Blues of blue

 彼女が初めてそれを聞いたのは、彼の副官になってすぐの頃だった。

 任官されたばかりで未だ新兵であった彼女は、その日も厳しい訓練と忙しい業務で草臥れきった身体を、引きずるように廊下を歩いていた。
 いつもならバタバタと軍人たちが行き交う筈の夕暮れ時の東方司令部の廊下は、珍しく静寂に満ちている。そんな静けさの中、それはひっそりと彼女の耳に届いた。
歌?
 どうにも片付かない書類の束を抱えた彼女は、西日の差す廊下で小首を傾げた。
 彼女の耳に、低く空気を震わすような旋律が、微かにどこかから届いたのだ。リザは不思議に思って辺りを見回し、ふっと目を細めた。彼女の視線の先、そこには彼がいるはずの指令室の扉が薄く開いていた。
 何となく虫が知らせ、リザは足音を潜めると、扉の細い隙間からそっと中の様子を窺った。微かだった旋律は、今度ははっきりとした音楽として彼女の耳に認識される。
 最初は、聞き間違いだと思った。だが、夕暮れの誰もいない筈の執務室に満ちた微かなメロディは、確かに彼の唇から漏れていた。
 処理の済んだ書類の山を横に、彼は遠く夕陽を反射する東の空の雲を眺めていた。愛用の万年筆が彼の指先でリズムを取るように動いている。淡いオレンジの光の中で、儚いメロディと共に逆光に男の姿は霞んで見え、リザはしばしその場に立ち尽くした。
「間違ったと思ったら、その手で私を撃ち殺せ」
 そんな苛烈な言葉を吐き、新兵としての彼女を厳しく律する彼に、あまりに似つかわしくない優しいメロディは、彼女の耳に焼き付いた。同じメロディを繰り返す彼の唇は、おそらく曲のサビの部分を繰り返しているのだろう。
 何という曲だろう? 
 だが、そう思う彼女が彼に声を掛けるよりも先に、人の気配に気付いた彼の唇はぴたりと静かな音楽を奏でることを止めた。
 その瞬間、彼の姿ははっきりと夕暮れの中に輪郭を現し、そこにいる男は峻厳な彼女の上官そのものへと変化した。封じられたメロディと彼の纏う空気に、彼女は自分の問いかけが歓迎されざるものであることを悟り、その口を閉じその場から姿を消したのだった。

      §

 薄く開いた扉の向こうから、小さなハミングが聞こえた。
 どこか郷愁を誘う、ありふれたそのメロディは、壊れた蓄音機のように同じフレーズを繰り返している。
ああ、まただ。
 久しぶりに聞く“彼のメロディ”に、リザは理由のない溜め息を一つこぼす。外は穏やかに晴れているというのに、やるせない旋律は彼女の上に小さな曇り空を作り出していく。
 リザは少しの間立ち止まり、低い男の声に耳を傾けていたが、やがて覚悟を決めるように大きく一つ息をすると、耳にすっかり馴染んでしまったそのメロディを断ち切るように、コツコツとわざと大きな音を立ててドアをノックした。ノックの音と共に彼女はぱっと顔を上げると己の憂いを隠し、いつもの厳格な副官の顔を作りあげた。
 ぶつりと止んだハミングから一呼吸おいて、彼女は何も気付いていない素振りで扉を開けた。部屋の中には万年筆を片手に、デスクから彼女を見上げるいつもの上官の姿があった。
「失礼します、中佐。第五十八条議定書の資料をお持ちしました」
「ああ、思ったより早く済んだのだな。ご苦労だった。そこに置いておいてくれ」
「それから、明日の査察の件ですが」
「一三二〇に表に車を回してくれたまえ。会議が終わり次第出る」
「I, sir」
 ロイは彼女の持ってきたファイルに目を通しながら、片手で少しサイズの大きな茶封筒を手渡した。
「それから、少尉。この書類を二課のケインズ少佐に直接渡してくれ。本人がいない場合は、他者に預けず、私の元に持ち帰るように」
「Yes, sir」
 リザとの簡潔な会話の中には、一分の隙もない佐官の顔をした男がいるだけで、先程の優しいメロディを奏でていた男と彼が同一人物とはとても思えなかった。
 軽薄な流行歌の旋律を短調の切なさに重ねたそのメロディは、彼が一人きりでいるときに限って、彼の唇からこぼれ出るものであるらしかった。彼女がそれを耳にしたのはほんの数えるほどの回数であったが、印象深いメロディは彼女の中に住み着いてしまった。
 どうやら歌詞があるらしく、一度、彼がそれを口ずさんでいるのを耳にしたこともあったが、小さすぎるその声は彼女の耳にその意味を教えてはくれなかった。しかし、それを直接彼本人に聞く事は、出来なかった。
 彼がそれを他人に聞かれたくないと思っていることを、彼女は何となく感じ取っていたからだ。理由は知らない。だが、彼女の気配を感じると、彼がふっとそのメロディを止めてしまう事実が、彼女にそのことを知らせていた。
 何もなければ忘れてしまう、しかし、聞くたびに心のどこかを引っ掻かれる様な思いのする、ロイのその小さな秘密は、あの日からずっと、彼女の心の中に仕舞い込まれてしまった。
 淡々と仕事の話を片付けていくロイの顔を見つめ、彼女は頭の中でリフレインする“彼のメロディ”を追い払おうと、己の職務に意識を集中する。

