Shell White

「もう、行くのか」
微かな灯りに瞼を刺激され目覚めた私は、夢うつつのまま壁に向かってそう言った。
返事はない。
その代わりに、背中越しにふっと身を堅くする彼女の気配が感じられた。
横臥した体勢のまま振り向かずとも、長年の経験から彼女が朝を迎えずにこの部屋を立ち去ろうとしていることは分かっている。
ああ、昨夜の言葉も彼女には届かなかったか。
私は落胆と失望を抱え、ベッドに横たわったまま意識を眠りの淵から引き上げた。
引き留めたところで、彼女は私の言葉を受け入れはしないだろう。
いつも繰り返される非生産的な彼女との会話を記憶の中に反芻し、半ばうんざりしながら、私は薄く目を開いた。
彼女の気配は動きを止め、私が振り向くのを待っている。

リザと臥所を共にするようになって、どのくらい経っただろうか。
どれほど私の部屋に通うことに馴染もうと、彼女はけして私の部屋には泊まろうとはしない。
どれほど私が彼女を支配し、その体力を奪おうとも。
たとえ二人ともに、翌日が非番であろうとも。
どんな条件が揃おうとも、リザはそっと深夜のベッドを抜け出そうとする。
だが、私とて現役の軍人だ。
眠っているとはいえ、傍らで動く人の気配に目覚めぬほど愚鈍ではない。
勿論、気付かぬふりをすることも、眠ったふりをすることも出来ないことはない。
だが、彼女の鷹の目が私の演技に気付かないわけがない。
故に我々はそのたびに向き合って、不毛なやりとりを繰り返すこととなる。
聞き入れられぬと分かっている言葉を吐く虚しさ。
それでも、その言葉を聞く彼女の表情の切なさに感じる安堵。
いっそ、暴力的な手段に訴えてしまいたくなる衝動。
実際、再び彼女を臥所に引き込むこともたびたびだ。
その度に感じる自己嫌悪は不機嫌な表情として私の顔に表れる。
彼女もまた不機嫌を露わにし、甘やかな時間は苦い思いに満たされ幕を閉じる。
結局似た者同士の自分たちを自嘲し、私は思い通りにならぬ小鳥を手放すしかないのだ。
手の中に残るのは少しの満足と大きな自己嫌悪。
なお悪いことに、翌日も仕事で彼女とは顔を合わせねばならない。
彼女のポーカーフェイスを睨みながら、私は執務机に就くしかない。
ならば、いっそ彼女を抱かねばいい。
そう思うこともしばしばだ。
だが、私も彼女もそれを実行できない程には、互いの想いも葛藤も欲望も知ってしまっている。
解決策も見つけ出すことも出来ず、我々は堂々巡りの袋小路にはまりこんだまま、今日も同じことを繰り返している。

私は内心で溜め息をこぼすとリザの方へと寝返りを打ち、彼女の姿を見上げた。
ベッドを抜け出した彼女は既に下着を身につけていた。
それでも未だ大部分が露わなままの彼女の肌を視線でなぞれば、リザが更に身を堅くするのが分かる。
身体に絡んだシーツをぞんざいに開け、私は現時点で彼女を解放する意志がないことを態度で彼女に示してみせる。
「出勤するには随分と早過ぎはしないか? まだ、日付すら変わっていないぞ」
言外にベッドに戻るよう促す私を、リザは静かに見下ろした。
室内を照らす小さな灯りの中、伏せた長い睫の作る影が彼女の眼差しの中に揺れる感情を隠す。
「いったん帰宅いたしてから出勤いたしますので、今夜はここでお暇させていただきます」
「ここから出勤することに何か支障があるか?」
「上官の部屋から副官が出勤することは規範に則った行為ではありません」
「私が許可する」
「ですが」
あくまでも杓子定規な彼女の言い分に、私は彼女に今度は聞こえるように唇から溜め息をこぼす。
私の溜め息で断ち切られた彼女の言葉は、行き場をなくしその唇の中に飲み込まれた。
だが、閉じられた彼女の唇は、吐き出し損ねた言葉の形に歪んだままだ。
私は彼女の不服を感じ取り、折衷案を呈示する。
「君が人目を気にするのならば、早朝にこの部屋を出ればいい」
「そういう問題ではありません」
「ならば何が問題だ」
「ですから、上官の部屋から」
「退室を許可した覚えはない」
彼女の言葉を途中で奪った私に、今度は彼女が溜め息をついた。
「私たちは執務室にいるのではないのですよ、大佐」
そう言った彼女の、聞き分けのない子供を諭すような口調が私の癇に障る。
だが、きっとリザの方でも私の横暴な命令口調に苛立ちを感じていることは間違いない。
こんな感情まで等価交換することもないものを。
私は苦い感情を噛みしめ、また溜め息をついた。

