夜に躓く 書き下ろしサンプル

  Shot in the dark



 ついていない日というのは、とことんついていないものらしい。
 リザは遠い的をスコープで確認し、小さな溜め息をついた。悪くはない成績ではあるが、いつもの彼女としては満足のいかないスコアに、リザはライフルを構えるのを止めた。
 何かに集中したくて射撃訓練場に来てはみたが、さっきからずっとこの調子だ。駄目な時はどれだけ粘っても駄目なのだから、仕方がない。リザは己の経験則に基づき、今日はこれ以上のスコアは望めないと諦める事にした。
 そんな彼女の背後から、聞きなれた陽気な声が聞こえた。
「はぁい、リザ。調子悪そうね」
「残念ながら、ご覧の有り様よ」
 あまりにストレートな友人の言葉にリザは肩を竦め、残った弾の数を数えながらその声に答えてみせた。振り向きもしない彼女に気を悪くする様子も見せず、彼女の親友レベッカは豪快に大きな口を開けて笑った。
「まったく。そんな顔してたら、当たるもんも当たらないわよ」
「ありがたいご忠告、肝に銘じておくわ。って、貴女の方から私の顔、見えてないでしょ? 」
「弾筋見てたら、大体あんたがどんな顔してるかくらい分かるわよ。それに、あたし相手に八つ当たりしたって無駄だって、自分で分かってるんでしょ? ねぇ、リザ」
 至極もっともなレベッカの言葉に、リザは返す言葉もない。情けない思いで身体の下に敷いていたマットを畳みながら、リザは傍らに立つ友人を見上げた。
「私、そんなに酷い顔してるかしら? 」
「酷いっていうより、情けないって感じ? ま、あんたらしくないことだけは確かね」
 歯に衣着せぬレベッカ言い様に、流石のリザも苦笑するしかなった。
「またサボリ好きの上官殿絡み? 」
「貴女には何も隠せないのね」
「長い付き合いだもの」
 澄まして言うレベッカに、リザは片付けの手を止めず一つ提案をする。
「ねぇ、レベッカ。八つ当たりしないから、今夜の夕食、付き合ってくれない? 」
「いいわよ。それにワイン一本付けてくれるなら、少しくらいの八つ当たりも我慢してあげて良くってよ? 」
「少しじゃすまなくなりそうだから、止めておくわ。給料日前なのに何本もワイン空けられたら、洒落にならない事になるもの」
 リザの言葉にレベッカは少し驚いた顔で、まじまじとリザを見つめた。
「そこまで? 」
「多分」
 簡潔に答えながらリザは立ち上がり、荷物を抱えるとライフルを返却する為に歩き出す。職場ではリザがそれ以上何も話さない事を知っているレベッカは、仕方ないというように肩をすくめ、リザの背を追って歩き出した。
「夕飯、どこに行く? 」
「何か食べたいもの、ある? 」
「何でも良いけど、あまり同業者の来ない店が良いんじゃないの? 」
「… … その方が助かるといえば、助かるかも」
 歯切れの悪いリザの言葉を、レベッカは笑った。
「仕方ないわね。家にいらっしゃい。ただし、なーんにもないからね。食材は自前で調達。それで良ければ、ワインだけはストックあるし」
 この親友の明るさには、いつも救われてばかりだと、リザはありがたく思いながら彼女の提案を受け入れることにした。
 先に帰って支度をすると言うレベッカに、何点かの買い物を頼まれたリザは、メモを片手にロッカールームに向かう。
 いつもの彼女なら、もう少し残業をしてから帰る所だが、今日はもうあの執務室には戻りたくなかった。残っているメンバーには申し訳なかったが、自分の仕事はそれなりに済ませてきたのだから、たまには構わないだろうと彼女は自分に言い聞かせる。
 誰もいないロッカールームでリザはバレッタを外し、硝煙の臭いの染み付いた髪をバサリと下ろした。オンとオフを切り替えるスイッチのようなその行為に、リザは国軍大佐・ロイ・マスタングの副官から、彼の私的なパートナーでもある一個人・リザ・ホークアイへと立ち返る。
 するとまた、彼女の中で燻ぶっていた怒りの焔がゆらりと立ち上がり、リザはバタンと乱暴に扉を閉める事で罪もないロッカーにその怒りをぶつけた。リザは拳を握りしめたまま、己の頭の中の声を聞く。
 怒るのは間違っている。リザの中の理性は言う。今までもこれからも、それは繰り返される筈の行為だ。そして、それは彼と彼女が共に目指す目的の為には、必要な事でもあるのだから、仕方のない事なのだ。何を今更、と。
 だが、リザの感情は言う。割り切れないのは仕方のないことなのだ、感情を持った人間なのだから、と。彼女に対する彼は変わらない。しかし、そんな聞き分けの良いことを言っているから、彼は増長するのだ。見ろ、あの男の傍若無人な振る舞いを。
 リザは自分自身の二つの声に翻弄され、出口のない感情を握った拳に込め、バンッとまたロッカーに打ちつけた。自分の手が痛くなるだけで、何も変わらない事なんて分かっている。それでも、彼の前でずっと無表情を保つ為には、それだけの感情を彼女は殺さねばならなかったのだ。
 静寂の中でリザはしばらく俯いていたが、やがて考えていても仕方がないと私服に着替え、髪をまとめてバレッタで留め直す。そして、スカートのスリットを整え太腿のガンホルダーがきちんと隠れているか確認し、いつもの無表情で足早にロッカールームを後にした。
 
