C88サンプル

涙は凍り花と散る

 火曜日の三時間目と四時間目の間の休み時間、梨紗はいつものように、窓際の自分の席から窓の外を眺める。
 今日は通るだろうか?
 駄目元なんだから、期待はしない方がいい。
 偶然。そう、偶然姿が見られたらいいな、そのくらいにしておかないと。
 中庭に面した新館校舎の二階から、二年生の教室のある旧校舎に繋がる渡り廊下にじっと視線を送り、彼女は期待する自分の心を戒める。
 新館から旧校舎に移動するルートは二つ。一つはピロティを抜けて旧校舎の中央の入り口から入るコース、もう一つは中庭を抜けていくこの渡り廊下を通過するコース。確率はまさに、フィフティ・フィフティなのだ。
 まるで人生の大問題のような真剣な瞳で、それでも傍目にはぼんやりと窓の外を眺めている風を装いながら、梨紗は渡り廊下を見つめ続ける。
 まったく、来るなら早く来てくれればいいのに。
 梨紗は胸のうちで、自分勝手な文句を言った。
 そんな梨紗の願いが通じたのだろうか。L字型に曲がる渡り廊下に、人影が現れた。
 そのシルエットを見ただけで、彼女の鼓動はいつもより速い速度で跳ね回る。だが、小走りに急ぐ男の姿は、一瞬で生え放題に生えた萩の茂みの陰に隠されてしまった。彼女の視界には、ひょこひょこと飛び跳ねる黒髪の頭頂部だけが、緑の目隠しの向こうに見え隠れするばかりだ。
 もう少し背が高かったら、顔まで見えるのに。
 そんな不満を抱えてプッと頬を膨らませた梨紗の視線の先で、植え込みの切れ間から男の全身が再び姿を現した。梨紗は自分でも気付かぬうちに身を乗り出して、男の姿を目で追った。
 彼女の担任教師・増田英雄は、四時間目の二年生の授業に遅刻しそうになり、スーツの裾をはためかせて小走りに渡り廊下を駆けていく。彼女の視線に気付くことなく走る教師は、陸上部の顧問らしい大きなストライドで、あっと言う間に校舎の中に駆け込んでいってしまった。
 梨紗が中庭を見つめて待ち続けた時間七分。
 彼が中庭を駆け抜けた時間七秒。
 どうにも割には合わないけれど、それでもその七秒は梨紗にとってはかけがえのない一瞬なのだ。
 生徒には廊下は走るな、って言ってるくせに。そう思いながらも緩む口元を抑えきれず、梨紗は少しだけ俯いてその表情をクラスメイトの目から隠した。そして、こっそりと小さな幸福を噛み締め、何食わぬ顔で現国の教科書を開いた。と同時に、ガラリと教室の扉の開く音がする。
「あんた達、授業を始めるよ。先に言っとくけど、受験に関係ないヤツも、内職するんじゃないよ。センター試験が近いと言っても、授業は授業なんだからね」
 威勢のいい声を上げて、今日もまたチャイムの鳴る少し前に現国の泉先生が教室に入ってきた。増田先生も、少しは泉先生を見習えばいいのに。梨紗はどう考えても、実現が難しそうなことを考える。
 まぁ、それが出来ないところが、増田らしいところではあるのだが。梨紗は内心でクスリと笑うと、ノートを開き几帳面な字で板書を写し始めた。
 この時期、受験を控えた三年生の授業は、センター試験に照準を合わせた内容半分、教科書の消化が半分と言ったものになっている。それは梨紗たち三年生に、高校生活がもうあと残り僅かであることを明確に示しているようで、カツカツとリズミカルに黒板に書かれていく文字を追いながら、梨紗は微かな胸の痛みを感じる。
 もう少し、あと半年もしないうちに受験のシーズンがやってきて、そして卒業式がやってくる。卒業してしまったら、もうこんな風に教室の窓から増田の姿を見ることさえ出来なくなってしまうのだ。梨紗は一瞬だけ中庭に視線を落とすと、諸々のことを振り切るように小さく頭を振り、現国の授業に気持ちを集中させたのだった。

