優しい莫迦の躾け サンプル

 リザが初めてその人物と顔を合わせたのは、彼女がロイの副官になって数年が過ぎた頃であった。
 イシュヴァール内乱を経て、共に贖罪の道を歩む事を選んだ彼女とロイの関係は、その頃にはようやく他人行儀な遠慮が消え、当たり前の上官と部下の体裁が整い始めていた。ロイは少しずつ彼女の前でサボリ魔の片鱗を見せ始めていたし、リザも多少の遠慮を見せながらもデスクワークをなおざりにする彼に苦言を呈する日々が常態となっていた。
 それは、ある出張の帰りのことだった。セントラル・ステーションに向かう道中、不意にロイは彼女に言ったのだった。
「君に会っておいてもらいたい人物がいる」
 リザは思いがけないロイの言葉に、僅かに目を見開いた。セントラルへの出張には幾度か同道していたリザだったが、彼に職務以外の件でそのようなことを言われたのは初めてだった。
 仕事も終わった後のこんな時間に彼が会おうという人間なのだから、おそらく彼のプライベートでの付き合いの相手であり、尚且つ彼女に紹介する必要があるというのだから、職務における付き合いもある人物なのだろう。
 リザはそう推察しながら、反射的に彼の親友であるヒューズの顔を思い浮かべていた。
 そんな条件に見合う人物は、彼くらいしか思い当たらない。だが、ロイがわざわざ紹介すると言ってくるのだから、相手はリザの全く知らない人物であることは確かだった。
「どのようなお方でしょうか?」
 出来れば事前にどのような人物なのか情報が欲しいと考える彼女に対し、ロイは少し困ったような顔で笑った。
「私がいつもとても世話になっていて、到底頭の上がらない人物さ。今後、君にも彼女と繋ぎを付けて貰わねばならない事態もあるかと思うので、一度顔を合わせておいて欲しい」
 『彼』、ではなく『彼女』、なのか。
 リザは若干の意外さを感じながら、彼女の返事を待たず歩き出す上官の後を追う。
「民間の方でいらっしゃいますか?」
「ああ。軍人ではない」
「では」
「会えば分かる」
 こういう時、持って回った言い方をするのは、ロイの悪い癖だ。彼女を驚かせようとしているのか、自分に都合の悪いことを隠そうとしているのか、何にせよ事情があるのは間違いない。リザは諦めて、小さな溜め息をつくと、口を噤んだ。
 彼女が黙り込んだことを了承の合図と受け取ったらしい男は、駅へと向かう道を逸れ、夜の歓楽街へと足を踏み入れていく。
 まだ夜と呼ぶには少し早い時間だというのに、暮れ時の街には着飾った女たちと鼻の下を伸ばした男たちがたむろしている。そんな夜を生業にする者たちの中を軍服で行く彼らは、明らかに悪い意味で目立っていた。
 彼は、自分をどこに連れていくつもりだろう?
 賑やかな都会の夜の街になど足を踏み入れたことのない彼女は、微かな不安を覚えながらも彼について行く。
 彼が世話になっていると言っていたから、ひょっとしたら地位の高い人物か、あるいは政財界の大物が相手で、ロイとの会合が公になっては困るのかもしれない。だから、夜の店でわざわざ面会の約束をしたのだろう。
 そう考えたリザの予測は、見事に外れた。
 カランと澄んだカウベルの音を鳴らしてロイが扉を開けた一件のバーには、客の姿は一人もなかった。
「遅かったじゃないか」
 酒に焼けた嗄れ声が、カウンターの中から彼らを出迎えた。
「ああ、すまない、マダム。少し仕事が立て込んでしまってね」
「言い訳は後で聞くよ。それより、さっさと用件を済ませてしまっておくれ。あんたに軍服でこの店に出入りされちゃあ、こっちは商売上がったりなんだから」
「分かったよ」
 そう言って肩を竦めたロイは、唖然として立ち尽くすリザを振り向いた。
「少尉、紹介しよう。この店のオーナーのマダム・クリスマスだ。以後、君にも彼女との連絡役を務めてもらうこともあるかと思う。よろしく頼む。マダム、何度か話したことがある私の副官だ。やっと、連れてきた。よろしく頼む」
「ああ、よろしく」
 ロイとマダムの視線に、リザはようやく目の前にいる大柄な女性が、目的の相手であることに思い至った。彼女は慌てて反射的にピシリと敬礼の姿勢をとると、マダムに向かって言った。
「私、ロイ・マスタング中佐の副官を務めさせていただいております、リザ・ホークアイと申します。以後、御指導御鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
「あたしゃ軍人じゃないから、そんな堅苦しい挨拶はいいよ。まぁ、座りな」
 マダムにそう言われて、リザは自分が上官に対してするような最敬礼の姿勢をとっていることに気付き、思わず赤面した。マダムはそんな彼女に口元だけで笑いかけると、くわえ煙草を燻らせながら、カウンターにコトリとグラスを置いた。
 ロイは彼女より先にスツールに腰掛けながら、クツクツと笑う。
「マダムがあまりに貫禄があるせいで、流石の君もすっかり気圧されてしまったようだな」
「そんなことは!」
「いいから座りな。あんた等の用が終わらないと、店が開けられないだろうが。女の子たちも待たせてんだ。さっさとおし」
