いただきます ごちそうさま ありがとう サンプル

1.ファースト・インプレッション

 ぱたりと背後で扉の開く音がした。
 重い軍靴が廊下を静かに歩く音が、四分音符の威厳をもって彼女の方へと向かってくる。それは彼女が少女の頃から聞きなれた、彼が奏でる音楽の一つであった。
 変なところで几帳面な男は、まるでパーカッションのように規則正しいリズムをもって生活の様々な音を刻む。それは、彼が軍人になってからは、更に顕著になった。
 パブリックなシーンでもプライベートなシーンでも、彼女の耳を常に刺激する彼のリズムに頬を緩めながら、リザは穏やかな笑みを浮かべる。

 遥か昔、まだ少年であった頃から、彼はおかしなところで生真面目な人であった。
 家庭の中で家事全般を受け持ちコマネズミのように働く彼女を気遣い、自分で出来ることはさっさと自分でしてしまう、彼はそんな青年だった。皿を運んだり、電球を変えたり、気付くことは何でもやってくれた。
 彼女は彼のそんな優しさに、幾度助けられたことだろう。その上であの気難しい父の元での修行もこなし、あの父に焔の錬金術を与えるに足ると認めさせたのだから、まったく大したものだと感嘆せざるを得ない。

 その一方で少年であった頃の彼は、ドライに思えるほどに紳士的な青年だった。
 父親と彼女の二人暮らしのホークアイ家にいる時も、彼は決して他人としての境界を自分から越えてくるようなことは無かった。どれだけ親しくなろうとも彼は紳士的で余計な詮索はせず、あくまでも『彼女の父親の弟子』というラインを彼女との間に引いていた。往々にして他者との距離が曖昧になりがちなあの年頃の青年としては出来すぎた気遣いの出来る、まるで若者らしくない若者だったと言えるだろう。

 彼と彼女との出逢いは、春まだ浅いある日の夕暮れ時のことであった。
 彼と初めて会った時どんな会話をしたか、彼女は今でも思い出すことが出来る。だからと言って、沢山いた他の父のお弟子さんと彼の挨拶が全く違っていたという訳ではない。ただ名前を名乗り合うだけの本当に当たり前の自己紹介を交わし、彼女は彼を父の元に案内しただけだった。
 ただ、あの日の冬の透明な空気のように澄んだ眼差しと、青年にしては落ち着いた穏やかな声が、強く彼女の記憶の中に刷り込まれていた。ロイ・マスタング、彼女の一生を変えるその名と共に。
 恐らく彼はそんな一瞬の出来事など、覚えてもいないだろう。彼の笑顔をどう受け取ればいいか分からなかった彼女は返すべき言葉も見つからず、逃げるように彼の前から姿を消したのだから。

 共に歩む人生の始まりは実に平凡で、だが印象深いものだった。
 それも、今こうして二人が共にいて過去を振り返るからこそ、そう思うだけなのかもしれない。運命の出会いなどというロマンティックなものは、往々にして想像の中にしか存在しないものであるのだから。
 台所に近付いてくるリズムに耳をそばだてながら、リザは過去に想いを馳せ、包丁を動かす手を止めた。

         §

 さて、どうしたものだろう。
 リザは自分が食べた夕食の食器を片付けながら、思案顔でダイニングテーブルの向かいの席を見つめた。机の上には、使われなかった一組の食器がぽつりと残されている。
 夕食の時間になっても姿を現さなかった父のお弟子さんが座る筈だった席を見つめ、リザはさっきから彼の分の食器を片付けてしまおうかどうか考えていた。
 事前に伝えておいた夕食の時間に彼が姿を現さなかったのは、彼がこの家に通うようになった半年の間で、これが初めてのことだった。
 夕食の前に一度はドアの外からマスタングに声はかけたが、それにすら返事がなかった。食事を終えた父親はとっくに食卓から姿を消し、リザも一応彼を待ってはみたものの流石に後が片付かないので、自分も食事を済ませてしまっていた。
 今まで迎えた父のお弟子さん達の行動パターンから考えると、だいたいこういう時は邪魔をしない方が無難であることを彼女は経験則で知っている。師匠によく似た弟子達が錬金術に夢中になって夕食を忘れることは、まったく珍しくも無いことだったからだ。
 だから、本来ならこのまま食卓を片付けてしまっても、マスタングの方から何か言ってきたら何か夜食の用意をすれば、彼女の仕事としては何ら問題ない筈だった。
 ステンレスの鈍い光を放つ未使用のカトラリーを眺め、リザは食器を片付けられないでいる自分が理解できず、頭を横に振った。
 今まで彼女の父親の元にやってきたお弟子さん達は、類は友を呼ぶのか、朱に交われば赤くなるのか、どちらかと言えば個性的な人物が多かった。書斎に籠もれば籠もりきり。一晩中部屋に明かりが点いていたり、寝食を忘れ錬金術にのめり込んだり、彼らが日常生活を疎かにすることは日常茶飯事であった。
 だが、マスタングは父のお弟子さん達の中では、ある意味異色な存在であった。つまり、彼は非常に常識的な人間であったのだ。
 あの律儀な青年が一言の断りもなく夕食の席に姿を見せなかったのは初めてであったし、彼がリザの伝えるホークアイ家のスケジュールから逸脱するのも初めてのことであった。
 そうなのだ、この家に初めてやって来た時から、彼はとても律儀な青年だった。否、律儀と言うよりは、お行儀が良いと言うか真面目過ぎると言った方がしっくりくるような青年であった。
 彼女は彼との初対面の日のことを、まるで昨日のことのように思い出す。