 お腹の空いている時の四時間目の授業ほど、長く感じるものはない。きゅうきゅうと空腹を主張するお腹をなだめながら現国の授業を乗り切った梨紗は、待ちに待った昼休みになると、お弁当を片手に三階まで出張していく。
 二年生のクラス分けで、梨紗は理系のクラスに進んだ。一年半経って慣れたとは言え、クラスの八割が男子の教室はやっぱりむさ苦しい。だから梨紗は昼休みになると、一年生の時に仲の良かった同じ弓道部の片倉玲香のいるクラスに遊びに行くのだった。
「玲香!」
「やほぃ、梨紗。こないだ言ってた雑誌、買ってきたわよ」
「何だったっけ?」
「ほら、血液型占いが特集の」
「ああ、あれね。どうだった?」
「うん、結構当たってるかも、後で見る?」
「うん、見せて、見せて」
 他愛もない会話を交わす二人は、玲香の席でお弁当を広げる。今日も梨紗が自分で作ったお弁当を広げると、玲香は興味津々に彼女のお弁当箱をのぞき込む。
「凄いな、梨紗は。毎日これ作ってんだものね」
「慣れたら、どうって事ないわ」
「あたしには、無理だわ」
「そうかな?」
「絶対、無理無理!」
 そう言って玲香は笑うと、自分のお弁当に入った松茸ご飯のお握りに箸をつけた。
ああ、今年は炊き込みご飯、作ってないな。そう思いながら梨紗は、自分のお弁当のサンドイッチに手を伸ばす。ハムと胡瓜を挟んだ何の変哲もないサンドイッチには、季節感の欠片もない。
 梨紗が何を作っても、父親は文句も言わずに食べてくれるから、母親が他界してからの鷹目家の食卓は単調になりがちだ。だからと言って、高校生の梨紗が学校に行きながら家事もこなしているのだから、それほど凝ったことが出来るわけもない。
 受験が終わったら、お料理教室にでも通ってみようかな。梨紗は黙々とサンドイッチを頬張って、皮を向いて切っただけの林檎に視線を移した。そんな梨紗の思考を断ち切るように、玲香はお握りをゴクリと飲み込むとニヤニヤしながら話しかけてきた。
「ところで、梨紗。聞いたわよ? 二年の黒田ハヤテに告られたんだって?」
「やだ! 何で知ってるの?」
 玲香の言葉に梨紗は危うくサンドイッチを取り落としそうになり、慌てて口の中のパンを飲み込むと、玲香を問いただした。玲香は素知らぬふりで自分のお弁当のプチトマトを摘みあげ、梨紗の口に放り込むと笑って答えた。
「だって、黒田がアンタのこと好きだなんて、部のみんなが気付いてたんだから。好かれてる当の本人だけよ? 知らなかったの。私たち三年生の引退試合の時にアイツ言い出せなくて、みんなヤキモキしてたんだから」
 梨紗はトマトを食べながら、もごもごと口の中で何か言いながら赤くなるしかなかった。玲香はそんな梨紗を面白そうに見て、言葉を続けた。
「基本的にあんたって世話焼きだから、どうしたって年下の子に慕われるのよね。前の何とか君だって、そうだったじゃない」
「誰だっけ、えーっと」
「つれないわね」
「仕方ないじゃない、知らないクラスの子だったんだから」
「それもアンタが図書委員で面倒見てあげた、下級生だったんでしょ?」
「違う、同級生」
「似たようなもんじゃない。アンタが頼られる側だったことに、変わりないんだから」
 そう言われてしまっては、梨紗にはぐうの音も出ない。
 確かに梨紗は様々な局面において、副部長だとか委員長だとかいう肩書きを持ったり、場を取り仕切り他人の面倒を見たりすることが多い。面倒見がよく頼られると否と言えない性格でもあり、愚図愚図している様子を見るとついお節介を焼いてしまう。
 これはもう性分と言って差し支えないものであるらしく、部内で冗談めかして「姐さん」だとか「姉御」だとか呼ばれることにも慣れてしまった。だから、梨紗のことを好きだという男子は、梨紗のそういった面倒見のよい頼れる一面に惹かれたと口を揃えて言うのだ。
「アンタには、姉さん女房が似合ってんのよ」
「何よ、その古臭い言い方」
「いいじゃないの。料理は上手いし、しっかり者だし、ぴったりよ」
 そう言って玲香は梨紗のタッパーから、林檎をひょいとつまみ上げ一口で食べてしまう。梨紗は苦笑して、ツナサンドを口にした。
 確かに梨紗自身も、以前はそう思っていた。
 高校の三年間で彼女にそんな相手がいたことはなかったが、彼女に告白してくる相手はそんな年下の男子ばかりであったのだから。高校生くらいだと、同学年でも男子の方が女子よりも子供っぽい。だから、梨紗はそういう男子の面倒を見るポジションが、自分には一番しっくりくると思っていたし、事実そう言う状況に現実がなっていた。
 だが、今は違う。
 彼女は、自分が甘やかされる立場になることが出来ることを知ってしまったのだ。今現在、梨紗の視線が追いかけてしまうのは、四捨五入すれば十歳も年上の相手なのだ。
 梨紗自身好きになるだなんて想像もしなかったその相手は、なんと先生だったのだから。