ぷつりと途切れた会話に、部屋の中には重苦しい空気が立ちこめる。
沈黙を私の諦めと取ったのか、リザは傍らのブラウスに手を伸ばし着替えを再開する。
私はそんな彼女の姿を見ながらまた溜め息をこぼし、ベッドの上に上半身を起こした。
また彼女をベッドに引きずり込むか。
それとも、このまま帰してしまうか。
どちらにしても苦い思いが互いに残ることは間違いない。
私はどちらの選択肢をも選びかね、逡巡の表情を隠さず彼女を見る。
彼女の方でも迷いがないわけではないらしく、私に向けた背中が微かな緊張と哀しみを告げている。
長年の付き合いに互いの頑固さも想いも知りすぎるほどに知っている。
それもまた厄介なものなのだと自嘲し、私は再び彼女を翻意させようと彼女の背中に声をかけた。
「行くな」
少しの躊躇いを見せながら、それでも彼女は私を振り向いた。
意志の強い瞳が私を見詰め、反論の言葉がその小さな唇から放たれようとするのが分かる。
ああ、また堂々巡りだ。
そう思った次の瞬間。

プツッ。

音を立てて、彼女のブラウスの胸元の釦が弾け飛んだ。
「え?」
「あ!」
同時に声を発した我々の視線の先で、綺麗な放物線を描いた釦は音もなく私のあぐらを掻いた膝の上に着地した。
白いシーツの上に乗った小さな白い釦を見、次にリザの姿を見れば、彼女は胸元を押さえて真っ赤になっている。
おそらく彼女が身体をひねった反動で、きつくなっていたブラウスの胸元の生地が引き攣れたのだろう。
私はそう思いながら、我知らず彼女の胸元をじっと見詰める。

釦が飛んでしまうほどに、彼女が太ったということはない。
さっきこの手の中に確認した私が言うのだから、間違いはない。
ならば、彼女の胸が成長したと言うことか。
それならば、納得がいく。
それも先程この手で確認した。
その成長にいささかの貢献をしたのが私であることも自負している。
そうか、そんなに育ったか。
いや、そんなことを考えている場合ではない。
今は立ち去る彼女を説得しなければならないのだ。
いやだが、しかし、これもまた重要問題だ。
ああ、リザが多分先程とは違う意味で私を睨み付けてくる。
さすがに、その変化は分かる。
さて、どうしたものか。

私が混乱した思考を繰り返している間に、リザはきょろきょろと辺りを見回し何か隠すものを探しだした。
私が下半身を隠すシーツに目をやり、壁に掛けた上衣に目をやり、彼女ははっとしたように床に落ちていたものを手に取った。
ようやっと安堵したようにそれに袖を通した彼女の姿に、私はまた絶句する。

彼女が拾い上げて着たものは、私が脱ぎ捨てたワイシャツであった。
昨夜ベッドにもつれ込み、脱ぎ捨てた私と彼女の衣服はそこかしこに散乱している。
だが、何故選りに選ってそれを着るのか。
男物の長いシャツの袖を握りしめ、素足をその裾から覗かせる姿は、どう見ても私を誘っているようにしか思えない。
私の理性を試したいのか。
帰ると言いながら、本当は引き止めて欲しいのか。
そうとしか思えないだろう、その素肌に私のワイシャツを着ているとしか思えない姿は。
しかも、襟元に鼻先を埋めて、なんだその表情は。
確かに昨夜脱いだままだから、多少臭うかもしれんが。
それなのに、前立てを握りしめてちょっと頬を赤らめるのは何故だ。
帰す帰さない以前の話になってしまうではないか。

