overdrink

顔を洗おうと寝室の扉を開けたら、目の前に上官が落ちていた。

リザは寝起きの目を擦り、いったん扉を閉め、もう一度開けてみる。
男はやはり、先程と同じ体勢で俯せに廊下に横たわっている。
気持ちよさそうに眠る男の後頭部を眺め、リザは昨夜の男の予定を頭の中のスケジュール帳から引っ張りだしてきた。
確か昨日、男は非番のリザを除くマスタング組の面々を慰労する飲み会に出ていた筈だった。
また、あの二人、やってくれたわね。
とんがり前髪の優男とビール腹の切れ者コンビを脳裏に浮かべ、リザは小さく溜め息をついた。
ザルと枠の底なしコンビが飲み会でロイを潰すのは、間々あることであった。
上官を飲み潰すのは構わないけれど、最後まで面倒を見てくれなくては困る。でないと、リザに後始末のとばっちりが回ってくるのだから。
そう、今、目の前にある光景のように。
ふんふんと倒れ伏した男の黒髪の匂いを嗅いでいる愛犬を脇に押しやり、リザはもう一度溜め息をつくと、男の傍らにしゃがみ込んだ。

ロイがこうして酔っぱらって彼女の部屋に押し掛けてくることは、実はそう頻繁にはないことである。
確かに彼らは、公的な意味合いで必要が生じた時の為にと称して、密かに互いの部屋の合い鍵を持っていた。
それは、あくまでも危急の事態が生じた時、危機的な状況が生じた時にのみ使用されるべきものであり、それをプライベートな意味合いで使う選択は、基本的に彼らの間にはなかった。
通常は上官と部下の線引きをきっちりと崩さない彼らにとって、それは自明の理であった。
実際、リザがロイの部屋の合い鍵を使ったことは一度もなく、ロイがそれを使用したことも今回を含め数えるほどしかない。
そして、その数度の使用ですら、酔っぱらいのつまらない言い訳でなかったことにしてしまえる程の意味合いしか与えられる事のないものであった。
各々の胸の内でその鍵がどんな意味を持つか、それを想像することすら否定し、彼らは如何にも当たり前のことのように微妙に歪んだ感情を胸に仕舞い込んでいる。

だから、彼にこんな事をされるとリザは困ってしまうのだ。
この歪な感情が、心のふたを開けてしまいそうになってしまうから。
ピクリとも動かずくぅくぅと寝息をたてているロイを見下ろし、リザは自分の子犬に倣ってその黒髪を引っ張ってみる。
「いついらしたんですか? 大佐」
勿論、男の返事はない。
リザは黒髪に指を絡め、くるくると静かに指をまわし短い男の髪を弄ぶ。
「迷惑です。大佐」
するりと彼女の指先から堅い毛先が逃げていく。
強情で扱いにくい毛質は、まるで利かん気の強いロイそのもののようだった。
困った男だわ、本当に。
人の気も知らず穏やかに眠る男の暢気な寝顔が無性に腹立たしくなり、リザはついとロイの髪を引っ張った。
起きて何か文句を言われたら、自宅に侵入された文句を言い返せばいいだけだ。
リザは開き直ってフンと鼻を鳴らしたが、ロイは目を覚ますことなくゴロリと寝返りを打つと盛大に廊下を占拠するように大の字になってしまった。
「むぅ……」
「大佐、邪魔です、臭いです、鬱陶しいです」
酒臭い息を吐き出すロイを見下ろし、リザは文句を言う。
だが、彼女の指先は言葉とは裏腹に、優しくロイの前髪を弄んでいる。
白い指先で黒い毛はくるりと跳ねて離れ、また指に絡み、また跳ねて離れ、永久運動のように繰り返される動きは、彼女の心の動きに似ていた
「部下に酔い潰されるなんて、情けないにも程があります」
くるりと指先に巻き付けた黒髪を解き、リザは文句を言う。
「いつも少尉たちに酔い潰されて、近いからって言い訳でうちに来るなんて、卑怯です」
ロイはうんと唸って、目を閉じたまま眉間に皺を寄せた。
「あの鍵が本当はどんな意味を持っていて、私がどんな想いで貴方が来るのを受け入れていると」
「……しかしだな」
思わず洩れたリザの本音を映す言葉を奪うように、不意にロイの唇から意味のある言葉がもれる。

