Forget me not 前編

「本当に、覚えていないのか?」
「ええ。本当に覚えていないんです」
ロイの問いかけに、リザは少し俯いて彼から視線を逸らすと、困ったような顔で笑った。
淡いオレンジ色の読書灯がリザの上に濃い影を落とし、彼女の表情を曖昧にする。
ロイは錬金術を探求する研究者の顔から、彼女を案じる男の顔へと表情を変え、俯く彼女の顔を覗き込んだ。
リザはついと彼の視線から逃げ出すように、机上のカップへと手を伸ばす。
「ああ、珈琲が冷めてしまいましたね。淹れ直してきます」
そう言って、リザはカップを手にソファから立ち上がろうとする。
だが、ロイは彼女に逃げることを許さず、しっかりとその手を捕まえ、真っ直ぐに彼女を自分の方へと向き直らせた。
「そんな簡単に済ませて良い問題ではないだろう」
「そうはおっしゃいますが、大佐。覚えていないものは、お話のしようがありません」
「だが、私もそれを知ってしまった以上、見ないふりをすることは出来ない」
「ですが」
あくまでも話を切り上げようとするリザを制し、ロイは少しだけ口調を深刻なものに変えて言った。
「まるまる半年分の記憶が欠如しているというのは、尋常ではないことだろう」
リザはますます困った顔をして、彼の強い視線を振り切るようにまた俯いた。
ロイは小さく溜め息をついて、突如明らかになった事実に頭を抱えた。

     §

きっかけは、食後の他愛もない会話であった。
ロイがいつもの読書灯の下で、この日届いた手紙の束を整理していると、その中に懐かしい差出人の名があった。
思わず顔をほころばすロイに気付いたリザは、熱い珈琲を彼の前に置きながら彼に話しかけてきた。
「何か良い知らせでも?」
「良い知らせと言うわけではないが、同窓会の連絡が来たので、懐かしくてね」
士官学校のですか?」
「ああ」
ロイは手紙の封を開けながら、彼女の持ってきた珈琲に口を付けた。
「私が士官学校の寮で最初に同室になったマシュー・アンダーソンが今回の幹事でね。君も覚えているだろう? 幾度も修行中の私に電話を掛けてきたあの男を」
ロイの言葉に、リザは曖昧に微笑んだ。
「君に電話を取り次いで貰う度に、冷やかされて往生したものだ。まったく。いつだったか、奴がとても失礼なことを君に言って」
思い出に遊ぶロイは、ふっと柔らかな視線をリザの方へと向ける。
そんな穏やかな場の空気を破るように、リザは遠慮がちに、だがきっぱりとした口調でロイの話を遮った。
「あの、申し訳ありませんが、大佐」
思いもかけぬリザの横槍に、ロイは過去から現在に思考を引き戻され、目を瞬かせた。
「ああ、すまない。奴のことは、思い出すのも嫌だったか」
「いえ、そうではありません」
リザはそこで言葉を止め、じっとロイを見つめた。
そして意を決したようにふっと息をつくと、思いもかけないことを彼に言ったのだった。
「今まで機会もありませんでしたので申し上げませんでしたが、実はお話しておりませんでしたことが一つあるのです」
「何だね、いったい」
改まった割に歯切れの悪いリザの言葉に、ロイは不審な思いで彼女の次の言葉を待った。
リザは尚も躊躇う様子を見せていたが、やがて思い切ったように彼に告げた。
「実は私、子供の頃の記憶が一部欠落しているようなのです」
「……何だって?」
あまりに予想外のリザの言葉に、ロイは一瞬自分が聞き間違いをしたのかと考え、そしてオウム返しにリザに問い直した。
リザは困ったように、もう一度同じ言葉を繰り返そうとした。
「ですから、子供の頃の」
「いや、そうじゃなくて。子供の頃と言うが、アンダーソンの話は私が君の家を去る直前の話の筈だぞ?」
「はい、大佐が我が家を去られる前後から」
「どのくらいの期間が記憶から抜けている?」
リザは少し考えて、指を折った。
「おそらく、半年か一年ほどだと思います」
「今まで何故私に言わなかったんだ」
「特に子供の頃のことを覚えていなくても生活に支障はありませんし、その頃のことが大佐とのお話に出ることもありませんでしたから」
一人エキサイトするロイに向かい、リザは淡々とまるで他人事のように淡々と答えてみせた。
しかし、その口調とは裏腹に彼女の表情は、微かな苦悩を滲ませていた。
彼女はまだ何か隠し事をしているのだろう。
何でも一人で解決してしまう彼女の困った習性に頭の痛い思いをしながら、ロイは彼女の心を解こうと慎重に尋ねた。
「では、師匠はそれをご存知だったのかね?」
だが、彼のその問いは逆にリザの心を閉ざすものであったらしい。
リザは再び口を噤んでしまった。
そして会話は、冒頭に戻るのであった。

     §

ロイはリザの腕を掴んだまま、しばらく唸っていたが、不意に俯いたままの彼女を己の方へと抱き寄せた。
「すまない」
「大、佐?」
突然のロイの謝罪の言葉に、リザは驚いたように彼の腕の中で身じろぎした。
「大佐に謝って頂くようなことは、何も」
「だが、君がそこまで頑なに話すことを拒むと言うことは、きっと私にも何か関係があるのだろう?」
当て推量のロイの言葉は、どうやら図星だったらしい。
リザはまた口籠もった。
「ならば、尚のこと話してはくれないだろうか?」
リザは答えない。
ロイは静かに彼女に問う。
「何か、原因に心当たりが?」
やはり、リザは口を噤んだままだった。
「リザ?」
ロイは彼女を優しく抱いたまま、その耳元で囁いた。
リザは彼の胸元で気持ちを落ち着けるように、大きな息を繰り返していたが、やがて彼が諦めないことを悟ったらしく、小さな声で呟いた。
「心当たりはあります」
そう言った彼女の次の言葉は、ロイを打ちのめすものであった。

 To be Continued...

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【後書きのような物】
 一〇〇万回転お礼リクエストより『リザ記憶喪失』です。王道じゃないっぽいかな? というネタが湧いたので。
 続きはSCCの原稿が終わったら。もう、今回またオフにのたうち回ってます。頑張りますー、頑張りたいですー、頑張るー。終わんねー。