先程までの張り詰めていた空気は最早欠片も残っておらず、なんとも照れくさい間が我々の間を満たす。
私はどうにも困り果て、赤くなってやはり困り果てる彼女を見つめ、そしてこの混乱を引き起こした膝の上の釦を見た。
なんの変哲もない釦を拾い上げ、私は彼女を見た。
彼女もまた、先程のきつい眼差しとは打って変わった困った目で私を見ていた。
その表情はまた愛らしく、私は苦笑するしかなくなってしまう。

たった一つの釦が切なさも痛みも吹き飛ばすとは、私の苦悩などなんと軽いものなのか。
私はベッドに腰掛けたまま手を伸ばし、彼女の腰を己の胸へと抱き寄せた。
「大佐!」
赤い顔をしたまま、それでも我に帰ったように抗議の声を上げるリザに私は笑った。
「そんな挑発的な格好をして、帰ると言われても説得力は皆無なのだがね」
「事故です!」
「事故でも何でも良い」
私は彼女の腹に顔を埋め、深呼吸をする。
己のシャツの臭いと彼女の匂いが交じり、慣れた私のシーツと同じ空気が私の鼻腔を満たした。
私の呼吸に肌をくすぐられ、リザは身をよじる。
私は顔を上げ、密着した状態で彼女を見上げた。
「君の責任だ、或いはこの釦の」
私がそう言うと、リザはまた赤くなって黙り込んだ。
そんな彼女を引き倒し、再びベッドの上へと迎え入れる。
彼女が羽織ったばかりの私のワイシャツの前を開ければ、胸元がぱくりと開いたブラウスが現れる。
その隙間から下着と彼女の肌が覗いた。
白いブラウスの下の肌は、彼女の顔と同じくらい赤く染まっている。
私はその色にそそられ、その隙間に口付けを落とす。
彼女の身体がひくりと震え、甘い吐息が漏れた。
そのまま胸元に舌を這わせれば、彼女の手が私の頭を抱く。

いつもなら彼女を引き止め無理強いするような思いのする行為が、今日はまったく罪悪感を私にもたらさない。
私はただ単純に彼女の愛らしさを愛で、彼女は素直に恥じらいをもって私を受け入れている。
たった一つの釦のお陰で。

きっと事態を難しくしていたのは、我々の思考、ただそれだけだったのだ。
私はそう考えながら、手の中に握っていた釦を彼女の目の前にかざした。
不審な顔をする彼女に私は言う。
「釦ひとつで平和を得られる程度の諍いなら、私は君と争いたくはないのだが」
リザは私の指先から釦を取り上げ枕元に置くと、微かに頷いた。
私は彼女の思いが自分と同じであるらしいことに安堵し、もう一つの提案を口にする。
「黙って帰るのは止めたまえ。きちんと私に見送らせろ。ならば、私も譲歩出来る時は譲歩する」
リザは少し考え、また微かに頷いた。
「とりあえず言っておくが」
私は胸が見えてしまい用を為さないブラウスを脱がせながら、緩やかな愛撫を開始する。
リザは小さく啼きながら、私にしがみついてくる。
私は先程までの不機嫌と眉間の皺を忘れ、笑いながら彼女に言った。
「今日はもう帰せんからな」
リザが頷いたか頷かないか確認せず、私は彼女に口付けた。
言葉にならない甘い返事が、彼女の唇から伝わる。
満足する私の耳に、〇時を告げる遠い鐘の音が響いた。

 Fin.

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 Twitterネタより昇華。事態を打開するのは、意外に莫迦莫迦しいハプニングだったりするものです。大佐の一人称は久々な気が。

 お気に召しましたなら。

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