      §

 そんな彼の謎は、ある日、呆気なく解けた。
 事の起こりは、東部に出張に来ていたヒューズ少佐であった。
 ロイの管轄下で逮捕された、各地でテロ事件を起こしていた集団の身柄を受け取りに来た彼は、いかにも優秀な軍法会議所の切れ者らしく、さっさと仕事を片付けてしまった。時間に余裕の出来た彼は、当然のごとくいそいそと机上に愛娘の写真を並べ始める。
「ヒューズ、お前、何しに来た」
「ん? お仕事」
「では、それは何だ?」
「可愛い可愛いエリシアちゃんの近況だが」
「無駄に有能で時間配分を誤る親バカとは、困ったものだな」
「肝心な時に雨が降って無能になる男よりは、ましだと思うがな」
「何を!」
 辛抱強く上官と親バカの低次元な争いをやり過ごす彼女は、不機嫌な上官から駅までヒューズを送っていくことを命じられた。
「とりあえず、奴の話には耳を塞いで、列車に放り込んできてくれ。これでは、仕事にならん」
 うんざりと頭を抱えるロイに今回ばかりは心底同情しながら、リザは彼の命令に従うべく表玄関へと車を回した。
「すまんな、リザちゃん。仕事の邪魔しちまって」
「いえ、どうぞお気になさらないでください」
 紋切り型の彼女の科白を聞き流し、ヒューズは窓の外に視線をやった。
「この辺りも、来る度に景色が変わるよな」
 感慨深げな彼の言葉に、リザは彼との初対面の場がイシュヴァールであった事を思い出す。彼は、この地が荒廃していた頃を知っているのだ。彼女は、しばしの間、彼の話を聞き流す事を止め、ルームミラー越しに彼の感慨深げな眼差しを見た。
「最近は、またテロが多くて、そのせいで変わっていく街並みもありますが、それでも内乱の傷痕は随分目立たなくなりました」
「ああ。確かにそうだな」
 ヒューズは司令部にいた時の饒舌さが嘘のように黙り込み、車窓からの景色に物思いにふけっているようだった。リザは彼の邪魔をしないように、自分も口を噤むと運転に集中し、駅への道を急いだ。
 ところが、彼女が渋滞を避け、近道をしようと青果市場の前の十字路を右折しようとした時だった。不意に後部座席から、彼女の良く知るメロディが聞こえて来たのだ。
「……幾多の屍を越え」
 哀切なメロディに物騒な歌詞を乗せたヒューズの声に気を取られ、リザは危うく赤信号を無視しかけ、急ブレーキを踏んだ。
「うぉっと!」
 急ブレーキに運転席の背に鼻頭をぶつけたヒューズの驚きの声に、メロディはぶつんと途切れてしまう。リザは己の狼狽を恥じ、自分より上官である男に謝罪する。
「申し訳ありません! ヒューズ少佐。お怪我はありませんでしたでしょうか?」
「あー、大丈夫、大丈夫。どっこも折れてないから。それより、どうした? リザちゃん。珍しいな」
「いえ、あの」
 まさか、貴方が歌っていた歌が原因だとは、流石に言えない。言葉を濁すリザに、ヒューズはやれやれと笑った。
「ロイの野郎にこき使われて、疲れてんだろ? 大丈夫か?」
 男の勘違いを解く気にもならず、リザは気を取り直して青になった信号にアクセルを踏んだ。急ブレーキのお陰で、渋滞を回避するルートを選ぶことが出来ず、彼女は渋滞にはまってしまった。完全に車が止まってしまい、リザはヒューズに謝罪する。
「申し訳ありません、少佐。少し道が混んでおりまして」
「渋滞は仕方ないさ。あ、リザちゃん、エリシアちゃんの写真見るか?」
「いえ、流石に運転中は」
「確かに、そりゃそうだ」
 ヒューズは快活に笑うと、再び車窓へと視線を戻した。リザはルームミラー越しに彼の横顔を眺めながら、幾度か逡巡を繰り返し、思い切って彼に問うた。
「あの、ヒューズ少佐?」
「なんだい、リザちゃん」
「さっき、歌われていた歌なのですが……」
 そう切り出してから、彼女はどうヒューズに質問していいか、少し迷った。
 ロイがその歌をどう思っているのか。その歌にどんな謂れがあるのか。聞きたいことがありすぎて、どこから聞いていいか分からなくなりそうだった。しかし、ヒューズは彼女の迷いを吹き飛ばすように、あっさりと答えを寄越す。
「ああ、さっきのか? 『Blues of blue』とかいうタイトルの歌で、イシュヴァール内乱の頃に一部で流行ったんだ。知らないか?」
 リザは首を横に振った。正規の兵隊であったロイやヒューズと違って、学徒兵であった彼女は部隊の中の世界しか知らなかった。ヒューズはさもありなんと言った体で、彼女の否定に頷いた。
「歌詞が反戦的だと言われて、直ぐに発禁になった歌だからな。学生なら余計に知らないか」
「発禁、ですか?」
「ああ、戦意を損なうって言ってな。」
 そう言ったヒューズは、驚くほど良い声で歌いだした。

