02.集中豪雨 【03.Side Riza】

雨に濡れて立ちすくむ私を
見つけてくれたのは 貴方
 
      *
 
「私は向こうを向いているから、服を脱いでこちらに背を向けてくれ」
優しい瞳が私をじっと見つめる。
恐慌状態から自分を取り戻しつつあった私は、言葉を発する事が出来ずただ頷いた。
マスタングさんが、昔と同じ様に優しく微笑んでくれただけ。ただそれだけの事が、私に力を与える。
情けないような、どうにもならない気持ちでうなだれる私に頓着せず、彼は背中を向けた。
自分から言い出した事とはいえ、正直言って恐ろしいのだ。
身近に見て来たからこそ、あの焔の力は術者を除けば誰よりも知っている。
麻酔を拒否した自分の強がりを今更後悔しても仕方ないが、意志と感情はなかなか一致してはくれない。
 
ゆっくりと、軍服の袖から腕を抜く。
あの日の思い出が鮮明に蘇る。
『その夢……背中を託しても良いですか。皆が幸せに暮らせる未来を信じていいですか』
そう言って、喪服を脱いだあの日。
あの時は、こんな未来が待っていようとは、夢にも思わなかった。
今思えば、あれが少女時代の終わり。
過去からの決別、漠然とそんな単語を思い浮かべながら、私は黒いタートルネックを脱ぎ捨てた。
 
マスタングさん……あ。すみません、少佐。用意ができました」
背中を向け呼びかけると、あの人が振り向く気配がする。
あんな優しい目を向けられた後だと、つい昔の呼び名が口をついて出る。
上官だと言うのに困ったものだ、過去と決別する気なら改めなくては。
そんな事を考えながらも、私は背中に痛いほどの視線を感じていた。
彼にとっては宝に等しい奥義なのだから仕方ないのだとは思うが、羞恥で胸元を押さえる手に力が入る。
そんなに見ないで下さい、と口に出しそうになって唇を噛む。
あの日以来、誰にも見せた事の無い背中。
父を恨んだ日もあったけれど、今となってはそれもどうでもよくなっていた。
 
と、突然背中に冷たい指先が触れた。
「少佐!?」
私の驚愕の声を無視して、指は私の背を滑る。
「少佐!」
多少の非難の色を込めてもう一度呼びかけても、彼の手は一向にその動きを止めない。
滑らかに、緩やかに、弧を描く様に私の背をなぞる手に皮膚の下で感覚がざわめく。
振り向こうとして伸びかけた身体が、やおら後ろから抱きしめられる。
素肌にガサガサした軍服の生地が触れ、自分が無防備な状態である事を一層強調する。
驚きのあまり叫びそうになる自分を、何とか押さえ込む。
 
耳元で哀しげなバリトンの声が響く。
「リザ、君は自分の背中がどれほど美しいか知っているのかい」
この人はいったい、何を言い出すのだろう。
狼狽えつつ、私は言う。
「……こんな刺青の入った背中、綺麗な訳がありません」
こんな背中なんて。父の人生に私を縛り付ける楔(くさび)なのだから、忌まわしいだけ。
ただ貴方との繋がりを、思い出すことは出来るけれど。
「いや、そんなことはないよ」
「少佐は錬金術師でいらっしゃるから、この練成陣を綺麗だと思われるのでしょうが、刺青なんて罪人の烙印のようじゃありませんか」
「君はそんな風に思っていたのか」
「ですから」
反論しようとする私を制して、彼は呪文のような言葉を呟いた。
 
Libera me, Domine, de morte aeterna」
「?」
「君の背にかかれている言葉の一節だよ」
「……どういう意味なんですか?」

「『神よ、終わりなき死から私を解放してください』」
「終わりなき死?」
「何時の時代のどこの国のものかは分からないが、ある宗教の祈りの言葉らしい」
「祈り、ですか」
「神が焔で恐ろしい裁きを下す時に、永遠の安息と光を与えて救って欲しいと続くんだ」
「そんな言葉に秘伝が?」
「これそのもじゃない、これも暗号の一つだ。刺青と言う手段の是非はともかくも、君の背中には聖なる言葉が刻まれている。そう邪険にするもんじゃないよ」
ふっと首筋に息がかかり、彼が細く笑ったのが感じられた。
ゾクリ、とまた皮膚の下がざわつく。
 
祈り。
神に許しを乞う言葉が、人を焼く呪文に変わっていくのか。
やるせなく、しかし、父の目指したものを少し感じたような気がして、心が騒ぐ。
「もしも差し支えありませんでしたら、その祈りの言葉を教えていただけませんでしょうか」
「君の背中の? 今まで全く知らなかったのか?」
「私が見ても何の役にも立ちませんし、」
自分でそう言ってから、ふっと可笑しくなって私は言葉を付け加える。
「それに自分の背中は自分では見えませんから」
こんな状態でつまらない事が可笑しく思えるなんて、抱きしめられた身体が人肌の心地よさを思い出したせいかもしれない。
「それもそうだ」
彼も可笑しさを感じたのだろうか、声が柔らかい。
「今でも諳んじて言えるよ、片時も忘れた事はない」
そっと息を整えると彼は謡うように、しかし密やかな声で言葉を紡ぎ始めた。
 
「私を解放してください、主よ、永遠の死から。その恐ろしい日、天と地とが震え動くその時、主が来られて、この世を火によって裁かれる時。私は恐れ、そしておののきます。来るべき裁きの時、来るべき怒りの時。天と地とが震え動くその時その日こそ、怒りの日、災いの日、不幸の日、おおいなる日、嘆きの日。主が来られてこの世を火によって裁かれる時。永遠の安息を彼らに与えてください、主よ、そして絶えざる光が彼らを照らしますように。私を解放してください、主よ、永遠の死から。その恐ろしい日、天と地とが震え動くその時、主が来られて、この世を火によって裁かれる時」
 
祈りの言葉は恐ろしい言葉を含みながらも、許しを乞い昇華していくような光をはらんでいた。
背中にマスタングさんの温もりを感じながら、私はいつしか微笑んでいた。
 
暖かい他人の体温を感じたのは、いつ以来だろう。
こうやって抱きしめてもらうのは、いつ以来だろう。
そう、私は孤独だったのだ。

見ない振りをしてきた現実を、私はいつしか自然に受け入れていた。
そして今、人と生活を共にする事さえも許さない私の孤独を培った背中が、今、この人との間に絆を作ってくれている。
 
私を孤独に陥れたのは、この焔。
私を孤独から解放してくれるのも、結局はこの焔。
あとはこの錬成陣から、父からも解放して下さい。
恐ろしくなどありませんから。
 
私を解放して下さい。
 
気付けば、いつの間にか降り出した雨がパタパタとテントを叩く音が、薄暗い空間に響き始めていた。
 
 
To be Continued...
 
  ****************
【後書きの様なもの】
 今月中にアップ出来て、ホッとしています。でも、続く。(苦笑)リザさんの背中の文字がLibera meである事が分かった時から、どうしてもお話をその詞と絡めたかったのです。次回完結予定、02.集中豪雨 【04.Side Roy】