paint over

ピチャリ。静まり返った室内に雫の落ちる音が聞こえた。
その音は高い天井に反響し、すぐに闇の中へと消えていった。
水漏れか。
否。廃屋になった工場には水道は通っていない。
きっと何処かに溜まっていた雨水が漏れているのだろう。
リザはそう考えながら、手の中の銃を胸の高さで構え直した。
ピチャリ。また水音が響く。
神経を引っ掻くその音に彼女は眉間に皺を寄せ、錆びた機械の影から敵を窺う。
どうにも敵の動きが腑に落ちない。
リザはどうにも拭いきれぬ違和感を胸に、闇を透かし見る。

査察帰りの上官と共にいた彼女が路上で何者かの襲撃を受けたのは、数十分前のことであった。
護衛の手薄な二人きりのところを狙われたのだから、相手はおそらく内部事情に精通しているのだろう。
だがそうであるならば副官の射撃の腕に、これ程までに周章狼狽し呆気なく総崩れになるのはおかしい。
そして、総崩れになった敵がこの廃工場に向けてジリジリと後退したことも解せない。
確かにこの廃墟の闇は敵からも味方からも等しく視覚情報を奪う。
だが救援を待てばいい彼女らと違い、敵方にここに立て籠もるメリットは少ない。
テロリストたちを追い詰めたつもりが、ここまで誘き寄せられた気がしてならない。
 
何だ、この気持ち悪さは。
彼女は眉間に皺を寄せたまま、大人しく守られていてくれない困った上官に視線を移した。
闇の中で彼女の視線を受けとめた男は、微かな苦笑の音を唇から漏らした。
「君も感じているのだろう、この不自然さを」
「大佐もですか」
当然のことと同意を示す彼女に、彼は僅かに肩を竦めてみせる。
「こんな屋根と壁しか残っていない廃墟に立て籠もる理由がない。建物ごと破壊して我々を生き埋めにでもする気なら、奴らがここに立てこもったままでいるのもおかしい。何か魂胆が……」
ピチャピチャピチャピチャ。
その時、小声で囁く彼の声をかき消すように、不意に水音が連続音として響き始めた。
二人が顔を見合わせた次の瞬間、ザバッと一段と大きな水音が立った。
あっと思う間もなく、彼らの上にビシャビシャと音を立てて冷たい液体が降り注いだ。
 
「あ!」
「何だ?」
薬品でもぶちまけられたかと顔色を変える二人の鼻先に、彼らのよく知る臭いが漂った。
咄嗟に頭部をかばった手に付着した液体はさらりと流れ、何の刺激もなかった。
どうやら害のない液体だと判断したリザは、次の瞬間自分の手が夜の闇以外の色に侵食されていることに気付いた。
それはどうやら、ロイの方でも同じであったらしい。
敵の意図を悟った彼らは互いに顔を見合わせた。
「やられた」
ロイは白かった筈の発火布の手袋を、彼女の前に突き出してみせた。
彼の手の甲に住まう火蜥蜴は、その輪郭も分からぬほどに真っ黒に塗り潰されていた。
「いくら愛用しているとはいえ、頭から浴びたいほどではないのだが。まったくポケットの中までインク塗れだ。それより君、ひどいことになっているぞ、大丈夫か?」
そう言った彼の言葉が終わるか終わらないかの内に、彼らに向けて激しい狙撃が始まった。
二人は同時に身を低くし、大きな機械を盾にするように身を隠す。
暗い室内に硝煙の臭いが満ち、銃声が幾つも反響する。
機械の影に身を寄せたロイは、現況を確認するようにポケットから予備の手袋を取り出した。
当然のことながらそれもまた真っ黒に染まっていて、ロイは憂うべき現状に忌々しげに舌打ちをした。
リザは文字通り真っ黒に染まった上官から視線を上げる。
闇に慣れてきた彼女の目は、ロイの肩越しに見える壁に貼られたポスターへと吸い寄せられた。
それは、ロイが執務室で愛用している万年筆の広告であった。
古いポスターは色褪せていたが、この工場が稼働していた当時の主力商品が何だったかを正確に彼らに教えてくれた。
この場所に誘き寄せられたのは、このためだったのだ。
リザはインク塗れになった自分の手を見つめる。