「この週末から新しい弟子が来る。今度は通いの弟子になるが、客間は今までの奴らと同じように用意してやってくれ」
「はい、分かりました」
 あの日、父から突然の新しいお弟子さんの来訪を告げられたリザは、いつものことかと驚きもせずに父の言葉を受け止めた。
 父のお弟子さんの採用はいつだって突然で、リザの都合など何も考えられたものではなかった。いきなり明日から、というのはまだマシな方で、一番酷かった時は当日の朝、玄関でお弟子さん本人から弟子入りした経緯を聞く事もあるくらいだった。
 勿論、彼女の父親に悪気があるわけではなかった。ただ単純に、彼女の父は他に大切な考えごとがあると(それは、大抵が錬金術に関することであったが)他のことに思考が向かなくなってしまうだけなのだ。何度言っても改められぬ父親の悪癖に、リザはとうの昔に匙を投げていたし、そんな思い掛けない事態に備えて常に片付けられている家に今更なんの準備も必要はなかった。
 だからリザは肩を一つ竦めただけで、頭の中の予定表に新たなお弟子さんの出迎えをいつものルーティンワークの一つに組み込むと、また他人が家の中に入り込む窮屈な生活の訪れに小さな溜め息をついたのだった。
 翌日、父に告げられた時間のきっかり五分前に、玄関のノッカーが鳴った。
 どうやら新しいお弟子さんは、時間は守るタイプの人種らしい。実にありがたいことだ。リザはこれから自分が世話を焼かねばならない人物に対処する為、彼をカテゴライズするべく小さな頭の中で分析を開始しながら、玄関の扉を開けた。
 扉を開けた瞬間、冷たい冬の空気と共に澄んだ眼差しが彼女の目の前に現れた。
 玄関口には愛想の良い笑みを湛えた黒髪の青年が、まるで最初から自分より背の低い人間が扉を開ける事を予期していたかのように、真っ直ぐにリザを見下ろしていた。避ける余裕もなく男と視線を合わす事になったリザは、その瞳の静けさに驚く事になる。
 リザは、思い掛けない初対面の男の眼差しに面食らった。柔らかな笑みとは裏腹に、彼はリザと同じ、相手を分析しカテゴライズする意図を持った眼差しで彼女を見ていた。
 リザが今まで見てきた父のお弟子さん達は、初対面の時から大抵がリザを見ていなかった。彼らはこれから導かれる錬金術の世界に心を躍らせ、暗いホークアイ家の奥に眠る宝を見つけようとするかのように、彼女の父の存在へと意識を飛ばしているのが常だった。
 だが、目の前の男はその印象的な切れ長の黒い目で、じっとリザだけを見つめていた。
 リザは逆に自分が彼に分析されてしまうような気がして、一瞬で彼の視線から逃げ出し、それを誤魔化すように彼の喉元を見つめた。そうしておけば、彼女はきちんと彼と目線を合わせて喋っているように見える筈だった。
 青年は彼女の一瞬の判断とその意図に気付いたようだったが、それを見て見ぬふりをした。彼はただ苦笑にも見える笑みの形を崩さぬまま、彼女にこう言った。
「はじめまして。今日からホークアイ師匠の元でお世話になる事になったロイ・マスタングという者ですが」
 青年の挨拶は紋切り型で、彼女がいつも聞き慣れたものであった。リザはそのことに少しだけ安堵すると、いつもの愛想の無い無表情を顔面に貼り付け、事務的に答えた。
「はい、父から聞いております」
「君は……師匠の娘さん?」
「はい。リザ・ホークアイと申します。父の書斎にご案内致しますので、こちらにどうぞ」
 リザはマスタングにこれ以上詮索されないように挨拶を切り上げ、彼を父親に引き渡すことを急ぐ。だが、マスタングは彼女の言葉を吟味するように一瞬口を閉じたが、直ぐに先程までの堅苦しい調子を崩すと、少しだけ低い柔らかな声でこう言いながら彼女に手を差し出したのだった。
「よろしく、ミス・ホークアイ
 優しくて柔らかな声が、まるで一人前の女性を扱うようにリザを呼んだ。その声の調子は何だかとてもリザを気恥ずかしくさせるもので、リザは無愛想な自分を貫く為、彼が差し出した手を全く無視すると、クルリと彼に背を向けた。
「どうぞ、お入り下さい」
「失礼します」
 リザの非礼をまったく気にする様子も無く、マスタングは後ろ手にぱたりと扉を閉めると、ゆっくりとした足取りで彼女の後について歩き出す。一定のリズムを刻む緩やかな彼の足音を聞きながら、リザは今までに父が迎えてきたどのお弟子さんとも共通項の無い不思議な青年の視線を背中に感じていた。
 彼に対する対処法を見出せぬまま、彼を父の元に案内したリザは、そのまま逃げるように彼の前から姿を消したのだった。