reason

 火炎瓶が頭上を飛んだ。
 冷静に降りかかる火の粉を払う私の後方で小さな爆発が起こる。幸いに誰もいない場所に落ちた瓶から上がった炎は迅速な連係プレイで消し止められ、我々の出動予定に大きな影響を与えることはなかった。突入を目前に控えざわめく部隊を従えた彼は、そんな小さな騒ぎを振り向きもせず前線を見つめたままでいる。
 私は広い背中をただ見つめ、彼の出撃の合図を待つ。
 カチリと彼の手元で懐中時計の開く音がする。私は彼の背中に問う。
「そろそろですか」
「ああ。あと五分といったところだ」
 ちらりと無線に視線を向けた彼はそう答えると、再び視線を前線へと向けた。
「大佐」
「なんだ?」
「今夜のご予定は?」
 戦場のカウントダウンを聞きながら、私は一歩踏み出し彼の横顔に問う。
「特にないが」
「でしたら、先日実家から持ち帰りました書籍を今夜お届けに上がりたいのですが」
「それは楽しみだな」
 彼の答えに私は言う。彼の口角が微かに上がった。
「さっさと片付けて帰るしかないな」
 そう言った彼の前方で砲弾が弾けた。

 私たちは生命の危険を伴う出動の前にはいつも、必ず某かのくだらない約束をする。
 テロ事件の銃撃戦のさなか、瓦礫を盾にして。
 立てこもり事件の突入直前の緊迫感の中で。
 彼の暗殺計画の裏をかく為、狙撃の狙いを定めながら。
 私たちは本当に、他愛のないことを約束する。
 ヴィンテージのワインを手に入れたから今夜一緒に飲もう、だとか。
 私の仔犬に似合いそうな首輪を買ったから取りに来い、だとか。
 父の書斎の虫干しの日取りを決めて欲しい、だとか。
 そんな小さな約束をすることで、私たちは今ここでは自分が『死ねない理由』を作る。
 生きて帰ってくる理由は、本当に些細なことでいい。大切なのは、それが生に執着する為の鍵になることだ。そうすることで死地に陥った時、潔く諦めて楽になる道よりも生き意地汚く這ってでも帰って来る道を自然と選ぶようになるのだそうだ。
 ヒューズ中尉が肌身離さず家族の写真を持ち歩くのと同じように、私たちには小さな約束を身につける。

 約束の始まりは、いつだかの作戦中における私の無謀な行動であったように思う。いつものように大佐を庇い負傷した私に、彼は当然の如く怒り狂った。私にとっては補佐官が上官の命を守るために、己を盾にすることは当然のことだ。だが、彼はそれを良しとしなかった。
 あの日以降、彼は私に約束をさせるようになった。上官命令の名を借りず、本当に些細な私的な約束を。
 最初の約束を私は今でもよく覚えている。あれはとても寒い時期に行われた、夜明け前の突入作戦の時のことだった。二昼夜を説得に費やしながら、突入の準備を整えた我々が最後の仕上げにかかろうとした時、彼は他の部下には聞こえないようにこう言った。
「これが終わったら、〇七〇〇から開いている駅前のベッカライで朝飯を食べにいく。君も付き合え」
 怪訝な顔をする私に向かい、彼は怒ったような口ぶりで言い足した。
「だから、さっさと片付けて帰るぞ」
 言外に彼が“共に生きて帰るぞ”と言ったことだけは、流石に鈍い私にも分かった。分かったからには返事は一つしかなかった。
「Yes,sir」
 あの日食べたサンドイッチの味は忘れたけれど、朝の光の中で眠そうに珈琲を飲む彼の顔は今でも鮮明に思い出せる。

 きっと、今夜も彼は指揮疲れの酷い顔で、それでも起きて私を待っていてくれるだろう。
 生きて帰った私を己が目で確認するために。
 死ななかった己を私に確認させるために。
 
 ならば、今日は少しだけ早く上がって、角の店で彼の好物を買って本と一緒に差し入れよう。
 生きて帰る理由は、きっとそのくらいで丁度いいのだ。
 だから私は銃のセイフティを外しながら、今日もただ一言彼に答える。
「Yes,sir」

                      Fin. 

【あとがきのようなもの】
 611の日!
 C88のコピー本「ナイクトフォビア」の原型を加筆修正。これはどこにも出したこと無いはず。全年齢向けなのでこちらに。