if 【case 14】

もし、彼らが同じコンプレックスを持っていたら。

         §

きっかけは何気ない会話であった。
 
その日、穏やかな午後のキッチンで、リザは父のお弟子さんに珈琲を淹れていた。
少し曇った空から漏れる柔らかな光が空気の中に満ち、髪を揺らす程度の風が窓から吹き込み、春の終わりの薄ぼんやりとした明るさは彼らの心を落ち着かせた。
細かく曳いた珈琲豆に細くお湯を注げば、たとえそれが上等の豆ではなくても、立ち上がる香気は思わず鼻をうごめかせたくなるほどに香ばしく台所に満ちていった。
最近の街の流行の話をしながら珈琲を待つマスタングの口元の笑みに視線を取られながら、リザは自分の口角も彼と同じ上がっていくのを感じていた。
優しくて、リザのような小さな子供の話もきちんと聞いてくれるマスタングの存在は、父と二人きりの彼女の生活に点る夕刻の灯火のようなものであった。
だから、こんな風に彼と話をする時間を持つことは、彼女にとって小さな心の安らぎを得られるのと同義であった。
 
リザはマスタングに淹れたての熱い珈琲を手渡し、彼が美味そうに酸味と苦みのバランスの上に成り立っている飲み物を口に運ぶのを見守った。
こくりと喉仏を上下させた彼は満足そうにふっと小さな息を吐く。
その一連の動作から生まれた彼の吐息に、リザは自分が彼を喜ばせることが出来たという小さな幸福を覚える。
そんな彼女の視線の先で、不意に何かに気付いたようにマスタングが彼女の方を見た。
彼の一挙手一投足に視線を奪われていたリザは彼の視線にどきりと心臓を跳ねさせる。
だが、マスタングはそんな彼女の様子に頓着することなく、少し不思議そうな顔で彼女に尋ねた。

「リザ、君は珈琲を飲まないよね?」
「はい」
思わず跳ねた鼓動を隠すように、リザは努めて低い声で彼の問いに答えた。
マスタングはコトリと小さな音を立ててテーブルにカップを置くと、重ねて彼女に尋ねた。
「君は珈琲が嫌いなのか?」
ストレートな彼の言葉にリザは苦笑し、小さな訂正を行った。
「味が苦手なだけで、香りは好きです。どうしてですか?」
彼女の言い様にマスタングもつられたように笑うと、質問の理由を彼女に明かした。
「いや、大したことではないのだけれどね。君が私に珈琲を淹れてくれるけれど、自分では飲まないだろう? なのに、どうしてこう美味く珈琲を淹れるのかと不思議に思ったんだ」
分かり易い彼の疑問に、リザは簡単な種明かしをしてみせた。
「父に鍛えられましたから」
「師匠が?」
マスタングはまたその声に不思議そうな色を滲ませる。

それも当然だろう。
彼女の父親は錬金術以外のことには全く興味のない人間だ。
基本的に食事は生命維持の為、嗜好品などには殆ど興味を示さない。
そんな暇があれば、独り書斎に籠もって練成陣のひとつも描いている。
だが、そんな彼女の父にも分かりにくくはあるが、多少の嗜好は存在するのだ。
リザは自分だけが知る事実を、そっとマスタングに分け与える。
「父にお夜食を持っていく時に一緒に珈琲を持って行くのが日課だったのですが、日によって父が珈琲に全く手を付けていなかったり、全部飲んでいたりすることに気がついたんです」
「成る程。それで、君は師匠が珈琲を飲み干した日の淹れ方を研究し、この味に行き着いたというわけか。素晴らしいね」
リザが皆まで言わずとも答えを悟るマスタングは彼女の答えを途中から奪い取ってしまい、勝手に一人で納得している。
だが、それは彼女に不快感をもたらすことはなく、逆に彼に褒められた面映ゆさが彼女の頬を染めた。

