overflow

overflow 【名】あふれること、氾濫
 
     *
 
ホークアイ中尉、第一二九四号案件の書類は出来ているかね」
シュトルヒに呼ばれて、リザは処理の済んだ書類を差し出した。
無言でそれを受け取り、立ち去るシュトルヒの姿を見送ると、リザは文献を持って別棟へと向かう。
 
リザが大総統府へ移動してから、二週間が経とうとしていた。
大総統補佐としての仕事は、さすが軍の中枢だけあって興味深い案件が多く集まってくる。
最初のうちは新たな仕事を覚えるのに手一杯だったが、ようやくそれも落ち着いてきた。
件数の多さと内容の煩雑さは今までの仕事の比ではなかったが、己に割り振られた仕事のみをこなしていれば済んでしまうので、気が楽といえば楽でもあった。
加えて上司である所の大総統は、ふらりと姿を消す事はあっても仕事は溜めない。
ホムンクルスとはいえ、上司とはしては文句の付けようが無かった。
今までは大佐のお守りが大変だったから。
そう心に呟けば、不意に彼女の胸の内に不安という名の闇が頭をもたげてくる。
 
リザはゆっくりと足を止め、壁に寄りかかった。
忙しげに行きかう大総統府のスタッフが、彼女の目に入っては消えていく。
今までは青い軍服を着ている人間は、皆、味方のはずだった。
それが、今ではどうだ。
自分の周りにいる人間のうち、誰が敵で誰が味方なのかすら分からない。
 
大佐は、上層部は全て黒だと言い切っていた。
しかし、補佐官たちはどこまで知っているのだろう?
将軍達はもとより、事務官、果ては受付嬢まで、疑い出せばきりが無い。
今は周囲全てが敵だ、と思わなければならない。
慣れ親しんだ仲間は散り散りになり、大佐と会うことすら侭ならない。
八方塞りとはこのことか、とリザは考える。
 
自分が人質であるという自覚は、十分すぎるほどある。
しかし、あの決意をした大佐を見ては、自分が足手まといになるわけにはいかない。
如何に巻き返すか、敵情視察だと割り切れ、とリザは自分に言い聞かせ、再び歩き出す。
 
資料室に文献を返して部屋に戻れば、彼女宛ての内線の伝言が残されていた。
それは、大佐の新しい副官からのメッセージで、第13倉庫事件の調書の所在を尋ねるものだった。
この副官も敵の回し者なのか、分からない。
大佐自身は泳がされていると言っていたから、ひょっとしたら本当に一般の軍人の可能性も高い。
どこまで疑えば良いのだろうか。
 
大きくため息をつき、リザは内線をかけ直した。
運良く本人が電話に出たので、リザはその調書がボーン・コレクター事件と命名され、キャビネットのB段に分類されている事を告げた。
礼と共に素っ気なく切られた電話の向こうに大佐の気配を探している自分に気付き、リザはほろ苦く笑って受話器を置くと、再び仕事に没頭した。
雑念を、そして不安を振り払うかのように。
 
   *
 
その日の帰り道、リザは珍しく寄り道をした。
気晴らしのつもりなのか、それとも素面ではやっていられなくなったのか。
下町の一軒のバーのドアを開けば、煙草と酒の臭いがリザを出迎える。
 
「注文は?」
大柄な女主人に聞かれ、リザはカウンターに頬杖をついて答える。
マティーニを」
「はいよ」
女主人が後ろを向きカクテルグラスに手を伸ばした所で、リザはその背に向かって言い足した。
「オリーブ抜きで」
「あんた、強いね」
彼女はニヤリと片頬で笑って、答える。
冷えて汗をかいたグラスに小さなカップでジンを注ぐ手つきは小気味良い程に軽やかで、バーテンダーには見えないが相当の技量を持っているようだ。
リザはそんな事を考えながら、自分の頼んだカクテルが出来上がるのを眺めていた。
 
さほどの間をおかず、美しい足の長いグラスに注がれたカクテルが差し出され、リザはそれを一息に飲み干した。
喉を焼く強烈なジンの刺激に眉根を寄せるリザに向かって、女主人はウィンクを送って寄越す。
「刺激が強かったかい? チェイサーは奥の部屋だ」
リザは軽く会釈をすると、彼女が指し示す店の奥の小部屋へと向かう。
アルコールが熱い塊となって胃に向かってゆっくり落ちて行くのを感じながら、彼女は扉を開いた。
 
