華氏三〇三八 サンプル

1.プロローグ

 彼が初めて己の生命が有限であることを実感したのは、ある麗らかな春の日のことだった。
 その日、幼い彼は生まれて初めて、図書館という場所に足を踏み入れた。忙しい養母が仕事の合間をぬって、知識欲の旺盛な彼を街の図書館に連れて行ってくれたのだ。
 本を読むことが大好きだった少年は、初めて見る図書館のその蔵書量に圧倒され、目を丸くした。膨大な書架に並ぶ幾千万の知識の凝集体は、そのページ一枚一枚の間に無限の可能性を秘め、まだ幼かった彼はそれを無制限に閲覧出来ることの興奮に目を輝かせた。
 書架に駆け寄り本の背表紙を眺める彼は、自分の手の届く範囲にある本ですら、一日かけても読み切ることが出来ないことに気付いた。それは彼にとって、言葉に尽くせぬ幸福であった。
 読んでも読んでも読み切れないほどの本がある! そして自分はそのどれを読んでも構わないという、自由を持っている。ああ、どれから読もう? 迷っている時間も惜しいというのに!
 わくわくと心を躍らせ、彼は知識への渇望に興奮する。だが不意にその時、彼の頭の中でもう一人の彼が、至極冷静にこう囁いたのだった。
『確かに此処には無限に思えるほど膨大な蔵書が存在する。化学、物理学、政治、経済、哲学、宗教、あらゆる分野の専門書。ミステリー、戯曲、恋愛小説、童話、様々な娯楽書。それこそ、星の数ほどに』
「ああ、とても素晴らしいことだ。まるで夢のような光景だ」
 彼は素直に、内なる自分の言葉に答える。だが、彼の影は暗い口調で、静かに彼にこう囁いた。
『だがしかし、お前が一生をかけたとしても、この蔵書の千分の一、いや万分の一すら読破することは不可能だ。たとえ、生涯の大半を読書の為だけに費やしたとしても、だ。そのことに、お前はきちんと気付いているか?』
 その意見は常識的に考えて、ごく真っ当な見解であり、彼には反論の余地すらなかった。
 一日は二十四時間しかない。そして人はどう足掻いても、百年生きられるかどうかの生き物でしかないのだ。その上、読書だけに全てを費やす事が出来るほど、人生は単純ではない。
 その瞬間、彼は自分の人生が多くのことを成し遂げるには、短すぎるものであることを知ってしまった。
 無限の可能性を秘めていると思っていた彼の未来は、その全てを懸けても図書館の蔵書を収めるほどの大きさすら持っていなかったのだ。
 彼は、目の前が真っ暗になるような恐怖に震えた。この世の真理に到達する前に道半ばで途切れるかもしれない人生の理不尽さと、それでも探求することを、生きることを止めることが出来ない人間という生き物の性に彼は無意識の内で慄いた。
 それは幼い彼が初めて突きつけられた、己の命が有限であるという、目を背けることの出来ない恐ろしい事実であった。

 それから二十年後の今。
 この内乱の地で、彼はまるで朝食にオートミールを食べるほどの気安さで、己の命が有限であることを、日々目の前に突きつけられている。

2.己を焼くその焔の名は

「こちら、チャーリー隊。バリケード前まで撤退の上、部隊の展開を完了。以降、指示を待つ」
 無線機に逐次報告される戦況は混乱し、結局この日もここイシュヴァールでは消耗戦にしかならない戦いが繰り広げられている。また今日も、無駄に多くの兵が命を落としていくだろう。
 ロイは溜め息をこぼす代わりに、現状を打破すべく、自分が直接前線に出る決断を下す。
「チャーリー隊を地点四ノ六まで一時撤退させろ。私が直接出る」
「イエス、サー! チャーリー隊、地点四ノ六まで一時撤退! マスタング少佐出陣! ぐずぐずするな、尻に火が点くぞ!」
「アイ、サー!」
