星から降る金 サンプル

1.プロローグ

 ロイがその少年と出会ったのは、彼が二十五歳の時のことであった。
 当時、少年は十一歳。
 ロイの人生の半分にも満たない時を生きたに過ぎない少年は、彼が錬金術を学び始めた当時と同じ年齢において、とてつもない偉業に手を出した。
 偉業? 否、それは愚行と言って差し支えのない行為であった。
人体錬成。
 現在のロイが実行したとしても成功の確率は限りなくゼロに近いであろう術を、少年は無邪気な願いの為に成し遂げようと試みたのだ。才気に満ちた幼さは、時に傲慢さと紙一重であることを少年は知らなかった。
 幸か不幸か、少年は錬金術に対して桁外れの才能を持っていた。しかも、彼の周囲にはその術を遂行する為の知識を得る環境が整っていた。更には彼の弟という、少年に匹敵する錬金術の才能を持つ協力者までが、その傍に存在した。
 だがそれだけのカードを揃えていたにも拘らず、少年はその術に失敗した。そして、成功しなかったにも関わらず、その術が等価交換として少年から奪ったものは、あまりに大きなものであった。
『大いなる力は、その対価として更に大いなるものを求めるのだ』
 手足を失い、弟の肉体を失い、己の無力さを知った少年と出会った時、そんな言葉が脳裏に浮かんだことをロイははっきりと覚えている。何故なら彼はその時その光景に、ふと我を省みて考えてしまったからだ。
ロイもまた少年よりほんの少しばかり年齢を重ねた頃に、己の身に余る大いなる力に手を出したことがあった。
 焔の錬金術
 最強にして最凶の術が等価交換としてロイから奪っていったものは何だったのか。
 そんな疑問が脳裏を掠めた次の瞬間、当時のロイは本能的にその自問の抱える危険性を察知し、慌てて思考の方向を少年とその弟の処遇へと強制的に切り替えた。
 何故なら、その問いは彼が普段見ないように心掛けている、彼の心の最も柔い部分に触れるものであったからだ。
 だが、小さな棘のように彼の心に刺さったその問いは、それ以降たびたびロイの胸の内にひょこりと顔を出すようになった。そして、その棘が心を刺すたび、ロイは無意識に己の後ろを振り返っていた。
 いつもと変わらず青い軍服を着て彼の背中を預かる女の姿をその視界に収め、ロイはそっと己の掌を握り締める。

 焔の錬金術により彼が得たもの。
 それを得たことにより彼が失ったもの。
 そして、それ程の大きな力をもってしても、ロイから奪うことの出来なかったもの。

 彼の手の中に残ったものは一体何なのか。
 掌を開いてみたところで、そんなところに答えなどある筈もない。そんなことは分かりきっているというのに、彼は今も時折じっと己の掌を見つめる。


2.傷

 その事件が起こったのは、太陽が天頂に届くほんの少し前のことであった。
 この日、新しく建設される鍛兵場の候補地の視察に出かけたロイは、いつもの如く副官であるリザ・ホークアイに車のハンドルを任せ、後部座席で書類を眺めていた。
 イーストシティに近い郊外のその土地は森林が多く、鉄道の線路と無人駅だけが唯一の建造物であるような景色が延々と続く場所だった。同じような景色に飽き飽きし、ロイは欠伸を噛み殺しながら、副官と他愛のない会話を繰り広げていた。
「予定より早く終わったな、中尉。どうだ、昼飯でも食べてから帰るか」
 暢気にそう言ったロイを咎めるように、リザはルームミラー越しに彼を榛色の瞳で睨みつけた
「早く終わらせた、の間違いではないのですか? 大佐」
「当然だろう。あんな茶番に付き合ってやるほど、私も暇ではない」
 冷たい声で答えるリザにルームミラー越しに苦笑してみせながら、ロイはあっさりと彼女の言葉を肯定した。
