Midnight chocolate

 パタリと扉が開いた。
 リザは両手いっぱいに抱えたサラダやキッシュパイの入ったデリの紙袋を持ったまま、無理やりにキッチンの扉を閉めた。暗闇に手探りして照明のスイッチを探し当てたリザは、真っ先に壁の時計を見上げる。
 彼女がロイに予告した来訪の予定時刻は、とっくの昔に過ぎている。リザは手に持った食料をとりあえず全て机の上に置き、鞄を肩から下ろす。そして、冷えきった手を胸の前でこすり合わせながら、傍らの椅子に崩れ落ちるように座り込んだのだった。
 
 この日、珍しくペーパーワークを真面目にこなした上官と彼の部屋で夕食を共にする約束を交わしたリザは、定時に上がる彼を見送った後、何だかんだと溜まった雑事を片づけ、最後に総務課へと足を運んだ。出来上がった書類を提出すれば、彼女の一日の仕事は終わるはずだった。しかし、リザはそこで予定外の仕事に時間を食う羽目になる。
 なんと彼女が提出した書類の書式が全くの不備であり、その再提出の為に一から書類を作り直す必要が生じてしまったのである。最初に総務から渡された書式が昨年のものであったというのが大本の原因だった。
 しかし考え方によっては、書式の確認をせずにそれをそのまま使用した彼女自身にも責任の一端はあるとも言える。そんな結論に達したリザは何も言わずに足りない資料を探し、明朝までに必要であるというその書類をもう一度頭から書き直したのだった。頭の固い総務の担当者と不毛な会話を繰り広げ、激しい抗議をする労力よりも、黙って書類を作り直す労力を彼女は選んだ。どちらにしろ、書式の不備以外にも資料の不足があるのだから、作り直さなければならないのは同じなのだ。リザは、そう割り切って、淡々と仕事をこなした。
 おかげで彼女が東方司令部の敷地を出る頃には、細い猫の爪のような三日月は中空で冴え冴えと凍り付いた夜の街を照らしていて、時計を見るまでもなく夜がとっくに更けてしまったことを知らせていた。ロイに電話を掛けて残業が入ってしまったせいで訪問が遅くなることを知らせようかとも思ったが、軍の回線をそんな私用に使う事は憚られたし、一階の外線室まで行く時間を考えれば書類の作成にその時間を回す方が得策だと彼女は判断し、それを控えた。
 まったく、こんな日に約束などするのではなかった。リザは頬を切る冷たい空気の中に、大きな真っ白い溜め息を一つ吐いた。そして、街灯の光に照らされる夜道にヒールの踵で八分音符のスタッカートを刻みながら、腹を空かせて彼女を待っているであろう男の元へと急いだのだった。
 
 ようやくロイの家にたどり着いたリザは、真夜中のキッチンに一人座り込み、とりあえずの休息を自分に許した。予定外の仕事は彼女の疲労に拍車をかけ、いつもならてきぱきと食事の準備にかかる彼女も、流石に今日は直ぐには動き出す気になれなかった。
 人気のない部屋の空気は冷たく、静まり返った部屋の中には時計の秒針の音だけが響き、普段なら彼女がドアをノックすれば必ず出迎えてくれる筈のこの家の主は未だ姿を現さない。待ち草臥れて眠ってしまったのかもしれない。リザはそう考え、外気と同じくらい冷たい男の家の合い鍵を凍りついた手の中で弄んだ。鈍色に光るその鍵を彼女は常に持ち歩いているけれど、実際に使うのは本当に久しぶりで、彼女は意味もない気恥ずかしさを感じた。
 数えるほどしか使ったことのないこの部屋の合い鍵をロイから手渡されたのは、もう随分と昔のことだ。まだ彼女が彼の副官になって間もない頃、いきなりロイから預かって欲しいと差し出された合い鍵に彼女は仰天した。最初はそれを拒絶したリザだったが、上官に不測の事態が起きた時に副官として対応する為にと言われれば、従わないわけにはいかなかった。
 どうにも鍵を受け取らざるを得ないロイの理屈にリザは渋々ながらもそれを受け取ったが、結局、頑なにそれを使うことはしなかった。ロイの方も渡せばそれで満足したのか、それ以上は何も言わなかったし、リザの部屋の合い鍵を寄越せと言い出したりもしなかった。
 ただ一度、彼女が部屋を訪れた折、ロイは焔の錬金術に関する暗号が記された研究ノートが詰まった本棚を指し、冗談めかして
「私に万一のことがあったら、この本棚の最下段の書類は全て燃やしてくれ」
 と言っただけであった。彼の最大級の信頼と愛情を示す言葉に、リザは男が最初に言った言葉を愚直に信じる振りをして、敬礼をもってそれに答えたのだった。
 すっかり自分の持ち物の一部として馴染んでしまった合い鍵を眺め、リザは二人の距離を思う。