 無線機に向かって復唱される彼の命令が周囲に浸透すると共に、部隊にざわめきが広がる。そのざわめきは、いつも彼と部隊との間に常人と常人にあらざる者の壁を作り、ロイを孤独にする。
 毎度自分が出動する度に広がる不穏な空気を胸に吸い込み、ロイは己が揺らがぬよう、発火布の手袋をはめた手首を軽く握りしめた。あまり衛生的とは言えないこの野営地に不似合いなほど真っ白な手袋は、焼け付くような太陽の光を反射し目に痛い。
 斥候に出ていた兵士達が戻るのを目の端に捉え、ロイは部隊の全てを己の背後に守り、右手を軽くあげた。
 だが、彼の焔が生まれるより早く、五百メートル程先の民家の密集地帯で、別の誰かが作り出した爆炎が上がった。それと同時に、無線機が喚きだす。
メーデー! メーデー! こちらシグマ隊! 二十七地区五ノ一にて自爆テロ発生! 瓦礫で通路が塞がれ撤退不能! 死者二名、負傷者五名。至急応援を頼む!」
 無線機ががなり立てる割れた音が、ロイの耳に響く。そう遠くない場所で銃声が聞こえ、遅れて無線機から同じ銃声が拾われた。爆破した建物のあった辺りに集中する狙撃音の存在が、繰り返される無線のSOSの向こうに確認された。
 イシュヴァール人の別動隊がいたのか!
 狙い撃ちされている友軍の存在にギリリと歯噛みしたロイは、考える間もなく右手をさっと前方に伸ばした。
 パチンと軽く指を鳴らす音が彼の指先から飛ぶと共に、深紅の稲妻のように空気の導火線が爆破された建物まで一気に走り抜ける。大出力の焔が鈍い音を立てて爆発し、ドミノ倒しのごとく手前にある建物をなぎ倒していく。瞬きする間もなく、街の一角が姿を消し、代わりにそこには瓦礫のトンネルがパックリと口を開いた。
 傍らにいた新兵の集団が、静まり返っている。取り残された部隊の退路を開く為に、一直線に市街を破壊するという荒技を指先の動きだけで成し遂げたロイの姿に、衝撃を受けたのだろう。
 焔の錬金術の威力を恐れ、味方からさえも遠巻きにされる『人間兵器』扱いに、ロイはここに来て三日で慣れた。彼らも『人間兵器』の存在に、三日で慣れるだろう。そう考えながら、ロイは彼らの沈黙を無視し、指揮官としての指示を出す。
「シグマ隊に脱出路が出来たと知らせろ。それから、回線一三〇八に援護を要請、大至急だ」
 至極冷静なロイの声を、通信士が怒鳴るようにマイクに向かって変換する。
「シグマ隊、こちらマスタング隊本部。貴隊より十一時の方向に直線路を確保した。出られるか?」
 しばしの雑音の後、明らかに安堵した声が無線機の向こうから返ってくる。
「進路確認、及び貴隊を視認した。負傷者を確保し撤退する。援護頼む」
「了解した。当隊には焔の錬金術師が所属している。安心しろ」
 通信士のその言葉に、無線機の向こうから返事はなかった。代わりに微かな悲鳴と、電波の途切れた後の砂嵐のような雑音が通信機に入ってくる。事は一刻を争うようだ。そう判断したロイはもう一度右手を軽く振って焔の導火線を生みながら、背後にいる部下に怒鳴る。
「同士討ちの危険がある。構えて待機せよ、合図があるまで撃つな」
 ボンッ。
 激しい音と砂埃を立て、ロイの焔が遠く煉瓦の塔を破壊する。
 カシャッ。
 その時、塔の崩れる音に混じり、聞き慣れぬ機械音が微かにロイの耳に聞こえた。スッと視線を動かすロイの様子に目敏く気付いた斥候の一人が、ロイの目配せを受け、駆け出していく。
 そんなやり取りの間に、前方から銃を手に後退してくる一団が視界に現れる。無傷の者も、腹圧ではみ出る腸を手で押さえた者も、足を引きずっている者も、皆一様に生き残るために必死の形相で瓦礫の中から脱出してくる。接近戦に持ち込まれてはイシュヴァールの武僧に敵わないことを、彼らは皆知っている。
 ダダダダダダッ!