ひょっとして起きている? この人!?
リザはびくりとして男の前髪から手を離した。
思わず漏らしてしまった迂闊な言葉に、臍を噛む思いでリザは目を閉じたままの男の顔を見つめる。
だが、男の口から続いて洩れ出た言葉は、全く彼女の予想しないものであった。
「外気圧と内気圧の差が重要となるのは、蒸気機関と同じなのだ」
「は?」
リザの疑問符のついた間抜けな叫びを無視し、ロイは目を閉じたまま滔々と語り続ける。
「ただシリンダー内の気体を水蒸気から他の気体に変えることが、この場合の第一の刮目点なのである」
「あの、大……佐?」
ロイが何を言っているのか全く分からず呆然とするリザに向かって、理路整然とした彼の語りは続く。
「純粋な水素を封入することにより、そのエネルギー効率は蒸気機関の数倍にもなるであろう。そこに焔の錬金術の基礎となっている気体分解の原理を加えれば、更に手易く熱効率の上昇を狙えるのである。この原理に着目すれば、水分子の分子結合に振動を与えることにより」
「大佐?」
「外部に沸騰と同じ状態を作り出してやれば、この際の機関内部の圧変動から」
「大佐!」
「相当量のエネルギーの動力の発生がのぞまれる。エネルギー換算として考えれば、画期的な手法であることに間違いはない。これを錬金術として成り立たせるに際し、シリンダーの強度的な問題と水素を分子レベルから……」
「大佐、起きておいでですか?」
リザは思い切って、喋り続けるロイのほっぺたを摘んでみた。
男はうるさそうに首を振っただけで、全く目を開ける気配がない。

まさか。
まさか、これって、寝言!?
訳の分からないことをベラベラと機嫌よく喋り続ける男の傍らで、リザは脱力してぺたりと座り込んだ。
酔って人の家に勝手に上がり込んで、無意識のうちに彼女を翻弄しておいて、この男は!
だんだん腹が立ってきて、リザは思い切り冷たい声で言い放つ。
「うるさいです、大佐」
「水素の代わりにヘリウムを使用する場合、元素の周期から鑑みて」
返事の代わりにロイの講義が続く。
何が元素の周期だ! 
そんなものは、二人の関係に何の関係もないではないか!
リザは完全につむじを曲げた。

いつだって彼女は振り回される一方なのだ。
彼女がひとり、いろいろ想いを巡らせているというのに、この男はひとり暢気に夢の中でさえ、錬金術の世界に遊んでいるのだ。
腹が立つにも程がある。

莫迦ですか、貴方」
「燃焼熱の浪費を抑えることは、錬金術の理論において可能であり」
「人の家に勝手に上がって」
「温度が上がった場合の冷却熱は」
「こっちは貴方のせいで知恵熱が出そうです」
「それが出ないように分離して休ませておいた機関を」
「とにかく、廊下でお休みになるのは止めてください」
「止めずに動かし続ける事により」

聞いているこっちまで、頭が煮えてきそうだ。
なんとなく微妙に成り立っているようで、全く成り立たない会話にリザはイライラしながら、揺すろうが何をしようが起きないロイを引きずり、居間のソファに連れていこうと試みる。
このまま廊下を占拠されていては、彼女は顔を洗うことすら出来ない。