 急に押しつけられた今回の視察は、まったく形式的なものであった。資料もろくに揃ってはおらず、おそらく上の方では既に候補地は決定されているであろうことが視察の案内人の言動から窺えた。小役人の慇懃無礼な態度に辟易しながらも、内心のそれを隠して己の役割をきちんと演じきったのだから、褒められこそすれしかられることは何も無いと彼は思っているくらいだった。
「茶番だからこそ、きちんと演じなければならないのではありませんか」
 彼女の呆れ声を無視して、ロイは重ねて彼女に言った。
「それよりも昼飯だ。この辺は確か羊料理が有名だったろう。緑豊かな土地だからな。こんな恵まれた場所に鍛兵場を建てるのもいかがなものかと思うが、まぁ、決まったことは仕方あるまい」
「まだ決まっておりません」
「君だってさっき茶番だと認めたじゃないか」
 彼女の揚げ足を取るロイの言い分に、リザは一瞬言葉に詰まり、そして分かり易く話題を変えた。
「どちらにしろ、ここでランチを取っている暇はありません。早く司令部に戻らなくては。本日中に仕上げていただかないといけない書類が溜まっていることをお忘れですか?」
「今日はこんな遠出をしたのだ、書類くらい明日に回してもいいだろう」
 あくまでも職務を最優先とするリザの生真面目さをからかうように、ロイはわざと彼女の言葉に逆らってみせた。彼の挑発に、リザはわざとらしい大きな溜め息をついてみせる。
「大佐。エルリック兄弟から報告の為に明日のお昼ごろ司令部に来る、という連絡があったではありませんか。お忘れですか?」
 ああ、すっかり忘れていた。
 彼女の言葉に、ロイは己のスケジュールを思い出す。そういえば一昨日、報告書を提出しに行くからと、小さな錬金術師にロイは司令部に在席している時間を電話で聞かれたのだった。
 流石に遠方からやって来る子供たちとの約束を、緊急事態でもないのにすっぽかす訳にはいかない。ロイとて一応は分別のある大人なのだ。今日ばかりは副官殿の言葉に従って、早々に帰って仕事をするしか無いようだった。
 ロイは寄り道を諦め、早速とばかりに手元の書類に再び視線を落とした。切り替えの早い上官がその思考を仕事へと向けたことをルームミラー越しに確認したリザは、彼の返事がないことを返事と受け取り、黙って車のスピードを上げた。
 長閑な田舎道を走る車内に、穏やかな沈黙が満ちた。このまま走れば、正午過ぎには軍の食堂で昼飯にありつくことも出来るだろう。ロイは暢気にそう考えながら、全ての資料に目を通していった。渡された資料以外にリザが揃えた様々に隠された裏模様を探ったレポートを読めば、今回の視察が本当に茶番であったことが改めて確認出来、ロイは呆れると同時に胸の内で溜め息をつくしかなかった。
 何を今更ではあるのだが、軍の末端は腐っている。今回の不正の裏を暴く気はないが、誰の差し金であるかを知っておいても損はあるまい。
 そんな思考でロイは手の中の紙束を隣の座席に投げ出すと、粗雑な書類の扱いに眦を上げる副官に向かい、至極事務的な口調で問いかけた。
「中尉、これで候補地の金の流れに関する資料は全てか?」
「入札に際しての具体的な数字は、まだこちらの手元には届いておりません」
「そうではなく、既に上の方で決まっている数字だ。何とか手に入れることは出来ないか?」
 ロイの思考を悟った彼女が何か答えようとした、その時。
 不意にルームミラー越しにロイへと向けられていた彼女の視線が動いた。と同時に凄まじい横殴りのGがかかり、彼女が咄嗟の急ハンドルを切ったことが分かった。
 何が起こったのかを考えるより先に、ロイの神経は警報を放ち、咄嗟の事態に備えるべく彼の肉体は反射的に深く座席に沈んだ。隣席に放り出した書類が床に散るのを彼が目にした次の瞬間、彼らの乗った車はドゥンという爆発音と共に激しく揺れた。