おそらく廃工場には当時製造された商品が、そのまま残されていたのだろう。
そのインクで、敵はロイの焔の錬金術を封じるという作戦に出たのだ。
機械の中に収められていたインクを時限式か何かの手段を用いて、彼らの頭上に撒く。
そして、ロイの手袋の練成陣をインクで塗り潰し、尚且つ発火布をインクという水分で使用不可能にする。
その上で総攻撃を仕掛ける。
よく考えたものだと、リザは思う。
狙撃されながら二重の意味での封じ手を仕掛けられては、ロイも直ぐに対抗策を練ることは難しい。
焔の錬金術さえ封じてしまえば、護衛の狙撃手一人くらい何とかなると思われたに違いない。
全く舐められたものだ。
リザは敵の思考をトレースし、不愉快になりながら視線をロイに戻す。
そして、手袋を忌々しげに投げ捨てようとするロイに向かい、いつもと変わらぬ口調で言った。
「他に予備の発火布はお持ちでしょうか」
「ない。これで全てだ」
「銃は」
ロイは捨てようとしていた発火布の手袋を思い直したようにポケットに仕舞い直すと、携帯していた銃を取り出した。
「自動式が一丁。弾はフルに入っている」
「では、本日はそちらでよろしくお願いいたします」
「分かっているさ。だが、腕前は期待しないでくれたまえ」
ロイは小さく肩を竦めてみせると、ガシャリと雑な仕草で銃のセイフティを外した。

彼が銃を手にしている姿を見るのは久しぶりな気がする。
そう思いながら、リザは手に付いたインクをポケットのハンカチで手早く拭った。
洗ってもきっと廃棄することになるであろうそのハンカチを律儀にポケットに片付けた彼女は、自分もまたロイと同じように愛用の銃をその手に構えた。
その間も敵の銃撃は続いている。
「どうされますか?」
「敵の出方を待つのも癪だし、また何か仕掛けられていても困る。とりあえず出るぞ」
「策無しですか」
「策ならある。町外れとは言え、これだけ銃声が起こっているんだ。いずれ通報が入り憲兵隊が来るのは必至。ならば、憲兵隊が来るまで保たせられれば我々の勝ちだ。相手もそれが分かっているから、私の焔の錬金術を封じた今、これだけ必死に総攻撃に出ているのだろう」
「それはそうでしょうが」
リザが不服げにそう答えると、ロイは愉快そうに笑った。
「たまには新兵時代を思い出して、走り回るのも良いだろう」
莫迦おっしゃってないで、真面目に」
そう言いかけたリザの言葉をロイは途中で遮ってしまう。
「ああ、真面目に一暴れするつもりだ。何しろ君の綺麗な髪を台無しにしてくれた罪は重い。奴らにはそれ相応の償いをしてもらわんとな」
そう言ってロイはまだらに染まった彼女の髪に手を伸ばし、触れるか触れないかの淡さですっとその指を彼女の前髪にかすめさせた。
「何を」
思いがけないロイの言葉と行動にリザは一瞬返答に詰まる。
そんな彼女にロイは頓着せず、いつもと変わらぬ飄々とした顔でころりと話題を変えてしまう。
「ところで索敵を頼む。君の鷹の目なら、夜目も利くだろう?」
毒気を抜かれたリザは、反論を諦めた。
今は彼のおふざけに付き合っている場合ではない。
それに言葉には出さないが、敵を腹立たしく思っているのはリザとて同じなのだ。
「イエス、サー」
簡潔に答え、リザは静かに闇を見据える。
そうして夜と同じ色に染まった二人は、闇にまぎれて動き出す。
自分たちを罠にかけ、出し抜こうとした敵にそれが無駄だったと思い知らせる為に。
彼らの軍服をインク塗れにした敵に報復をする為に。

「いくぞ」
阿吽の呼吸で二人は駆け出した。
集中する敵の銃声は闇雲で、どうにも当たりそうにない。
詰めが甘い。
そう思いながら、リザは銃声の発生点を狙い弾丸を放つ。
「ぐッ」
闇の中に上がる押し殺した悲鳴を耳にリザは、隣を駆けるロイに低い声で報告する。
「二時の方角より銃声。少なくとも三丁の銃が存在します」
「二丁拳銃は君の専売特許だから、まぁ敵は三人と見るのが妥当か。あとは十一時の方角か」
リザ同様に音の反響と銃声を聞き分けたらしいロイは、彼女にそう確認する。
「はい、そちらには恐らく五丁」
「何だ、一個小隊にも満たないのか。我々も舐められたものだ」
そう言いながら、ロイは慎重に銃を構え闇に瞬いた標的へとその銃弾を放った。
ガシャンと派手な音がたち、ドサリと何者かが倒れた音がする。
焔の錬金術を操る時とは違い、ロイの射撃は基本に忠実だ。
自分の得手不得手をきちんとわきまえている彼のそんなところを、リザは好もしく思う。
だがそんな感情はおくびにも出さず、リザは冷静に彼の言葉に答える。
「その相手にインク塗れにされているのですが」
「まったくもって屈辱だ」
現状を確認した二人は、端から見れば呑気すぎる会話を交わしながら前線に身を進める。
先手を取られたとは言え、敵の居場所が分かり、目が闇に慣れてくれば彼らにも勝機はある。
一つ、また一つと彼らは敵の銃声を減らしていく。

