お気に召すまま 4

中庭を横切るマスタングは、己の行く手にぼんやりと見逃しそうな程小さな明かりが灯っていることに気付いた。
マスタングはきっと表情を引き締めると、厳格な執事の仮面を素早く取り戻し、その明かりの方へと歩いていった。
「まったく、おまえはまた!」
「良いじゃないっすか、飼い葉桶ン中で吸ってるわけじゃないんスから」
暢気な口調でマスタングの詰問をのらくらとかわし、馬丁のハボックは美味そうに紫煙を吐き出した。
「仕事は」
「終わってるッス」
煙たそうに眉間に皺を寄せるマスタングに、ハボックはニヤリと笑って胸ポケットから煙草の箱を取り出して、ポンと掌で箱の底を叩き封を切った口から煙草を一本飛び出させた。
「どうッスか? たまには一服」
「私は」
言いさしたマスタングの言葉を、ハボックは軽やかに横から奪った。
「あんな難しい顔してるなら、一服して気晴らしするの方がいいッスよ。どうせ大方仕事終わってんでしょ?」
見られていたのか。
マスタングは己の失態に口元を押さえて更に難しい顔をしたが、ハボックは屈託無く大口を開けて笑う。
「あんたのあんな顔、始めてみましたよ」
マスタングは答えずに苦虫を噛み潰したような表情でしばらくじっと馬丁の顔を見ていたが、やがて溜め息を一つこぼした。
そして執事の証である手袋を外し、ハボックの差し出した煙草に手を伸ばす。
「ガキの頃を思い出して一服」
言い訳のようなお堅い執事の言い種に、ハボックはまた笑った。
「そう来なくっちゃ」
内ポケットに手袋をしまったマスタングが顎をしゃくると、ハボックも心得たもので彼に向かって自分の吸っている煙草の火を差し出した。
二人は煙草の先を合わせ火を移しあうと、闇に二つの蛍火のような赤い点を並べた。
自棄のように苦い煙を味わいながら、馬丁と並んでマスタングは宙を仰いだ。
ハボックはそんな彼を横目に紫煙を吐き出すと、同じように新月の暗い星空を見上げる。
 
「お嬢様ッスか?」
ハボックがぼそりと聞くともなく聞いた。
「うるさい」
マスタングは視線を動かしもせず、一喝する。
しかし、ハボックは全く懲りない様子で問いを重ねる。
「否定しないんスか」
「黙れ」
「あれじゃ、お嬢様が可哀想ッスよ」
「使用人である我々の関与する問題ではない」
「ヒヒ爺ぃの嫁さんなんてねぇ」
「失礼なことを言うな」
「でもお嬢さん、あんたのこと」
「言うな」
「じゃ、あんたはどうなんスか?」
「お前には関係ない」
「つれないなー」
「おまえに言われる筋合いはない」
 
互いに星空に視線をさまよわせながら、男たちは言葉だけを交わす。
まるで噛み合わない会話は、先ほど彼が屋敷の中で回避してきたばかりの女中頭の会話とそっくりだった。
いや、ストレートに口に出す分、ハボックとの会話の方がマスタングには堪えた。
馬丁にまでこんな事を言われるとは、まったく自分の執事としての管理能力にもヤキが回ったのだろうか。
マスタングは大きな溜め息を煙草の煙に紛らせて吐き出すと、まっすぐに馬丁へと向き直った。
「馬丁のお前に、お嬢様の何が分かる」
「いろいろ」
しらっと言ってのけるハボックに怒声を浴びせようとするマスタングを、続けられた言葉が止めた。
「お嬢様はむかーしから男爵に贈られた栗毛のポニーが大好きでらしてね、何かあるとアイツんとこにいらっしゃるんスよ。最近は特にその回数が増えてるんスよね。で、馬丁の俺としては、聞く気はなくても聞こえちまうことがいろいろあるっつーわけで」
ハボックの思いがけない言葉に脱力する思いでマスタングは出かかった言葉を飲み込み、己の口を封じるように煙草をくわえた。
 