 大きな衝撃を受けながらも、リザのハンドル捌きは的確だった。車が横転しそうなほどの激しい揺れを方向転換のベクトルに変え、リザはギュルギュルと長く尾を引くブレーキ音を立てながら車をドリフトさせた。意に染まぬ方向転換を強いられた車体はガタガタと抗議の声をあげたが、彼女は的確に車を操り、バウンドする車体を無事に道路に着地させアクセルを踏んだ。急発進する彼らの車の後方で、再び大きな爆発音が起こる。
 ロイは副官が運転だけに集中できるよう、狙撃の危険を避ける為、己の姿を車窓から隠したまま彼女に問う。
「怪我は?」
「ありません。とりあえず私がお声を掛けるまで、大佐はそのまま伏せていらしてください」
 あくまでも冷静な彼女の声はそれでも僅かに緊張の色を含み、事態が楽観できるものではないことを彼に告げていた。
 砲撃か、爆弾か。いずれにしても襲撃を受けたことに間違いはなかった。
 襲撃を受けた場所が街のど真ん中でなかったことが、唯一の救いであった。もしこれが市街地であったなら、リザはこれ程までに華麗にドリフトを決めることは出来なかったであろうし、最初の爆発で多くの人民が巻き込まれていただろう。
 揺れる車の中で体勢を立て直しながら、ロイは発火布の手袋を装着しながらリザを見た。
「状況を報告しろ」
 臨戦態勢に入ったことを告げるロイの声に、リザはチラリとルームミラーで彼の様子を見ると、諦めを含んだ声で彼のオーダーに答えた。
「五時の方角より何者かからの砲撃を受けました。状況から鑑みて、相手も車の中からこちらを狙ったもののようです」
「相手の武器は」
「不明ですが、おそらく大型の重火器かと思われます。それ以外にも武装している可能性は高いかと」
「追っ手は」
「現時点では一台です。ただし、あちらが援軍を呼んでいれば話は別ですが」
「相手との距離」
「約百メートル」
「逃げ切れるか?」
「七分の割合で難しいかと」
 彼女の簡潔な報告を確認するべく、ロイは頭を上げてリアウィンドウから後方を窺った。そこには、凄まじいスピードで彼らを追いかけて来る車の影が見て取れた。確かにこれを振り切るのは至難の業だし、万一これ以上に敵が増えれば挟撃される可能性もある。ならば無謀な作戦は避け、援軍が来るまでどこかで篭城するしかないだろう。
 ロイはそう判断すると、彼女にオーダーを下す。
「本部に応援の要請をする。後は応援が来るまで、二人で持ちこたえるしかないだろう」
 ロイの判断が妥当だと判断したらしいリザは、車のスピードを上げた。その行動には街から遠ざかることで市街地への被害を極力抑えようという彼女の思考が読み取れ、言わずとも通じるものにロイは満足し、小さな笑みを浮かべた。
 ロイの笑みを敵に対する不敵な宣戦布告と受け取ったらしいリザは、ルームミラーの中に怖い顔を作りながら諭すように彼に言う。
「通過した無人駅まで戻れば、通信手段も我々が一時退避する場所も確保出来るでしょう。その後の判断は大佐にお任せしますので、とりあえずは今は身を伏せていらしてください」
 カーチェイスを繰り広げながらの砲撃戦はやめろということか。彼女の最大限の譲歩に、ロイは頷いてみせる。
「分かった。ところで君、相手を見たか?」
「ノー、サー。現時点で私に分かることは、あちらの車の乗車人数が五名だ、ということだけです」
「相変わらず素晴らしいな、君の鷹の目は」
「大佐、それより頭を窓より高く上げないで下さい。どうせ向こうの狙いは貴方なのですから」
「分かっている。まったく、もてる男は辛いな」
 ロイの軽口を二度とも無視したリザは、予告もなくアクセルを踏みこんだ。ロイは危うく舌を噛みそうになり、口を閉じると再び後部座席にその身を沈めた。
 その背後でドンッと鈍い花火のような音が連続して上がる。どうやらリアウィンドウに映ったロイの姿を認めた敵が活性化し、闇雲な攻撃を仕掛けてきたものらしい。
