SSS集 15

  Out of territory



 台所という場所は、常にリザのテリトリーである。例えそれがロイの家の台所であろうと、彼一人の時は珈琲を淹れるくらいにしか使われぬ台所を本来の意味で活用するのは彼女だけであるのだから、やはりそこは彼女のテリトリーであった。
 しかし、今夜は少し勝手が違った。
「大佐?」
 深夜に目覚めた彼女は、己のテリトリーで男の姿を見つける。真夜中のベッドはいつの間にか彼女一人の為に明け渡され、男が眠っていたはずのスペースは人肌を感じさせぬ程に冷えていた。
「ああ、すまない。起こしてしまったか」
「いえ、そんなことはありませんが」
「何だ? 独り寝が寂しくて私を探しに来たのかね?」
「そんなことはありません」
 冷たく言い放つ彼女の返事に、男は肩を竦めて「相変わらず、つれないことだ」と笑う。そう言って冗談めかした言葉を吐きながら笑う男の手には重いバーボングラスが握られていて、ほとんど溶けた氷が、彼が独りでこの場所にいた時間の長さを物語っていた。
 何故、真夜中に目覚めたのか。何故、ベッドを抜け出して一人きりになりたがったのか。再度眠る為に酒をあおらねばならぬ理由は何か。彼は決して彼女には教えてくれない。
 そんな時、台所は彼女の知らない夜の顔を見せる。男だけが知る、寂寥と慟哭とアルコールに満ちた退廃の空間としての顔を。
 そこは彼女の立ち入れぬ空間で、リザは少しの切なさと諦めを持って、男の手の中の氷がカラリと音を立てて崩れる瞬間を見つめた。

(本当は下らない穏やかな話を書く筈つもりだったのだけれど、あれ?)

  Substitute



「何をしておいでですか!」
「何って、見て分からんのかね」
「分かります。分かっていますが、分かっていてそう言うお答えをなさる大佐の方が大人げなくていらっしゃるかと」
「反論の余地もないね」
 ロイはそう言いながら片手に持った論文から目を離さぬまま、笑って手の中のバーボンを傾けた。
「ですから」
 尚も言い募ろうとするリザの言葉を遮り、バーボンを飲み干したロイは如何にも愉快そうに喉の奥で笑った。
「だから、手近にあったからに決まっているだろう」
「ですから、そういうところで横着をなさらないで下さい!」
「だが、これはこれで便利だぞ?」
 ロイは、空になった計量カップをダイニングテーブルに置いた。カツリと音を立てる硝子製の計量カップを、リザは睨み付ける。確かに注ぎ口があること以外は、グラスに似ていない事もない。
「どれだけ飲んだか、一目で分かる」
 だが、用途が違う。これはものを飲む為の道具ではない。
「大佐!」
 彼女の抗議の声に、ロイは笑った。
「君がいなければ、我が家の台所などこの程度のものだ」
 錬金術に夢中になると途端に駄目な大人になってしまう男を睨み付け、リザは大袈裟な溜め息をつくと、何処かに仕舞い込まれたウィスキーグラスの探索を始めた。

(下らない穏やかな話、リベンジ)

  Dash for the train



「発車時刻は!」
「あと一分です!」
「次の列車は!」
「一時間半後です!」
「急げ!」
「言われなくても!」

 普段は優秀な副官が、何をトチ狂ったのかとてつもなく無謀な乗り継ぎのスケジュールを組んでしまったことが発覚したのが三分前。
 階段を上って下りて迂回する、障害走の様なコースを作る駅のコンコースを二人揃って駆け出したのが二分前。
 そして今、彼らは最終コーナーでラストスパートをする短距離走の選手の様に、汽笛を鳴らす汽車に向かい全力でプラットホームを走っていた。
 軍服の裾を蹴って走るリザの目の前で男の黒いコートの裾が飜り、荷物を抱えたリザと必死に走るロイの距離は徐々に開いていく。普段はレディファーストだなどと言ってさっさと副官の手から荷物を奪う男は彼女を振り向きもせず、ゆっくりと動き始めた汽車をがむしゃらに追いかけ、遂に片手でその手摺りを掴んだ。
 バッとホームを蹴り汽車に飛び乗ったロイは瞬時に振り向き、彼女の方に身を乗り出し手を差し伸べる。リザは躊躇無く手に持った重い荷物をロイに向かって投げる様に、己の手を前に振り上げた。次の瞬間、ガッと荷物と共にリザの手首を掴まえた男の腕力が、彼女の身体を易々と汽車の上へと引き上げた。一瞬宙に浮いたリザの身体は引き寄せられた反動でロイの胸の中に飛び込み、彼女の身体を掴まえ損ねたロイは汽車のタラップの狭い通路に倒れ込んだ。
 彼らを受け止めた汽車はボウッと長い汽笛を鳴らし加速を始め、たちまちのうちに駅が遠ざかっていく。