 後退するシグマ隊を襲う銃声に、一瞬で視線を戦場に戻したロイは矢継ぎ早に焔を生みだし、脱出する彼らを援護する。イシュヴァール人の弾丸はロイたちのいる場所にまで届き、彼の周囲の地面に砂埃が立った。厄介な重火器を排除しようと躍起になる相手が、ロイを的にしているのは明白であった。
 胃の腑が冷えるような死への恐怖と、指揮官としての矜持が燃えるようにロイの腹の中で暴れる。ロイは己の中の後者の意思に従い、背後の部下に向かって怒鳴った。
「まだ、出るな! 構えて待機せよ」
 ロイは、独り火線の前に立つ。指揮官の立場をわきまえぬと言われようと、その強大な力の為に疎まれようと、部下に守られて後方にいるより、はるかにその方が彼には気が楽だった。
 そうでなくて、何の為の人間兵器か。ロイは自嘲し、弾丸の雨の中で新たな焔を撒き散らす。手の届かぬ瓦礫の向こうで、はらわたを撒き散らし死んでいくシグマ隊の兵を見つめながら。
 頬を掠める弾丸は、恐怖以外の何ものでもなかった。死が隣合わせで踊り狂い、それをねじ伏せる為にロイは狂ったように焔を振るう。振るった焔は同国民を殺戮し、味方に恐怖を与え、ますます彼を孤独に追い詰めていく。
 それでも、彼は焔を生み続けるしかないのだ。己が生き残る為に、己の背後に背負う者たちを生き残らせる為に。
 カシャッ。カシャッ。
 派手な爆発とロイの動きに合わせ、あの耳障りな微かな機械音は鳴り続けている。
 ロイは意識を前方に集中し、狙撃の目隠しになる煙幕を張る為に、焼くのではなく爆発を生むように錬成の水素濃度を上げた。派手な爆発は相手への威嚇にもなり、ロイを狙う弾は目に見えてその勢いを失った。
 退却するシグマ隊の兵士への援護にピンポイントで雷の如き一撃を放ち、イシュヴァール人の狙撃手を撃ち落としたロイは、現場に向かってようやくゴーサインを下す。
「負傷者を収容、援護出てやれ。射撃部隊、前へ。救護班待機」
「アイ、サー!」
 ようやく止んだ銃声を確認し、ロイは部下たちに負傷者の収容を急がせる。
「シグマ隊収容!」
「残り後何人だ? 確認急げ!」
「衛生兵は負傷者のトリアージを急げ。後の者は狙撃の手を止めるな、まだイシュヴァール人の残党がいる可能性は高い」
 ロイは攻撃の手を構えたままそう言い放ち、一時街路を封鎖するべく、建物を破壊しようと右手を前方に突き出した。彼が焔を生もうとしたその時、その腕に向かって一人の男が、倒れ込んできた。
「シグマ隊、撤退、完了。俺が……最後だ」
 息も絶え絶えにそう言った男の身体を、ロイは咄嗟に受け止めた。その瞬間、彼の真っ白な手袋は、暗赤色に染まった。どくどくと脈打つように溢れる男の血は、たちまちロイの手甲の紅い火蜥蜴を飲み込んでいく。
 唇まで蒼白になった男は満身創痍で、その軍服は彼が生きているのが不思議な程にぐっしょりと重く血に湿っていた。隊のしんがりを務め、負傷者を先に撤退させるのに彼が払った血の代価は、あまりに大量だった。そう、彼の命を損なうほどに。
 階級章から少佐と分かるその男は、ようやく任務から解放されることへの安堵の表情を浮かべ、ロイを見る。ロイの掌は生暖かい液体で満たされ、彼は既に日常の一部と化した、命が失われていく感覚に絶望を覚える。
「貴君、の、援護に……感、謝、する」
 自身の指揮する隊を守り抜いた男が、その功績と引き替えに命の灯火を消そうとしている気配を感じ、ロイは必死に叫ぶ。