 確実に当たる距離でもないのに標的の姿が見えただけでそこまでエキサイトするとは、常軌を逸しているのではないだろうか。ロイは敵の行動に僅かな異常性を感じながら、戦いの地に到達するまでの采配を全て副官に任せ、己の力を振るえる場所に到達する時を待った。
 背後で爆発音が響くたび、リザは急加速に加えて急ハンドルを使い、まったく出鱈目に車を走行させた。規則性のまったくない車の動きは、彼女の狙撃手としての経験に基づいた『狙いを定め辛い嫌な標的』の模範的一例であるのだろう。
 土埃を上げて整備もされていない田舎道を疾走する二台の車の距離は、じりじりと開いていく。ドンッ、ドンッと地面を揺るがすロイを狙う飛び道具の音は、ギュルギュルと甲高い音を立てて道路を削るタイヤの軋みにかき消され遠ざかっていく。
 ジグザグと無駄な距離を走っている筈なのに、リザの卓越した運転技術はテロリストの追随を許さず、目指す無人駅はあっという間に眼前に迫った。ロイは視線の先に現れた建物の強度を目測し、いつでも車から脱出出来るように体勢を整えながら簡単な作戦を考える。
 いくら相手が重火器を持っていようとも、五対二なら勝機は十分にある。油断は禁物ではあるが、リザも護衛用に十分な弾薬を用意していることだし、敵を各々分断してセオリー通り各個撃破していけばいい。ロイ自身を囮にする作戦はきっと副官に叱られるだろうが、そこはいつものことと目をつぶってもらう他ない。
 激しくタイヤの軋む音と焼け焦げそうなエンジンの臭いで満たされた狭い車内には、戦闘に向けて分泌されるきな臭いアドレナリンの成分が含まれていく。僅かな緊張感と高揚感がロイの口元に笑みを浮かばせる。何気なく視線を前方にやれば、リザもまたその綺麗な口元に薄い刃のような笑みを浮かべていた。
 ロイは似た者同士である自分達に苦笑し、ポケットの銀時計を取り出した。時計の針は正午に少し足りない位置を指している。
 ランチの時間が更に遅くなりそうだと思いながら、ロイは車内の騒音に負けぬよう彼女に怒鳴った。
「改札前に車を横付けしろ。車を降りたら、私は正面から奴らの相手をする。君は司令部に連絡を入れてくれ。その後は私の援護を頼む」
「また、貴方は一人で前線に立たれるおつもりですか!」
 呆れを通り越した怒りを声に滲ませながら、リザは彼に負けぬよう大きな声で怒鳴り返してきた。そうしながらも彼女の手は大きくハンドルを切り、駅に入る一本しかない道へと車を乗り込ませた。
「仕方ないだろう。今回は諦めろ」
「今回だけで済むとでもおっしゃいますか?」
「作戦開始は三分後。全部終わったら、昼飯だ」
 ロイは彼女の怒りを完全に聞き流し、勝手に会話を打ち切った。彼の言葉にリザは腹いせのようにアクセルを思い切り踏み込むと、駅の横手で急ブレーキをかけ乱暴に車を停車した。反動で車内を乱舞する書類の中で、ロイは運転席の後ろに額をぶつけて顔を顰める羽目に陥った。
「……ッ!」
 痛みを堪えるロイの耳に、冷ややかな声が届いた。
「イエス、サー。ただし、ランチの件に関しましては保留とさせて頂きます」
 リザは完全に開き直った口調で、彼のオーダーを受け入れた。この状況では、流石の彼女もデスクワーク云々などと言っていられる訳もないし、ロイの作戦が恐らく現時点ではベストであることを彼女も認めざるを得なかったのだろう。
 敵は彼らが二人きりで視察に出ることを知っていた。ならば、彼女の狙撃の腕も、ロイの焔のこともよく知っていることだろう。だが、敵はロイに対して異常な程の闘争心を持っているらしい。
 ここまで偏執的にロイへの敵意を剥き出しにしている敵なのだから、ロイが一人でその前に立てば更にヒートアップしてくるに違いない。敵の冷静さを削ぐ為にも、弾薬を無駄撃ちさせる為にも、それはかなり効果的なやり方である。
「ゴー!」
 ロイのハンドサインを合図に、二人は同時に車外へと飛び出し、誰もいない駅へと飛び込んだ。