 ガタガタと揺れる汽車の振動を背中に聞きながら、彼らは床に転がったままハァハァと荒い息をつく。これ程の全力疾走をすることなど、大人になってからはそうは無いことだった。立ち上がる気力も直ぐにわかぬまま、彼らは汽車の天井を見上げる。
「間に、合いました、ね」
「優秀な、副官殿の計算に、間違いはなかった、と言うわけだ」
「当然、です」
「君も、言う様に、なったな」
 見事な連係プレイでとりあえず目的の汽車に滑り込んだ彼らは息を切らしたまま、間抜けな自分たちの状況に声を上げて笑った。

(そんなシーンが浮かんだので書いてみた)

  Eschatology



「世界の終わり?」
「そ。今年の12月21日で世界が滅びるって終末論が話題になってるらしいわよ」
 昼食のデザート代わりにする話題にしては物騒なレベッカの言葉に、リザは懐疑的な眼差しを向けながら手に持った珈琲を口に運んだ。勿論、話題を出したレベッカの方でもそれを信じているわけではないらしいのは、その笑顔の質からも見て取れる。だが、ホムンクルスの脅威から国を守った彼女らにとって、それは冗談で済ますには重すぎる話題であった。
莫迦みたいな話ね」
「ほんと、世の中暇人が多くて困るわ」
 そう答えたレベッカは自分も珈琲を飲みながら、思いついたようにリザに問う。
「でも、ホントに世界が終わるって分かったら、どうする?」
「そうね」
 リザは少し考える素振りを見せたが、直ぐにいかにも莫迦莫迦しいと言った風に首を横に振った。
「絶対に終わらせないって莫迦みたいに突っ走る上官がいるから、そんな『もしも』は無意味だわ」
「確かに」
 レベッカはニヤリと笑う。
「あんたもほんと、大変ね」
「何を今更」

マヤ文明の終末論より。なんか7000年分先の暦見つかったらしいですが)
 
  nonsense



「よぉーっし。今日も一丁上がりッと」
 仄かに赤い顔で上機嫌に手を打つハボックに、ブレダは眉をしかめて酒臭い息を吐きだした。
「何が、一丁上がりだ。お前、毎回上官つぶして、そんなに楽しいか」
 へろへろと副官の肩を借り夜道を歩いていく情けない上官の後ろ姿を見送りながら、ハボックは親友の言葉にガハハと声を上げて笑った。
「楽しいっつーか、分かり易いっつーか」
「何が」
「何が、って、お前」
「バカか、お前」
「バカって、これでも協力してるつもりなんだぜ」
「それがバカだって言うんだよ」
 ブレダは心底呆れた口調で、ハボックの背中をバシッと音を立てて叩いた。
「酒の勢いなんて、碌な事になんねーんだよ」
「酒の勢いでもなきゃ進まんだろ、あの人らは」
「なら、余計飲ませるな。飲み過ぎて勃たなくなったら、その方が大問題だろ。そんな男の機微があの人に分かるかって」
「あー」
 酔っぱらい二人は情けない上官の後ろ姿に憐憫の眼差しを向けながら、ぼそりと呟く。
「不憫だな、大佐」
「仕方ないンだろ、あれはあれで」
「でも拒まれることはないって分かってンだろ」
「分かってるから手が出せねぇんだろ」
「だから、飲ませンだよ」
「だからバカだって言うんだ」
 堂々巡りの言い合いに、男どもは大きな溜め息を付く。
「お節介な俺らが一番バカなんだ。おら、もう一件行くぞ」
「わぁったよ、お前の奢りな」
「バカ、割り勘だ」
 そんな二人のやりとりを知らぬ上官二人は、彼らの思惑通り酔いに困り果て、それでも知らぬ顔で上官と部下の顔で夜の闇を歩いて行く。下弦の月だけがバカな四人を、そっと見つめていた。
Twitter Novel No.919より派生)