「幾多の屍を越え君の元へ帰る私を、君は赦すだろうか? 私の帰る場所であってくれるだろうか、君は」

 車内にやるせないメロディが満ち、ヒューズは照れたように笑う。リザは閉じた空間の中で、凍りついたように前だけを見ていた。
「『赦す』ってのが、戦いを罪悪と表現してる、とか何とか。馬鹿馬鹿しいだろ?」
 ヒューズはリザの反応を見て見ぬふりをして、また車窓へと視線を移した。
「誰もが思っていて、誰もが言えなかった事だ。流行ったのも、発禁になったのも道理だろう」
「そう、でしたか」
 辛うじてそう返事をしたリザは、のろのろと動き出す前の車に合わせて、車を動かした。ヒューズは過去を覗き込むように、イーストシティの街並みを見つめている。
「この景色を見ると、なんとなく思い出しちまった。すまんな、リザちゃん。辛気臭い話をして」
「いえ、お伺いしたのは、私の方ですから」
 何とか体勢を立て直したリザは渋滞を抜け、駅前へと車の進路を向ける。そんな彼女の背中に、ヒューズの暢気を装った鋭い問いが飛ぶ。
「しかし何故、君がこの歌を知ってる? 発禁曲だからラジオで流れることはない筈だし、ロイの野郎は、この歌、ものすごく嫌ってた筈だ」
「え?」
 思いもかけないヒューズの言葉に、リザは思わず問い返す。
「赦されることなどない、んだとさ」
 意味深長なヒューズの言葉に、今度こそリザは黙り込む。ヒューズはルームミラー越しに彼女を一瞥すると、それ以上は何も言わなかった。そして、駅に着くまで彼らの沈黙は続いたのだった。

 ヒューズを見送った彼女は、エンジンを止めた車中で過去を見つめ、考える。
私たちののイシュヴァールは終わってはいない。たぶん、生涯終わることはないだろう。
 それでも、彼は前を見据えてこの国を変えるために、邁進しているとは思っていた。清濁合わせ飲む覚悟で。
 しかし、彼もまた過去に足踏みをすることがあったのだ。
 自分は自分自身のことで精一杯で、彼のことを何も見ていなかったのかもしれない。共にこの過去を背負うと決めたなら、私自身も彼を受け止めねばならなかった筈なのに。彼を補佐するということは、そこまでの意味を考えるべきだったのだ。
「……貴方はまだ帰れていないのですか?」
 リザはぽつりとそう言うと、そっと虚空に手を伸ばしたが、すぐに躊躇うようにその手を引っ込めた。
 そんなところに答えはなかった。彼女はただぼんやりと、復興したイーストシティの街並みを見つめた。