それでも数の差はなかなかに埋めるのは難しい。
町外れでの事件のせいか、憲兵隊は未だやってこない。
残りの弾薬が減ってきた彼らは進軍の足を止め、一旦物陰に身を潜める。
ロイは銃を構えたまま、フッと息を吐いた。
「なんとも尻窄みになってきたものだ。このままだとあいつ等に逃げられる可能性もあるか」
「それは出来れば避けたいものです」
「まったくだ」
負けるとは思わない。
だが、この状況では勝ちを逃がす可能性は否定出来ない。
やはり、後手に回ってロイの焔の錬金術を封じられたのは痛かった。
リザがそう思っている傍で、ロイはふと何かに思い至ったかのように声を上げた。
「ああ、私としたことが」
リザはロイの方へと視線を向けた。
男は闇の中で悪戯っ子のような笑みを浮かべている。
何を思いついたのだろう。
そう思う彼女の目の前で、ロイはさっき捨てようとしていたインク塗れの手袋を取り出した。
「中尉、一つこの辺りで奴らを驚かせてやろうと思うのだが」
「何を為さるおつもりですか?」
「奴らに焔の錬金術を拝ませてやろう」
ロイは事も無げにそう言った。

この男は何を言っているのだろう。
そう思うリザの目の前で、男はインク塗れの手袋を床になすりつけ始めた。
「描くモノがあれば、練成陣などどこにでも描ける」
ロイはそう言いながら、乾いた床に手袋に染みたインクを使って大きな火蜥蜴を描き始めた。
「ですが、大佐」
「手袋が濡れたから発火布が使えない? 火種があれば問題ない」
常時タバコを吸うハボックもいない、廃工場には火の気もない。
なのに何を言っているのだろう、この男は。
リザのその考えが顔に出たのだろう。
ロイは薄く唇の端で笑うと、彼女の手元に顎をしゃくってみせた。
「君がその手に持っているのは何だ?」
リザは己の愛銃に視線を落とす。
銃は薬莢の中の火薬が燃えることにより、弾頭が発射される。
即ち、彼女が銃を撃つ時、その手の中に小さな火花が発生し火薬が燃焼しているのだ。
納得して彼に視線を戻した彼女の表情に、ロイは笑った。
「そういうわけだ」
リザは彼の言葉に頷くと、リボルバーに残っている弾丸をぬき、その中の一発からパウダーを抜き出した。
そして着火薬とプライマーを残し再び銃に装填する。
彼女が作業をしている間に、ロイは地面に描いた練成陣を完成させてしまう。
「準備は良いか?」
「イエス、サー」
「タイミングが肝心だ。私の錬金術の発動と君がトリガーを引くタイミングが完全に一致しないと、焔の導火線は発生しない」
ロイの言葉に、リザは小さな苦笑を浮かべてみせる。
全く、何を言っているのだろうこの男は。
リザは静かな口調で彼に問う。
「私が今まで大佐の足を引っ張ったことがあるとでも?」
今度はロイが苦笑する番だった。
「いや、ないな。愚問だった、忘れてくれ」
ロイは一瞬でその表情を好戦的なものに変えた。
「我々を愚弄した罪をその身をもって償わせてやろう」
「イエス、サー」
練成陣に向けて両手をかざすロイの傍らで、リザは銃を構える。
フッと吐き出されたロイの呼吸に合わせ、彼の手が練成陣に触れる。
その瞬間を完全に読み切り、リザは迷いなくトリガーを引いた。

ガチリ。
撃針が雷管を叩く振動が手の中に響くのと、視界に青い練成光が満ちるのは同時だった。
次の瞬間、地面に描かれた火蜥蜴が稲妻のようにその赤い舌を伸ばした。
バチバチと音を立て、地を這う焔のラインが十一時の方向へと走る。
ドンッ。
耳に慣れた焔の爆発音が響く。
予期せぬ焔の錬成に狼狽する声、そして続く悲鳴が廃工場を満たした。
封じたはずの焔に灼かれ、敵は逃げる気力も奪われたようだ。
そこへようやく到着した憲兵隊に足音が響き始めた。
「私の錬金術を封じようなんて百年早い」
ロイは不敵な顔でそう嘯くと、リザを振り向いた。
彼女は肩を竦めて彼の過剰な自信を含んだ言葉を受け流しながら、それでも悪くはない結末に彼に見えないように微かな笑みを浮かべたのだった。


【後書きのようなもの】
611! ずっと言ってますが、共闘する二人が好きです。

ずっと思ってたんですが、錬金術を使って戦闘をする国家錬金術師は、大抵がその練成陣を己の肉体に刺青で刻み込んでいる気がするのです。コマンチさん然り、キンブリーさん然り。大佐のように身に着けるものに構築式を刻む者は少数派なのかなと。ひょっとしてそれは秘伝を肌に刻むリザを思って、発動条件が不利になろうとも、ロイは秘伝を連想させる刺青形式で自分の身に焔の練成陣を刻むことを避けたのかなとか考えます。そいう相手への想いって、すごいなって思う次第です。

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