 リザがレベッカのアパートにたどり着いた時には、既に全ての準備が整っていた。一人暮らしの女性の料理のレパートリーは、莫迦にしたものではない。彼女は簡単でありながら、見栄えの良い料理を数品こしらえて、リザを待っていた。気取らない、それでいて温かさを感じさせる食卓に、強ばっていたリザの表情も緩んだ。
 二人はリザの手土産のワインを開け、食べることと、喋ることに忙しくその口を動かした。女二人の食卓は、リザが無口なことを差し引いても賑やかで、足して二で割れば丁度良い二人の口数に、小さなテーブルは盛り上がる。
 やがて。
「で、今回はどうしたの? また大佐がサボって業務が立ち行かなくなった? 書類を紛失して一騒動巻き起こった? それとも、部下の彼女を横取りした? 」
 あらかたの料理を食べつくし、ワインを飲みながらチーズをつつく時間になった頃、レベッカはそれまでの当たり障りのない話題から、ずばりと本題へと切り込んできた。リザは聞かれるだろうと予測はしていたものの、自分の中でも整理の付かない気持ちを扱いあぐね、肩をすくめてとりあえずレベッカの提示した疑問に答える。
「どれも違うわ」
 リザは友人の疑問を全て否定しながら、ロイの酷い言われように苦笑した。まったく、彼はどんな駄目な上官だと思われているのだろう。きちんとやるべき事はやっているし、どうにもならない時も、リザがそれなりに尻拭いの出来る範囲で何とか頑張ってくれているのに。
 人間とは不思議なもので、自分で悪く言っていても、人に悪く言われると擁護したくなるものらしい。リザは自分の心の動きを笑い、おもむろに言葉を足した。
「あ、でも最後のが少し近いかも」
「何よ、浮気? 」
「そうだと言えば、そうかもしれない。でも、違うといえば違うかしら」
「どういうこと? 」
 リザはどこまで話しても大丈夫かを慎重に吟味し、結局何も話せない事に気付き、すっと口を閉じた。貝の様に黙り込むリザをじっと見つめ、レベッカはわざとらしい溜め息をつく。
「ごめんなさい」
「いいのよ、あんたが判断することなんだから。ただ、吐き出すと楽になることもあって、ここに吐き出せる場所があるって事だけは、忘れないでいてよね」
「ありがとう」
「男なんて、甘やかしたらつけあがるだけよ。一度、家出でもしてやればいいんだわ、宿はいつでも提供するから」
「流石にそれは大仰ね。でも、悪くないかも。考えてみるわ」
 リザは頼もしい友人の存在に感謝し、唇に笑みを浮かべて手元のワインに口を付けた。きりりと冷えた液体はするりとリザの喉を滑り、胃の中へと落ちていく。それと同時に彼女の悩みは彼女の心の深いところへ落ちて行き、リザは少しの間それを忘れて、親友の心尽くしの手料理を楽しむことに専念しようと決めた。
 元々は独りの時間を持て余したくなくて、レベッカを食事に誘ったのだ。その初期目的くらい、完遂しなくてどうする? リザは自分に言い聞かせるように、顔を上げた。
「ほんと、貴女がいてくれて助かるわ」
「いやね、何もしてないわよ、私」
 リザの言葉に照れたように、レベッカは自分もワインを飲み干し、じっとリザを見た。
 リザとあの男の間に何があるか、レベッカは知らない。それでも、そこには誰も口出しできない不可侵の絆があることくらいは、リザの言葉の端々から、そして、たまに見かけるあの男の言動から感じ取ってはいた。
 男には男の事情があり、女には女の事情がある。それは仕方のないことで、余程のことでもない限り、どちらかを一方的に責めることなど出来ないのは、大人なら分かることだ。それでも割り切れない事は、男女の仲には多すぎる。
 何も言わない親友に諦め、レベッカはワインボトルを突き出した。
「仕方ないわね。とりあえず、飲みなさい。あ、デザートが入る分くらいはお腹、空けときなさいよね? 」
「大丈夫よ、デザートは別腹」
 そう言って屈託ない笑顔を取り戻したリザに、レベッカは内心で少しだけ溜め息をついた。
 彼女はこの不器用な親友を案じながら、気休め程度の安定剤代わりに、リザのグラスになみなみとワインを注ぎ足したのだった。