部屋の中は小さな灯りが灯るばかりで薄暗く、リザは目が慣れるまでしばし立ち止まる。
目が慣れてくると、照明の落ちたその部屋に、見慣れた男が優雅に琥珀色の液体を手に座っているのが分かった。
スタンドカラーのシャツに細身のタイ、黒いベストにスラックスといった出で立ちの男は、嫌みな程にその場にしっくりと収まっている。
「良く覚えていたな」
「まさか使う日が来るとは、思ってもみませんでしたが」
扉の前のリザに入ってくるように促し、黒髪の男は立ち上がった。
「嬉しいよ。君がBを選んでくれて」
「何か火急のご用でもあるのかと思いまして」
「君が寂しがっているかと、思ったものだからね」
「ご冗談を」
そう言いながら、リザはゆっくりと扉を後ろ手に閉めた。
「ご無沙汰しております、大佐」
「元気そうで何よりだ、リザ」
他人行儀な挨拶で、二人は距離を保ったまま向かい合って、ただ立ち尽くす。
 
昼間の副官からの電話は、ロイからの暗号だった。
もちろん、副官自身は何も知らない。
「第13倉庫事件の調書」を探すように、ロイに言いつかっただけなのだから。
「第13倉庫事件」など元々存在しないのだから、調書などある訳も無い。
それは、予め決められた時刻に指定の場所で待ち合わせる為の合図だった。
リザの返答が「キャビネットのB段」であれば了承を表し、「キャビネットのM段」であれば拒否を表す。
 
そんな子供ダマしの様な暗号をロイが提案したとき、リザは笑ったものだった。
いつでも自由に会えるどころか、四六時中一緒にいる二人にそんなものは必要ないと。
会いたい時に会い、キスを交わし、抱き合う。
それだけの事が出来なくなる日が来るとは、その時は思いもしなかったのだから。
 
あの日、大総統がホムンクルスだと分かって以降、二人は表立って会うのを控えていた。
それが必要なのか、泳がされているなら会っていても大丈夫なのか、そんなことにさえ答えがない。
リスクは避けるべきだと言うロイに、リザは賛同した。
なるべくなら、リザを巻き込みたくないという、ロイの思いがそこには滲んでいたから。
今更、という感がないでもなかったが、彼が自分を心配してくれる気持ちは嬉しかった。
 
「少し痩せたか?」
「仕事が慣れないものですから。大佐は如何ですか」
「仕事が上手く回らなくて、時々困っている。今更ながら、君の有能さを思い知っているよ」
ジリジリするような表面的な会話を交わしながら、2人の距離は少しずつ縮まっていく。
 
気付けば目の前に黒い瞳が、リザを見つめていた。
久しぶりの眼差しに思わず目を伏せれば、そっと指先に男の指が絡んだ。
そこから伝わる熱が、ゆっくりと身体を駆け上がる。
 
まるで先ほど飲んだアルコールに火が付いたかのように、リザの中で熱を放つ。
火をつけたのは、目の前の男。
その熱は内側からリザを焼き、昼間の不安も懸念も溶かしていくようだった。
その存在だけに救われる自分に、リザは驚きと諦念を持って自ずからロイの胸に頬を寄せた。
驚いたように息をつめるロイも、一瞬の躊躇いも見せずリザを抱きしめる。
 
「すまない」
 
「何を今更」
 
そう言って顔を見合わせれば、逢えなかった時間がお互いにどれほど辛いものだったかが伝わるようで、その痛みを埋めるかのように2人は互いの体温を確かめ合う。
ゆっくりと零れ出る熱を涙に変えないよう、注意深くリザは目を閉じて自分の唇を相手の唇に押し付けた。
ロイの唇からはモルトに香を含んだ刺激が伝わり、リザの内から溢れる熱をますます引き出していく。
受け止めるロイの体温に安らぎを覚え、リザは自分を甘やかす腕に全てを預けた。
そっと唇を離せば、今度はロイが口付けを落としてくる。
 
ただ、そっと甘やかな吐息を重ねるだけ。
そうやって溢れる想いを吐き出し、受け止めて。
互いが互いを求め一時の安らぎに身を委ねることで、明日己の足で立って歩いて行く為の力を得る。
そんな二人に、もう言葉は必要なかった。
  
   *
 
やがて、小部屋を出たリザに女主人が声をかける。
「酔いは醒めたかい?」
「いいえ、余計に酔ったみたい」
「意外に弱いね」
「ええ、実は」
そう言ってにこりと微笑むリザに、彼女は片手を上げてみせる。
 
「また、いつでもお出で。今度はもうちょっと緩い酒を用意しておくよ」
「お言葉は有り難いけれど、今日くらい刺激の強い方が良いかもしれない」
笑いながら女主人は、手に負えないとポーズをとってみせる。
自分も同感だとリザは笑い、バーを後にした。
 
 
 
 
Fin.
 
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【後書きのような物】
キャビネットのMは、無能のM。
 
追記
すみません、諸般の事情により「足枷」の続きはお休みです。