彼の手の出せないところで、彼の知らないところで、様々な歯車が動いていた。
降ってわいたような縁談。男爵への恩義。他者から明かされる手の届かない想い人の心。刻々と迫る旅行の出発日。どうにも動かせぬ身分の差。
マスタングはぐちゃぐちゃと混線する自身の私人としての感情と執事としての弁えを整理しようと、馬丁から視線を逸らすと忙しく煙草をふかした。
ハボックは心底同情するようにマスタングを眺めると同時に、今までの人の良い笑顔を引っ込めるとぼそりと言った。
「あんた、こんなところでグズグズしてる場合かよ」
マスタングは答える言葉もなく、宙を眺める。
そんなことを言われたところで、たかが執事に何が出来ると言うのだ。
自分に出来ることは何もないのだ、彼女の未来の幸福のためにここで彼女を見送ること以外は。
一時の気の迷いに彼女が人生を棒に振らないように、執事としての本分を尽くすのが彼女の為なのだ。
マスタングのそんな考えが伝わったのだろう、ハボックは怒ったように言い足した。
「さらっちまえば、いいじゃないスか」
珍しく執拗にマスタングに迫るハボックを、彼は鼻で笑った。
何とも中途半端に事情を知ってしまった馬丁に、マスタングは少しだけ執事の仮面を外してみせる。
 
莫迦か、お前。そんなことをすれば、お嬢様は不幸になるだけだろう」
「何ででッスか」
「例えば主筋のお嬢様をさらって逃げた執事がいたとして、そいつを雇おうと考える奇特な主がいると思うか? 自慢ではないが、私は執事以外の職能はないぞ」
「ああ……」
男同士の会話は簡潔だった。
職がなくては、まず生きていけない。
「明日の食事の心配をしなければならない生活がある、などとお嬢様は想像などされたこともないだろう。地球を半周した場所から紅茶を取り寄せるのが当たり前の世界の住人だぞ?」
ハボックは黙り込む。
マスタングは畳み込むように、言葉を続けた。
「それに、例えばだ。スプーンより重いものなぞ持ったことのないお嬢様に、釣瓶で水汲みが出来ると思うか? 鶏をさばいて料理が出来るとでも?」
ハボックはおし黙った。
リザが自分とは違う世界に生きる人間だと、芯から理解したらしい。
それでも感情をねじ伏せられないハボックは、石頭の上役に向かって吠える。
「あんた、それでいいのかよ」
「構わん」
ハボックに話したことで、自身も感情の整理をつけてしまったマスタングはさらりと答えた。
そう、彼女が幸せになるなら、それでいいのだ。
「あんた、バカだ」
「バカで結構」
もともとはこんな大それた感情を己の中に芽吹かせてしまった時点で、自分は大バカ者なのだ。
ハボックは彼の情に訴えるように、さらに言い募る。
「それで本当にお嬢様が幸せになれると思うのかよ」
マスタングはじっとハボックを見つめ、静かに答えた。
「人生は長い。先の事を考えれば自明だ」
短い、だが重みを持ったその言葉には、彼の諦念と深い想いと言葉にできぬ様々なものが錯綜していた。
毒気を抜かれ黙り込む馬丁を横目に、マスタングは不毛な会話を打ち切るべく、ひょいと片足をあげ短くなった手の中の煙草の火を靴裏に押し当てもみ消した。
きっちりと火が消えたことを確認したマスタングは、それをポケットの中の紙に包んで懐にしまうと、いつもの手袋をはめ厳めしい執事の顔を取り戻す。
「吸い殻を散らかすなよ」
「アイ、アイ」
「今の話、絶対に他言するなよ」
「しませんて。当たり前でしょーが」
力ないハボックの返事を背中に聞きつつ、マスタングは中庭を後にする。
彼はいい加減疲れ果てていた
いつもの通り銀食器を磨いて、己の職務を終え、早くこの面倒な一日を終わらせてしまいたかった。
マスタングは自然と速くなる足取りを抑え、屋敷の見回りを終えるべく玄関へと足を向ける。
 
マスタングが屋敷を出て以降、一部始終をカーテンの陰から見守っていた人物は、彼が屋敷の玄関に向かう姿を見届けると意を決したように窓辺から立ち上がった。
マスタングが玄関の扉を開けた時、同時にその部屋の扉がぱたりと閉まる音がした。
誰もいなくなった部屋の机上には、一通の封を施された手紙が残されていた。
 
 To be Continued...