「ヘリウムは分子構造が小さい故、漏れやすいという性質があり」
「分かりました。分かりましたから、もう黙ってください」
リザは脱力したロイの両脇に手を入れ、思い切りよく重たい体を引きずった。
ずるりと僅かに前進したロイは目覚めることなく、喋り続ける。
「この問題を解決するために」
「それより、この現状を解決してください」
「シリンダーの構造をより緻密にするには現在の溶接技術の追いつかぬ部分を錬金術で補い」
ロイの両脇を抱え何とか彼をまた引きずって動かしたリザは、彼の耳元でほとほと呆れて呟いた。
「それほど錬金術がお好きでしたら、錬金術と沿い遂げられればいいんです。私はもう知りませんから」
そう言って振り向きながら、リザは背後のドアを開けようと片手をあげた。
その時、背後で男の明確な声が上がった。
「いやだ」
「え?」
「私が沿い遂げるのは錬金術ではなく」
驚いたリザは、思わず彼を抱えたもう一方の手を離してしまう。
ゴツッ。
ロイはみなまで言葉を吐き出すことなく、床に頭をぶつけ轟沈する。
「大佐!?」
リザは慌ててロイの体に手をかける。

どうしよう、彼は頭を打ったようだ。
いや、それ以前にどうしよう。
彼は本当は起きていたのかもしれない。
彼女の独り言は、全て聞かれていたのだろうか。
いや、それより彼の最後の言葉の続きは、ひょっとして。
いや、彼は寝ぼけていただけかもしれない。
寝てる人間に話しかけると答えることがあると言うし。
いや、でも怪我をさせてしまっていたら、そちらの方が心配。
いや、それより彼女の洩れた本音を聞かれたかもしれない方が。
いや、でも頭を打ったことが。
いや、でも。

半ばパニック状態のリザの目の前で、ロイは機嫌よく伸びている。
「大佐、大佐!」
ロイを呼ぶ彼女の声に答え、ロイの唇が動く。
「この問題を解決するために」
「大……佐?」
幸せそうな顔をした無意識のロイの唇は、そこで動きを止めた。
「どの問題を解決してくださるんですか?」
問いかけるリザの言葉に、ロイの答えは続かなかった。
二人の賑やかな掛け合いに満ちていた朝の空気は、瞬時に静けさの中に冷えていく。
「大佐?」
彼女の呼びかけに答える返事は、もうない。
ただ静かな寝息だけが、彼女の聴覚に届く。
彼女の朝は、いつもの静寂を取り戻した。
ただし、不完全な形で。

リザは今度こそ大きな溜め息をついた。
きっと酔いが覚めた時、ロイは例え全て覚えていたとしても何も言わないであろうことは、想像に難くなかった。
今までの二人の関係を保つために。
ひょっとしたら、本当に全てが寝言で彼は何も覚えていないかもしれない。
だが、彼女にはどちらが真実かすら分からないままなのだ。
そして、あの時の彼女に無用な期待をもたらすような彼の言葉の続きも、永遠に分からないままに終わるだろう。
彼女はその期待の分だけ、また胸を締め付けられるというのに。

リザは廊下で眠るロイをおいて立ち上がると、全てを放棄して寝室に戻って鍵をかけた。
幸いなことに、今日も彼女は非番だ。
もう一度ベッドに潜り込み、次に目を覚ましたら、きっと彼の姿は消えているだろう。
いつものパターンから鑑みて、放っておいても昼までにはきっと彼はここを立ち去る。
何もなかったことにして、今までの均衡を保てばいいだけのことなのだ。
ロイの言葉を彼女はなぞる。
「この問題を解決するために」
リザはそう自分に言い聞かせると、頭から布団を被った。

そんな事をしたところで、本当は何も解決しない事など痛いほどに彼女は知っている。
それでも、彼らはそんな道を選んで生きてきてしまった。
生きてきてしまったのだから。

Fin.
 
  *********************

【後書きのような物】
 夏の祭典で萌えを思い切り補給させていただいてきたので、吐き出し。
 ストイックな中で揺らぐロイアイがたまらなく萌え! という話を熱くですね。周囲の温度が二度くらい上がる勢いで、喋らせていただいてきました。
 140字SSSとバトンの妄想を合体させてみました。なんとoverシリーズ分類の更新は一年ぶり。タイトルだけで内容は関係ないんですけどね。(笑)
 ロイが起きてたかどうかは、秘密です。リザと一緒に悶々と悩んで下さい。ふっふっふ。

 お気に召しましたなら。

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