マスタングは机に置いたカップを再び唇へと運ぶと、また満足の吐息をこぼし、ついでのように彼女に言い足した。
「それにしても、君に苦手なものがあるなんて意外だったな。食べ物でも何でも、嫌いなものなんて無いのかと思っていたよ」
彼の軽い口調にリザはまた苦笑した。
「そんなことありません。マスタングさんがご存じないだけで、けっこう色々苦手なものはありますよ?」
「そう? たとえば?」
「えっと、すごく苦いものとか」
「ああ、珈琲も確かに苦いな」
「酸っぱすぎるオレンジ、とか」
「ああ、それは私も苦手だ」
「あと、食べ物ではないですけれど、難しい数学の問題も」
「うーん、それは賛同しかねるな。答えが一つしかない問いは美しい」
二人は顔を見合わせてクスクス笑いあった。
こんなに長くマスタングと話をするのは、初めてかもしれない。
リザはウキウキと跳ねる心を抑え、言葉を続けた。
「私にはそのお考えの方が賛同出来ません」
「そうかな?」
「そう言うマスタングさんはどうなのですか? マスタングさんも余り苦手なものは無さそうに思っていたのですが」
「そうだな、食べ物の好き嫌いは殆どないかな」
「苦手な教科もあまり無さそうですね」
「ああ、家庭科は苦手だ」
「……ああ」
「なんだい、その間は」
マスタングは納得するリザの表情に苦笑すると、ふっと遠くを見る眼差しになり、意外なことを言った。

「そうだね、あとは自分の名前が少し苦手かもしれない」
「え?」
意外な言葉に、リザは思わず首を傾げた。
マスタングは微かに笑っただけで珈琲を飲むことでその口を封じてしまい、重ねて答えてはくれなかった。
だが、彼の言葉に驚いた彼女はそんなことには気にも留めず、思わず独り言のように言葉を零してしまった。
マスタングさんも、ですか?」
彼女の言葉に今度はマスタングが驚いたように、そっと眉尻を上げる。
カップを口から離したロイはまじまじと彼女を見つめてきた。
その雄弁な瞳の前に、リザはまた自分の心臓がドクドクと高鳴るのを感じた。
父のお弟子さんはそんな彼女の様子に気付いているのかいないのか分からない様子で、いつも通りの表情を崩さないでいる。
自分はうっかり何を言ってしまったのだろう。
リザはたちまち自分の心に灰色の小さな後悔の雲が広がっていくのを感じる。

名前が苦手だなんて驚かれるのも無理はないと思っているし、理解されるものでもないと思っていた。
なのに、そんな感情をマスタングも持っているという事実が彼女をひどく驚かせた。
だからと言って、誰にも話したことのない感情をうっかり彼に吐露してしまったことが恥ずかしかった。
善良な顔をした父の弟子はどこか困った様子で、想定外の彼女の答えに返す言葉を探しあぐねているようだ。
きっと優しい彼のことだ。
リザを上手くなだめ、フォローする上手な言葉をたくさん並べてくれようと、その脳みそを働かせてくれているのだろう。
でも、そんなことよりリザは彼の言葉の理由を聞いてみたかった。
リザは勇気を出してマスタングに尋ねる。

「あの、マスタングさんはどうして……ご自分のお名前が、その……」
「ああ、うん」
途端に歯切れの悪くなった彼の言葉に、リザはまた少し後悔する。
やっぱりこれは踏み込んではならない彼の繊細な心の領域の問題であったのだろうか。
だが、マスタングはすぐに彼女に向き直ると、少しだけ真面目な表情をした。
「すごく下らない理由だが、笑わないかい?」
「? ええ、勿論」
リザは予想外の展開に目を瞬かせる。
マスタングは一瞬だけ唇の端を上げて苦笑の形にすると、あっさりと言い放ったのだった。
マスタングとは、野生馬を意味する単語だってことはリザも知っているよね」
「はい」
「その語源に遡ると野生馬は野生馬でも『小型の』野生馬を意味していて、本来の意味は『迷子になった家畜』なんだそうだ。なんとも締まらない話だろう? 迷子だなんて」
「え?」
本当に彼の言葉通りの下らない理由に、リザは思わず間抜けな声を漏らしてしまう。
彼女の返事にマスタングは嘆息すると、言い訳のように付け加えた。
「『主人のいない家畜』という意味の方から、野生馬という意味に転じたらしいんだけれど、もう少し何とかならなかったのかと思うと」
マスタングがそう言ったところで、リザは思わずくすりと笑ってしまった。
「ああ、だから笑わないでくれと言ったのに」
マスタングが拗ねたようにそう言うから、リザは慌てて言葉を足した。
「いえ、そういう意味じゃないんです、マスタングさん」
リザは微かに笑みを浮かべると、急いで彼に説明した。
「私も同じだったので……」
「同じ?」
今度はマスタングが彼女に言葉を促した。