       §

 それから数日後の朝、リザは射撃訓練の為、早朝から出勤した。本来なら彼女は遅番で午後から出勤すれば良かったのだが、ヒューズの話を聞いてからどうにも落ち着かず、彼女はひたすらに体を動かし、訓練で自分をいじめ抜いていた。
 この日訓練を終えたリザは、昨日の残務を片付けてしまおうと指令室へと向かった。扉の開いたままの部屋に入った彼女は、思いがけぬ出迎えを受けることになる。
「幾多の屍を越え君の元へ帰る私を、君は赦すだろうか?」
 不意に彼女の鼓膜を、あの聞き慣れたメロディが打った。誰もいない朝の司令部に、驚くべきクリアさで歌詞までが聞こえた。彼の声は低く、とても小さかったけれど、澄んだ空気は容赦のない鮮明さで彼女の元に言葉を運んだ。リザは驚きのあまり、物陰で足を止める。
 彼の声はそこで止まった。シャッとカーテンを開く音がした。と言う事は、彼は窓の方を見ているに違いない。タイミングを見計らって、彼に見つからないように、この場を立ち去らなければ。リザは、そっと彼の様子を窺った。
 確かに、ロイは窓辺にいた。彼は軍服の上衣を脱ぎ、お行儀悪く己のデスクの端に腰掛けていた。脱いだ軍服は椅子の上に放り出され、まるで彼が脱ぎ捨てたがっている何かの代わりのように、なおざりに扱われていた。眩しげに窓の外を見つめる彼の眼差しは、空を通り越し、ずっと遠くを見ている。何者をも寄せ付けぬその姿に、目映い朝の光が彼の白いワイシャツに反射し、彼はまるで光の中に溶けてしまいそうだった。
リザは何故か胸が締め付けられる様な思いがし、何もいえず彼の姿を見つめる。
 光の中、彼の唇が動いた。
「私の帰る場所であってくれるだろうか、君は」
 切ない魂の呟きが漏れ出たかのように彼は目を細め、ふいと頭を一つ振る。要らぬ感傷を振り切り、いつもの上官の顔を取り戻そうとするかのように。
 その瞬間。
 振り向いた彼と、身動きひとつ出来ず彼を見つめていた彼女の目があった。
 ロイの目が驚きに微かに見開かれた。まるで、時が止まったかのように、場に空白が満ちる。リザは吸い込まれそうな彼の眼差しに、反射的に口を開いた。
「Sir. Yes, sir」
 彼女は自分の口から出た言葉に驚き、そのままその場に立ち尽くした。それは用意された言葉ではなかった。自然に彼女の口から迸った、彼への想いを乗せた言葉だった。
ロイは彼そのものが真っ白になってしまったように、全ての表情を消し彼女を真っ直ぐに見ている。リザはその強い眼差しを、きちんと正面から受け止めた。
この眼差しから、今、自分は逃げ出してはいけないのだ。
リザは無意識の内にそう悟り、沈黙に負けず朝の光の中で彼と向き合った。
不意にロイの顔に表情が戻った。クシャリと彼は困ったように口元を笑みの形に歪め、眩しげに眉を寄せた。黒い瞳が柔らかな朝の光を映し、彼はふっと彼女から視線をそらした。彼女に背を向け、ロイは再び窓の方へと向き直る。
「今日は遅番では?」
「はい」
 リザは彼の背中に向かって、いつもの声音で答えた。まるで、一瞬までのことが何もなかったかのように。
 しかし、部屋の中に満ちる空気は、驚くほどに柔らかく暖かく二人を包んでいた。
「何故、ここに?」
「訓練の為に。それから、残務を片付けに」
「そうか」
 いつも通りの会話を交わす彼は、その表情を彼女に見せようとしなかった。窓の向こうから差す太陽が、ロイを光で包み込む。リザは眩しい思いで、彼の背中を見つめる。
「残務は午後からで良い。休める時は、きちんと休みたまえ」
「了解しました」
 リザはかつりと踵を鳴らして、彼の背中に向かって敬礼をして、自分も彼に背を向けた。
 部屋を退室しようとドアノブに手を掛けた彼女の背に、彼の声が届く。穏やかな迷いを捨てた声が。
「ただいま」
 リザは自分の声がきちんと彼に届いた事に満足し、小さな笑みを浮かべた。彼女は振り向くことなく、その声に答える。
「何を今更」
 ふっと背後で、彼の苦笑が聞こえた。リザは笑みを浮かべたまま扉を開ける。
 ぱたりと後ろ手に扉を閉めれば、部屋中に溢れていた光は彼女の中に残り、その眩さにリザは天を仰ぎ、きっと扉の向こうで彼女と同じ様なポーズを取っているであろう彼を想った。
 きっと、あのメロディを聞く事は、もう二度とないだろうと考えながら。

【完】


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【後書きのようなもの】
611! 実は2012年の作です。(笑)テーマは「私がイメージする『空中歩行』のライさんが描かれるお話」です。
 
以前、「空中歩行のライさんの原作を書かせて頂く!」という素敵な大事件がありまして、その時に二本お話を書いてライさんに選んで頂きました。その時に「ライさんが絶対に描かれないようなお話」をテーマに書いたものを、2015年に『HOLD ME TIE?』というタイトルで素敵なご本にしていただきました。こちらはもう一本の方のお話になります。
フォルダ整理をしていたら懐かしいのが出て来たので、611の記念にアップ。

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