 マダムにそう言われては、リザも反論を諦めざるを得ない。渋々上官の隣のスツールに座ったリザは、どうにも居心地の悪い思いで綺麗な一枚板のカウンターに視線を落とした。すると、ポン、と小気味の良い音をたてて、ボトルを開ける音がした。驚くリザの目の前で、細いグラスに淡いピンクゴールドの液体が弾ける泡と共に注がれていく。
「お近付きの印だよ。飲んでいきな」
 リザは慌てて視線を上げると、マダムに言った。
「申し訳ありません、まだ勤務中ですのでアルコールは」
「そうは言うがね、あんた。もう飲んでるよ? あんたの上官」
 リザの言葉に全く気を悪くした風もなく、マダムは彼女の隣を指さした。彼女の言葉通り、ロイは細いグラスを無造作に手に取って、半貴石のようにきらめく液体を飲み干しにかかっている。
「中佐!」
「ん? 何かね」
 くぅと喉を鳴らしながら炭酸を口にする男は、僅かにアルコールの混じった息を吐き出しながら、彼女を振り向いた。
「ここでの我々の仕事は終わったはずだが、少尉? ま、東方司令部に帰り着くまでが出張だと言われれば、反論はしないがね」
 子供の理屈のようなロイの反論にリザがブスリと仏頂面を作ると、カウンターの向こうでいかにも仕方がないと言った風情の笑い声がたつ。
「あんたもいい加減、この男の戯れ言にまともに反応するのは止めた方が良いんじゃないかい? 莫迦を見るのは、あんただよ。それに、酒は美味いうちに飲んでしまった方が、あんたにとっても、この酒にとっても幸せだと思うんだがね」
 マダムの貫禄の助言にリザは反論の言葉もなく、仏頂面のままグラスを手に取った。キラキラと光を反射する炭酸の泡がグラスの中で踊り、リザは自棄のように、ぐっと一息にグラスの中身をあおった。
 喉を流れ落ちる液体は冷たく刺激的で、柔らかな甘さとマスカットそのものの果実味を、弾ける泡が華やかに装飾している。リザは心地好い液体に、一瞬、仕事を忘れた。
 確かにこの酒は、気が抜けたり温くなったりしたら、甘ったるいだけのべたりとしたものになってしまうだろう。飲み時を逃すなという、マダムの言葉は確かに正しかった。リザはそう考えながら、舌に残る果実の甘みを反芻する。
「女性が喜びそうな味だ。この店に必要かな」
「同伴する女の子に飲んで貰わないといけないからね。こういうのも必要さ」
「なるほど」
 いかにも親しげなロイとマダムの会話を聞きながら、リザはこの二人の関係に思考を移した。
 ただのバーの経営者と常連客、だと言われれば、それも嘘ではないようにも思える。だが、そうであったならば、ロイがわざわざ彼女にマダムを紹介するとは思えない。
 街の情報屋、あるいは情報屋に場所を提供する関係者、といった辺りがマダムの正体としては、妥当なところだろうか。あるいは、政財界に顔の利く裏社会のボス。それとも、誰か高官の愛人。マダムの貫録から考えれば、そのどれもが正解だと言われても違和感はなかった。
 だが、流石にここで不躾にマダムに上官との関係を聞くことも出来ず、リザは消化不良な思いで繊細なグラスを静かにテーブルの上に戻した。
「御馳走様でした」
「あんたもいける口かい?」
 彼女が答えるより早く、隣に座るロイが笑いながらマダムに答えた。
「ああ、彼女は私より強いかもしれない」
「それは頼もしいね」
「そんなことは」
 彼の言葉を否定しようとするリザの言葉は、しかし、あっさりとマダムに無視されてしまう。
「商売柄、うちの子は皆酒が強いが、あんたもそうなら嬉しいね」
 リザは彼女をからかう様子もないストレートなマダムの言葉に、少し驚きを感じる。その外見から、マダムに対してもう少し皮肉屋っぽい印象を勝手に持っていたからだ。リザはマダムのストレートさにつられて、素直な疑問を口にする。
「そういうものなのですか」
「苦手な子に無理強いするのは、可哀想だろう? 酒が好きだと言ってくれる子に飲ませる方が、酒も幸せだと思わないかい?」
 マダムの言葉は理路整然としていながら、ユーモアと気遣いを含んだものであった。リザは無意識の内に身構えていた心を少し緩めると、マダムと向き合った。
「幸せ、ですか」
「ああ、あたしたちは楽しい酒を飲ませるために、ここにいるんだからね。飲めない人間にとっては、酒そのものが苦痛だろう?」
「おっしゃり通りかと」
「だから、美味いうちに飲みなって言うんだよ。じっくり舐めてりゃいい酒なら、言わないさ」
「分かりました」
 会話の合間に、マダムはリザのグラスにアルコールを注ぐ。彼女はマダムの言葉を受けて、二杯目の酒に口を付けた。
「どうだい? いい酒だろう」
「はい。果実味がとても強いのに、酸味で飲み口がすっきりしていて飲み易いです。でも、アルコールの強さを隠していないのが、ある意味親切かと」
「親切か、上手いこと言うね。確かに送り狼には、面白くない酒だろうさ」
 そう言って、マダムは笑った。リザはマダムに褒められたような気がして少し面映ゆくなり、残りの酒を一息に飲み干した。
「いい飲みっぷりだね。気に入ったよ」
「ありがとうございます」
 素直に礼を言いながら、リザは不思議とマダムの前では、無防備になる自分を感じていた。