リザは胸の内にあるものを吐き出すように、彼に言った。
「私もとても下らない理由で、自分の名前が苦手なんです」
そう言って彼女はマスタングの様子をうかがった。
彼は笑うことなく、彼女に話の続きを促す。
だから、リザは安心して父にも話したことのない、自分の秘密を彼に話してしまうことにした。
「鷹の目って、鋭い目つきとか探しものをする時の目、みたいな意味ですよね。私、あんまり話すのが上手くない方ですから、つい人をじっと見てしまったりして……。それで、学校でからかわれたりすることもあって、だから」
彼女はそこまで言って、そっとマスタングの様子をうかがった。
彼は少し嬉しそうにも見える穏やかな表情で、彼女の話をただ聞いてくれていた。
そんな彼の様子に心が満たされたリザは、そこで口を噤んだ。
マスタングは珈琲のカップも手にしていた本も、両方を机上に置くと真っ直ぐに彼女と向き合った。
「下らなくなんかないと思うよ、君の理由は」
マスタングはそう言うと、立ち上がって彼女の前まで来るとそっと彼女の頭を撫でた。
「随分、辛い思いをしたんだね、君は」
マスタングの穏やかで優しい言葉に、リザは思わず涙がこぼれそうになったけれど、ぐっとそれを堪えて笑ってみせた。
彼の言葉を肯定したら涙の他にもいろいろ零れてしまいそうだったから、リザは何も言わず下を向いた。
それでも、マスタングはずっと彼女を慈しむように、リザの金の髪をくしゃくしゃとかき混ぜ続けてくれた

          §

「ハボック曰く、『俺たちには鷹の目がついている』だそうだ」
「光栄です」
現場に出て来てしまった上官に、リザは素っ気なく答えた。

あれから十年近い時が流れた。
それでも彼らは変わらず共に生きていた。
ただあの時と違い、二人は共に大人になり、昔ほど素直でも純粋でもなくなっていた。
それでも交わす会話は、あの頃とさほど変わらないようにリザは思う。

現場に出て来た上官に怒る彼女の様子に頓着せず、ロイは楽しそうにクツクツと笑っている。
「『鷹の目』と呼ばれることに、もう抵抗はないのかね?」
鎧に魂を定着させた殺人鬼を餌に本体を呼び出す『釣り』はこれからが佳境だというのに、昔語りをする呑気な男に釘を刺すようにリザは彼に言葉を返す。
「ありません。名前など記号に過ぎませんし、今となっては身に過ぎた名前かと思います」
「ふむ、いい傾向だ」
「そうおっしゃる大佐こそ、『迷子』にならないで下さいよ」
「君、相変わらず辛辣だな」
ロイは苦笑しながら、どんどん彼女より先に進んでいってしまう。
まったく勝手なのだから。
そう思ったリザがもう一本釘を刺しておこうと口を開き駆けた時、背中越しにロイの不敵な声が届く。
「今は『主のいない家畜』だよ。軍服に袖を通してはいるが、主は己自身だからな」
昔とは違う自信に満ちたロイの言葉に、今度は彼女が苦笑する番だった。
「承りました。ではどうぞ、ご自身で手綱をとっていらして下さい」
「何を今更」
彼女の十八番を真似た男は、今は己の名にプライドを持って歩いている。
自分も同等に、この『鷹の目』の名に恥じぬような働きをみせなければ。
そんな想いを胸に、リザは上官の背中を追って歩き出したのだった。

 Fin.

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【後書きのようなもの】
 すみません! 6月1日の25時と言うことで、ご容赦下さい!
 ロイの日ばんざーい!

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