。
まいったな、こんな形で彼女に救われる自分がいるとは。
 
「それより大丈夫か、痛みは」
「痛いです。でも生きている気がします、私個人として」
気丈に振る舞っているが私に触れた右手の震えが止まらないのが、激しい痛みの証拠だろう。
「そうか、私は死にそうだ。イシュヴァールでのこと、そして今夜のことは決して忘れられない楔だ」
「……」
しまった、彼女に向かってこんな弱音を吐くとは私もどうかしている。
「すまない。君を責めている訳じゃない。リザ。忘れてはならないことなんだから。我々は生きる為に残虐な行為をしている事を忘れてはいけないのだよ。大切なのは何かで償う事だ。君は償いは傲慢な思いだと言ったが、もっと広義な償いを考えるのは無意味ではないと私は思う」
私の涙は乾いたが、彼女の涙はまだ止まらない。
 
私を抱いてくれた右手をそっと外し、背中を私に向けさせる。
目を背けたくなる惨い傷跡が、計算通りの位置に焼き付いている。
目的は達したが、胸が痛んで仕方が無い。
消毒をし、ガーゼを当て包帯を巻く。
 
「リザ、聞いてくれ」
この際だ、彼女に言っておかなければ。
「君の父上から受け継いだ錬金術の今の在り方は、君を傷つけ失望させただろう。しかし君に語った夢も、この国の礎として路傍に朽ちてもいいと思う気持ちは今も変わらない」
「はい」
「私は大総統を目指す」
「!」
表情は見えなくとも、彼女の驚きは伝わってくる。
「上に立てば、軍人を一人の人間として生き長らえさせる命令も出来る。部下を守る事が民の命を守る事になる。大それた夢だと笑うかもしれないが」
「いえ、そんな」
「償い、とはいえないかも知れない。でも、私は自分の人生を懸けてやり遂げたいと思っている。相変わらず青臭い夢だがな」
リザは黙り込む。呆れているのか?当然だろうな。
 
「……死なないで下さいね」
「また同じ科白を言ってくれるのかい?」
思わず苦笑いが浮かぶ。
「でも、マスタングさん。そんな大事な事を何故私に」
「君だから、だよ」
「父の娘だから、ですか?」
「いや、きみがリザ・ホークアイだからだよ。私にとって大事な女(ひと)だからだ」
「からかわないで下さい! くっ!!」
身をよじると火傷の痛みが増したのだろう、彼女が身を折る。
私は慌てて、手当を再開する。
また二人の間に沈黙が下りるが、今度のそれは痛いものではなかった。
 
包帯を巻き終わった時、リザが唐突に口を開き背中越しにぽつりと言った。
マスタングさん、私が今夜このテントにお邪魔した時におっしゃいましたよね」
「?」
「『信じた道の為にこの力を使うことを許してくれ』と」
「ああ、言ったが」
ほんの少しの間があり、リザがくるりと私の方を振り向く。
まだ涙の乾かぬヘイゼルの瞳が、真摯な光を宿し真っ直ぐに私を見つめる。
 
「許します、どうぞ、やり遂げて下さい」
 
思わぬ話の流れに呆然とする私の視界は、またうっすらと曇ってしまう。
ああ、本当に参ってしまう。
彼女の前でだけは、私の涙腺はその機能を思い出すようだ。
傷に触れぬ様、私はそっとまた彼女を抱きしめた。
彼女も今は嗚咽が漏れるのを隠さずに、私の腕の中で泣いている。
彼女の右手が私の背にそっと添えられるのを感じながら、私は久方ぶりに自分の感情を解放した。
 
 
 
その夜の雨が何時止んだか、それは誰にも定かではない。
 
 
 Fin.
 
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【後書きの様なもの】
 とりあえず、完結です。何度も書き直したので、もうまとまらず。(涙)ごめんなさい。
 
 元々この話は、8月号の仔リザ科白「否定し償い許しを乞うなど殺した側の傲慢です」ってのがちょっと納得いかなくて出来た話です。
 許しを乞うて許してもらえると思うのは、確かに傲慢。でも、許されぬと分かっていながら許しを乞い続ける事はありじゃないかなぁと。同様に償えぬと知りつつ何らかの償いの道を模索するのもありかと。
 そういう道を歩もうとする増田をリザちゃんには許してもらいたかった、そういうお話です。
 
 そして、イシュヴァール篇ではずーっと眉間に皺が寄りっ放し、怒りっ放しの2人を泣かせてあげたいなと思ったのです。感情を吐き出す場所は誰にも必要で、それがかけがえの無い相手の前だけ、というのが私の信条ですので。
 
変に長く纏まりの無いお話に最後までお付き合い下さって、ありがとうございました。