Salamander

獣がいる。

ザラリと堅い色気の欠片もない軍服の生地に頬をなでられながら、リザは頭の中をかき回されるような衝撃と共にそう思った。
斜め下から仰ぎ見る角張った男の喉仏が、それ自体が生き物のように艶めかしく動いた。
目の前の青い軍服に染みた汗が、テリトリーをマーキングする野生動物のように、雄を主張する威嚇にも似た匂いを振りまいている。
獅子のたてがみに顔を埋めたら、こんな匂いがするのかもしれない。
否、火蜥蜴も獣と言えば、獣の一種だ。
好もしい、頼もしい、雄の匂い。

ああ、獣がいる。

うっとりとそう思った瞬間、彼女は男の腕の中に着地していた。
リザは一瞬で現実を取り戻す。
遠く砲弾の炸裂する音が聞こえる。
彼女と共に落下した銃は五メートル先に転がり、彼女は丸腰の自分の無防備さに絶望した。
「馬鹿者! 何をやっている!」
一瞬の隙を見せた彼女に向かい、頭上から容赦のない怒号が降る。
まるで捕食されてしまいそうな恐怖と同時に、過剰な緊張に張りつめた肉体が再び鼻腔を犯す雄の匂いに反応する。

『     』

弾丸の飛び交う野戦場には不似合いな感情が、リザの胸に湧いた。
その感情はあまりに唐突で、リザは場違いな己の内なる声に狼狽え、過剰な反応をする自分の肉体を男から引き剥がした。
まさか、あり得ない!!
上官に対して、しかも初めての対外的な演習の最中に失態を犯した上に、自分はいったい何を考えている!?
リザは赤くなる頬を袖で拭うふりで隠し、彼女を受け止めた男を見上げた。

ロイは全く彼女を見ず、戦況だけを見据えていた。
信頼していたはずの副官が、始めての実戦演習で全くの役立たずに終わった失望すら、その横顔には浮かんでいない。
ギラギラと野獣のように餓えた瞳が、目まぐるしく変わる戦局を判断する為の情報を集めている。
相手は手の内を知り尽くした北方軍だ、一時の油断も許されない状況では当然の指揮官の姿だった。
戦局以外見ていないロイの様子に安堵したリザはペイント弾で汚れた自分の軍服を見下ろし、今度は別の動揺に頭を抱えた。

彼女は狙撃手として判断を誤った。
その結果、撃たれ足場から落下し、上官に受け止められるという失態を演じてしまった。
これが演習だったから救われたものの、もし実戦なら彼女は上官を巻き込んだ上に命を失っている。
北方軍の手練れの狙撃手は、新兵に隙を見せるほど甘くはなかった。
屈辱と羞恥と、そして今し方感じたあり得ない己の感情に動揺するリザの耳に、冷ややかなロイの声が響く。
「君は撃たれた。さっさと戦線離脱したまえ、少尉」
ロイは無線機からのオーダーに耳を傾けながら、素っ気なく言い放った。
彼女を落下から救った男の脳裏に、既に彼女の存在はないに違いない。
活性化するアドレナリンをまき散らし、リザの離脱で多少の作戦の変更を余儀なくされる彼は、忙しく指示を出しながら自身の発火布の手袋を確認している。
大きな声を出しながら振り向いた男は、己の存在を主張する匂いをまき散らす。

『     』

再び先程と同じフレーズが浮かび、リザは慌ててそれを打ち消そうと、軍人である己を確認するように言った。
「申し訳ありません、中佐」
だが、戦いに身を浸した男の耳に、リザの言葉は届いていない。
傍らにハボックを呼びつけた彼は、既に戦場だけを見ている。
毎日見ているデスクワークに倦む彼からは想像も出来ない精悍な表情と、何もかもを焼き尽くしそうな眼差し、そして彼の内に住まう獣の存在に打ちのめされ、リザはどうにもならぬ思いで戦線を離脱した。

