over shoot

週明けの当直ほど憂鬱なものはない。
それが、出動を伴うものであれば尚更だ。
リザは仮眠室の硬いベッドに半身を起こし、小さなあくびを噛み殺しながら、思う。
深夜〇二四五に叩き起こされ、小さな事件の解決に当たった彼女が再び仮眠室に戻ったのは〇五三〇を少し過ぎた頃だった。
一時間弱の仮眠を取って目覚めれば、中途半端な睡眠は彼女に生あくびばかりを生み出させる。
こんなことなら、あのまま寝ないで報告書でも書いていれば良かった。
リザはしても詮無い後悔を胸に、ベッドから離れられないままにボウッと仮眠室の窓へと目をやった。

どうやら一時間前の彼女は疲れすぎて、窓のカーテン引くのも忘れていたらしい。
半ば開いたカーテンの向こうには、眩しい朝の景色が覗いていた。
彼女のどんよりとした頭脳とは裏腹に、窓の外には鮮やかな新緑を湛えた木々に雲雀が歌い、絵に描いたような爽やかな初夏の景色が広がっている。
始業時刻にはまだ少し早い東方司令部の敷地内には、早めに出勤した軍人たちの姿もチラホラ見え始めていた。
リザはぼんやりとした頭を抱え、のろのろとベッドから起き上がった。
顔を洗い、最低限の身支度を調えても、彼女の精神はどうにも朝の空気に馴染まないままだ。
そんなに疲れているわけでもないのだが、おそらく睡眠のリズムが起床時刻と合わなかったのだろう。
己の状況をそう結論づけ、リザはバレッタで髪を留める。
上手く纏まらぬ後れ毛に手こずりながら、それでもいつも通りの冷徹な鷹の目の顔を何とか作り上げ、彼女は仮眠室を出た。

東方司令部の長い廊下には殆ど人影はなく、リザの堅い足音だけが響く。
普段なら一日のスケジュール確認や、アポイントメントや事務処理の期限の確認を頭の中で行いながら頭を起こすのだが、今日はそんなことすら億劫だ。
それに当直明けでこのまま家に帰る彼女に確認しなければならないことなんて、さほどあるわけもない。
リザはいつもよりスローなペースで歩きながら、回らない頭で考えることを諦めた。
引き継ぎが終わるまで帰れないのが恨めしいが、この空いた時間にとりあえずの報告書だけでもまとめてしまおう。
どうせこんな状態では碌でもないものしか出来ないであろうが、それでも叩き台を作っておけば後が楽だ。
それから、上官の今日の予定を頼りにならない頭の中でではなく、きちんと書類上で確認しておけばいい。
そうしている間に時間は過ぎて、退勤の時間がやってくる。
それまで、あと少し頑張れば。
リザは自分を鼓舞するように思考を前向きにし、執務室へ向かって歩いて行った。

階段を上がり、もう少しで彼女のいつもの職場に辿り着こうとしたその時、不意に彼女は背後に近付いて来る気配を感じた。
幾らぼんやりしていたとはいえ、ここまで他人が近付くのに彼女が気付かないわけがない。
リザは背後の気配の主が誰であるかを察し、振り向こうとした。
だが。

次の刹那、彼女の首筋に何かが触れた。
不意打ちの熱量は彼女のよく知る甘さを含み、リザは全身の毛穴が開くような感覚を覚える。
リザは背筋を走る痺れに声を上げそうになり、意志の力で必死に自分を抑えた。
彼女の脳は急激に血流を活性化させ一気に覚醒したが、未だ状況を的確に判断するに至らない。
そんな状況の中、無骨な指先という実体を持ったその熱量は、彼女の襟首のタートルネックを引っかけるとクイッと黒い布地を引っ張り上げた。
タートルネックの温もりが彼女の首筋に纏わり付くのと引き替えに、あっと思う間もなく首筋に触れた熱量は一瞬で離れていってしまった。
身体の覚えた男の体温が失われ、彼女は微かな失望を覚えて眉を顰めた。
だが、次の瞬間。
彼女の耳元を指先より熱い吐息が撫でた。
今度こそ音を立てて息を飲む彼女の耳に、聞き慣れた低いバリトンの声が響いた。
莫迦者。見えている」
声と共に触れぬ唇の温度が、彼女の耳朶を掠めた。
吐き出された言葉と吐息に耳をくすぐられ、リザは震えた。
それなのに端的にそれだけを告げた声の主は、すっとそのまま彼女を追い越して去って行ってしまう。

リザは呆然として、黒髪の上官の後ろ姿を見送る。
男はリザを振り向きもせず、大きなストライドで執務室へと歩いて行く。
彼女に触れた指先がドアノブに触れ、彼の姿は執務室の中へと吸い込まれてしまった。
そんな彼の姿を目で追う彼女の足は、完全にその場に立ち止まってしまった。
ぱたりと閉まるドアの音を聞きながら、リザは彼に触れられた首筋を押さえ、その場に立ち尽くした。
手に触れる首筋の上までを包む布地の感触に、リザは漸くおざなりな着替えに自分の首筋の刺青がタートルネックからはみ出していたことに気付く。

彼女の上官は、彼女がずっと隠してきた秘伝が見えてしまっていることに気付き、そっと着崩れた彼女のタートルネックを直してくれたに過ぎない。
その指先も、その声も、全ては彼女を狂わせる甘い道具であることを、あの男は自覚していないのだ。
これだから、天然はたちが悪い。
完全に覚醒した脳でそう考えながら、リザは地団駄を踏みたい思いで執務室の扉を見つめる。
こんな感情を抱えて、彼女は執務室に入っていくことなど出来ない。
ましてや、書類をまとめるなんて、頭が回るわけもない。
酷く熱を持った首筋と耳朶にジンジンと拍動を感じながら、リザは呟く。
「酷いひと」
艶を帯びさせられた彼女の声は罪作りな男に届くことなく、執務室の扉に跳ね返り朝の廊下に落ちて消えた。

Fin.

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 朝の140字より。衝動書きなので短いですが。
 天然中尉もいいですが、天然誑しマスタングも好きです。

 お気に召しましたなら。

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