SSS集 4

  存在位置



 控えめに、酷く控えめに彼女の手が私のワイシャツの袖口を握った。
 顔を伏せた彼女の白い指先は頼りない薄い布切れの端を縋るようにきつく握りしめ、その肩は少しだけ震えていた。小さく上下するその背を見ながら、私は彼女が口を開くのを待った。問い掛ければ、その分彼女が何も言えなくなる事を私は知っていた。
「私は」
 小さな声が涙の代わりに、夜の闇にポツリと落とされる。
「私は本当に存在して良いのでしょうか」
 闇が我々の孤独を地獄の灯火のように浮き上がらせる。私は黙って彼女を抱き寄せた。
「私はここにいても良いのでしょうか」
 腕の中から聞こえるか細い声に、私は彼女を抱く手に力を込めた。
「君が此処に居てくれないと、私は何処にも存在する場所がない」
 そう言って私は彼女を自分の腕の中にしっかりと閉じ込めると、二人が果てしない闇に飲み込まれないように大地を踏みしめる。そして自分たちが何に抗っているのかすら分からぬまま、星すら見えぬ暗い夜を仰ぎ奥歯をギリギリと噛み締めた。
 
(静かな哀しい夜)
  雨と嘘

  午後になって降り出した雨は霧のように細かで、走って帰れば傘も要らない程度に思えた。リザは折り畳みの傘を鞄から出そうか否か少し迷って、司令部の玄関で雨空を見上げる。その時、背後に人の気配がした。
「どうした? 珍しいな、君が傘を持っていないなんて」
 そう言って彼女に声をかけてきたのは、彼女の黒髪の上官だった。どうやら走って帰る気満々らしいロイは、リザに言う。
「うちの方が近い。来るなら珈琲ぐらい出すがどうだね」
 まるでナンパのようなロイの物言いにリザはクスリと笑って、いつもそうやって女性を口説いていらっしゃるのですかと尋ねる。ロイは肩をすくめると、
「そう思いたければ思えばいいが」
 と前置きして言った。
「誓って我が家には、君以外の女性は上げたことはないのだがね」
 そんな事を誓うくらいなら、今日の仕事を明日に回さないくらいの事を宣誓して下さる方が余程ありがたいのですが、とリザが返すとロイは笑ってこう言った。
「今ちょっとホッとした顔をしたくせに」
 そして、虚を突かれ狼狽えるリザを見るとそのまま雨の中へと駆けだし、少し離れた場所でくるりと彼女を振り向いた。
「嘘だよ」
 悪戯な男は雨を振り払うような満面の笑みを浮かべる。リザは唇を噛んで鞄から取り出した傘を広げ、上官と自分との間にかざしその表情を隠した。
 
(中佐少尉時代、以上未満なイメージ。むしろ若ロイか?)
  見ないふり

 じっと時計を見ていた彼が、不意に書類から顔を上げた。
「リザ」
「はい!」
 また何か資料を要求されるのかと身構えた私の前で、無精髭の生え始めた顔で彼は笑った。
「誕生日おめでとう」
「はい?」
「0時を回った」
 深夜の執務室で、書類の山に囲まれて、いったい何が目出たいのかさっぱり分からないこんな状況で、それでも彼の一言が私の心を蕩かせる。
「何が欲しい?」
「え?」
「プレゼントだ、買いに行く暇がなかった」
 そんな事は知っている、だって彼を仕事の都合でここに缶詰めにしたのは私なのだから。貴方が誕生日を覚えていてくれた、それだけで十分です。そう言いたい所だが、私は副官の顔で笑う。
「そうですね、この書類の山一式を今夜中に片付けていただければ」
「お易いご用だ」
 そう言って彼は私の手の中の書類と私の手とを一緒に掴まえる。そして、至近距離で極上の笑みを浮かべると、私の意思を尊重し即座に仕事に没頭する。一瞬の触れ合いが生む熱を持て余し、私は彼の触れた自分の手をそっと胸に抱く。
 毎年のように繰り返される小さなプレゼントは胸の中に堆積し、自分が自分である事を肯定してくれる大切な人の傍らにいられる幸せを、私は今年もまた確認する。それは、どんな美味しい御馳走より、どんな高価なドレスより、私に幸福を与える。そう、ただの女として扱われる事を望まぬ私にとっては。
 
(煮詰まって何か出た)
  クロスワード

「山岳気象の一種で、自分の影の周囲に光輪が見える……」
ブロッケン現象。スペルは、B-R-O-C-K-E-N-S-P-E-C-T-R-E」
「しそ科の多年草のハーブの学名。ミツバチの意味を持つ……」
「メリッサ。スペルは、M-E-L-I-S-S-A」
 リザは目線を上げて、傍らのロイを睨むように見つめた。
「……大佐?」
「何だね?」
 そう言ったロイは手元の本から目線を上げるとリザの手元を覗き込み、さっと視線を走らせた。そして再び己の本に視線を戻しながら、何でもないことのように言う。
「13の横がMagneticstorm、25の縦がScarecrowだから、、、答えはLapislazuli。どうだね?」
 ロイの言葉を聞き、リザは完全にふくれっ面を作ると彼の手の中の本を取り上げる。
「何をする!?」
「それはこちらの科白です!」
「は?」
「どうして、私の楽しみを横から邪魔なさるのですか!」
「え? 君、私に答えを聞いてたんじゃないのかね?」
「まさか! 問題を読み上げるのが癖なんです」
 二人は目の前のクロスワードパズルを同時に眺め、互いの顔を見合わせた。そして、互いの行き違いに目を瞬かせると、同時に笑い出したのだった。
 
(何気ない日常)
  クロスワード

「大佐?」
 ペンを手の中で玩びながら黙り込んでいたリザが、不意に口を開いてロイの方へと視線を寄越した。
「何だね」
「どうしても、このカギだけが解けないのですが……」
 ロイは読みかけの本から目を上げると、リザの手元のクロスワードパズルを眺める。空いた枠は六文字、Wで始まりEで終わる単語を前にリザは頭をひねっていたらしい。
「ヒントは?」
「東の島国にあるという伝説の薬草。KONBUと並び、世の男性の夢を叶える……これだけで、何のことかさっぱりなんです。世の男性の夢を叶えるって、そのような漠然としたヒントは不親切だと思われませんか?」
 そう言ったリザはお手上げだといった風に、ロイを見つめる。ロイは非常に困った顔をしながら彼女の視線を受け止め、空に視線を泳がせると自分の本に視線を戻すとボソリと答えた。
「ワカメ。スペルは、W-A-K-A-M-E」
 ロイの言葉を聞き、リザはクロスワードを完成させ、改めて彼に向き直った。
「大佐、このWAKAMEというものはいったい何なのですか? そして『世の男性の夢』とは何なのでしょう?」
 リザの声が聞こえている筈であろうロイの返事はない。リザは肩をすくめると、しきりに額を撫でるロイを横目に新たな問題へと取りかかった。
 
クロスワード、こちらが本命ネタ。14巻ラフ画集より)