「死ぬな!」
 だが、ロイの叫びも空しく彼を見る男の瞳は、ゆっくりと何も映さぬ硝子玉となっていった。男の流す血の赤とロイの軍服の青が混じり合い、黒い染みがロイを浸食する。ロイの手の中から、救えなかった命がこぼれていく。
 カシャ。
 何処かでまた、耳障りな機械音が響いた。
「衛生兵!」
 無駄だと分かっていながら怒鳴るロイの元に駆け寄る初老の男は、ロイの腕の中にいる男の姿に、ただ無言で首を振る。どこかでまた銃声が鳴る。応戦する機銃の音が頼りない。腕の中でどんどん重くなる男の体は、もう何の反応も示さない。
「小隊長!」
 命を救われたシグマ隊の兵士が放つ悲鳴のような声が、ぐんにゃりと力を失った男の上に注ぐ。ロイはギリギリと歯噛みし、ぐっしょりと血で濡れた手袋を乱暴に投げ捨て、新しい手袋を装着した。
「出るぞ、退け!」 
 その言葉と共にロイは焔の出力を上げ、乱暴に一区画をまるごと破壊する程の大爆発を起こした。誘発するように次々と爆破される建物はぐらぐらと崩れ、彼らの前の全てが吹き飛ばされた。
 ロイの放つ人間離れした攻撃力を目の当たりにしたシグマ隊の兵士たちは、一様に声を失った。ロイは背中に彼らの恐怖を感じる。
 ロイの背中に浴びせられる、息を飲む兵士たちの掠れた悲鳴に似た呼吸音。それは、『焔の錬金術師』という名が与える恐怖の、本当の意味を知った者たちが奏でる音であった。
 毎度聞き慣れたあからさまな恐怖の音色を無視し、ロイは腕の中の男の肉体から手を離した。また何も守れなかった己の不甲斐無さに、歯噛みしながら。
 男の体はロイの足下に崩れ落ち、男の血と煤とでどす黒く染めあげられたロイの姿は、鬼神のごとく焔の中に浮かび上がる。突撃する兵士を率い、ロイは全てを破壊し尽くさん勢いで進撃した。
 彼の通り過ぎた後には砂と瓦礫と死体だけが残され、血と焔が紅く全てを染めあげていく。置き忘れた恐怖と慙愧の念が、彼の胸を染めあげるように。彼の手袋の白さだけが、その中に異質に浮かび上がっている。
 カシャ。カシャ。カシャ。
 どこかでまた、機械音がなる。
 紅い景色を切り取るように、無機質な音が、繰り返し、繰り返し。それは彼らの戦闘が終わるまで、途切れることなく続いた。
 この日、ロイの率いるマスタング隊により、二十七地区は僅か二十八時間のうちに制圧された。シグマ隊の救助をした上での任務の完遂は、大いに賞賛されるべきものであった。
 だが、その結果として任務の責任者であるロイの手元に残されたのは、血に染まった軍服と、救った筈の味方から向けられる常人の中に紛れ込んだ怪物を見る眼差しだけだった。
 『焔の錬金術師』の名は、今日もまた賞賛と畏怖の対象として祭り上げられていく。彼の望むと望まざるとに関わらず。『焔の錬金術師』の名だけがモンスターのように膨らんで、ロイ・マスタングという名の個人はそこには存在しない。
 全てが終わった後、瓦礫の焼け野原と化した戦場でロイは独り、戦闘の最中に投げ捨てた味方の血に染まった発火布の手袋を拾い上げた。手袋に描かれた錬成陣の中の紅い火蜥蜴は、まるで彼の分身のように血に塗れて苦しげにのたうっている。
 疲労と苦々しい思いを噛みしめるロイは何かを求めるように、血よりも赤い夕陽に照らされ朱の色に染まった塔を見上げた。
 だが、そこにいる筈の狙撃手の少女の姿は、遙かに臨むべくもなかった。