     §
 
「あら、酷くやられたわね」
演習後の更衣室で意気消沈するリザに声をかけたのは、同期のレベッカ・カタリナ准尉であった。
同じ狙撃班に所属し年齢も近いことから、入隊以来何かと行動を共にすることが多い彼女は、リザの数少ない気のおけない友人であった。
どうやら無傷で演習を終えたらしい友人の姿を眺め、リザは盛大な溜め息をついた。
「ほんと、情けないわ」
「仕方ないわよ。あなたのとこ、何たって焔の錬金術師がいるんだから。火線集中してたでしょ」
「でも、ずっとその焔の錬金術師の部隊に所属することになるんだから、これを常にしないと」
「そう言えばそうね。じゃ、諦めなさい」
「つれないわね」
リザの恨み言を笑って流し、レベッカは汗の染みたシャツを脱ぎ捨てた。
「ああ、やだやだ。汗臭いわー。周りもむさ苦しい、自分も臭いしサイアク」
リザは自身も着替えた黒のタートルを鞄に仕舞い、微かに眉をひそめる。
自分の汗の臭いでも時間が経てば不快に思うというのに、何故あの時自分はあのような感情を抱いたのだろうか。

『     』

ロイの体臭とあの時の感情を思い出し、リザは思わず赤面した。
そんなリザの様子に気付かず、レベッカはシャワールームに向かって歩きながら話し続ける。
「あ、そうそう。汗って言えば、知ってる? 女って生殖に適した男の遺伝子を汗の臭いで見つけるんだってよ」
「は?」
全くの予想外のレベッカの言葉にリザは面食らい、間抜けな驚きの声を上げる。
レベッカは自分の蘊蓄に驚くリザに軽快な笑い声をたて、自慢げに言った。
「汗の匂いを性的だとか良い匂いって思う男って、自分と遺伝子が遠くって子孫を残すのに相性良い男なんだって。人間の本能って、すごいわね」
リザは言葉を失い、その場に固まった。
レベッカの話は続く。
「だから、案外この職場って良い相手見つけるには最適かもよ。四六時中汗臭いのも、そう考えれば耐えられるかも。お金の匂いもすれば、更に良いんだけど」
如何にもレベッカらしい話の締めにも反応出来ず、リザはぐるぐると視界が回るような錯覚を覚える。
それは先程撃たれて落下した衝撃に似て、リザは自分を受け止めた男を思い出す。
鋭い眼差し、自分とは違う骨格、武張った手、角張った喉仏、そしてあの汗。
男の体臭に抱いた感情が、身の内に甦る。

『     』

まさか! まさか!
あの男と私は、上司と部下だ。
それ以上の何かが存在するわけにはいかないのだ。
そう抵抗するリザの頭の中で、彼女の雌が彼女の理性をせせら笑う。
身体は、本能は、五感は知っているのだと。
彼女が彼を求めている事を。
リザは明るいロッカールームの中で自分でも判別できぬ闇い感情に支配され、小さなうめき声を上げたのだった。

彼女はそれ以降黙々と銃の腕を磨き、二度と上官の腕の中に落下するという失態を繰り返す事はなかった。
しかし、初めての北方軍との演習が彼女に突きつけたものは、決して彼女の中から消えない。
彼女の心の奥深くまで届いてしまった獣の牙が与えた瑕は、瘢痕となり彼女の内に残り続けるのだから。

Fin.
 
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【後書きのような物】
 Twitterに書いた140字(Twitter LogのNo.390)にm様よりいただいたリプ「汗の匂いが嫌いじゃない相手とは相性が良い」からの、派生SS。(ネタ使用許可、ありがとうございます。>m様) 調べたらこれ、遺伝子レベルの話ですごく面白くて!
 無意識のうちに遺伝子が匂いを判断するって、ゾクゾクします。しかもそれで生殖相手見つけるなんて! なんてエロい! というわけで、蘊蓄はロイより第三者に喋ってもらう方がいいかなとレベッカに登場願いました。意外にこういう変な蘊蓄知ってそう、男関連だし。
 『     』に入る言葉は、お好きに想像して下さいませ〜。ふっふっふ。

追記:あ、100万回転リクに戴いた「副官に就任したばかりの頃」に、これ当てはまりますね。リク締め切る前に、書いてしまいましたよ。どうしましょ。(笑)

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