お気に召すまま 1

3分21秒、22秒、23秒。
パチリと懐中時計の蓋を閉めカウントアップを唇の中で呟きながら、マスタングは銀のワゴンを止めるとドアをノックした。
「どうぞ」
カチャリと扉を開き、マスタングは彼を一瞥する涼やかな声の主に対し一礼をしてみせる。
「お嬢様、そろそろお茶のお時間になさってはいかがでしょうか?」
「もうそんな時間ですか?」
「ファルマン教授、お邪魔ではありませんでしょうか」
時計を見上げる少女に軽く目を伏せる事で肯定を示し、マスタングは彼女の向かいに座る馴染みの年若い教授に尋ねながら、頭の中の時計を刻み続ける。
4分13秒、14秒、15秒。
「いえ、ちょうど私の方も休憩にしようかと思っていたところです。良いタイミングで来て下さいました、執事殿」
当然だ、頃合いを見計らってこっちも来ているのだから。
そう考えながらも、そんな様子はおくびにも出さずマスタングは使用人らしい慇懃な笑みを浮かべてみせると、温めたティーカップをセットしカウントアップを続ける。
39秒、40秒、41秒。
「昨日の船便でオータムナルの今年の最初の一便が届きました」
「マーガレットホープからですか?」
「いえ、プッタボンです」
ここでマスタングは再び懐の銀時計を取り出し、パチリと蓋を開く。
4分57秒、58秒、59秒、時間だ。
マスタングはきっかり5分抽出した美しい深紅色の液体を優雅な手つきで白磁カップへと注ぎ入れた。
ふわりと部屋中に馥郁とした穏やかなダージリンの香りが立ちこめ、彼の仕えるこの家の令嬢リザ・ホークアイがうっとりと幸福に満ちた表情で手元の本を閉じるのを、マスタングは充足を持って横目に捉えた。
カップの縁にははっきりとゴールデン・リングが浮かび、彼は紅茶の最後の一滴を彼女のカップに注ぎきると勉強の手を止めた二人の前にボーン・チャイナのティーカップをサーブした。
「マーガレットホープからは、船の欠航がなければおそらく来週辺りには今年のオータムナルが届くかと思われます。また、キャッスルトンからも既に出荷の連絡が入っております」
「楽しみだわ。秋のダージリンセカンドフラッシュの華やかさはないけれど、この時期ならではの落ち着いた味わい深さがありますから」
「仰るとおりで」
マスタングとリザの会話についていけないファルマンは、曖昧な笑みで紅茶に口を付ける。
「美味いですね」
「お口にあったようで光栄です、教授」
マスタングは再び慇懃な笑みを浮かべ教授に一礼すると、リザの方へと向き直った。
「香りを楽しまれるお邪魔になっては無粋かと思いまして、ミルクはご用意しておりませんが、ご入り用でしたらジャージー種、ガンジー種、ホルスタイン種のミルクのいずれかをお持ちいたします。如何でしょうか?」
「結構です、ありがとう」
小さく頷いたリザは目を細め、熱い紅茶に口を付ける。
口の中で香りを転がすように堪能し、染み渡る香味を楽しむリザの後れ毛を、午後の穏やかな陽射しが金色に輝かせる。
マスタングは彼女を喜ばせるに足りた己の仕事に満足し、二杯目の紅茶を淹れる準備を始めた。
 
ここ、グラマン男爵邸に彼、ロイ・マスタングが執事として仕え始め、早六年がすぎた。
やんちゃの過ぎるじゃじゃ馬娘だったこの家の令嬢、リザ・ホークアイも、花と見紛う十八歳の乙女となっていた。
慣れないポニーに乗って落馬し、マスタングを森中駆け回らせた頃の生意気な少女の面影は、今はもうどこにもない。
そこにいるのは、完璧な教育を施された一人のレディだった。
歳に似合わぬ感情を表に出さない冷静な態度は彼女の冷たい美貌を際だたせ、素っ気ないほど口数の少ない様も彼女の神秘性を高めている。
グラマン男爵は美しく成長した孫娘に満足し、あちこちの催しに連れ回してはその存在を印象づけ、彼女は様々な招待状を受ける社交界の花ともなっていた。
グラマン家の爵位に見合った優雅な立ち居振る舞いも礼儀作法も申し分ない。
だが、そんな彼女にも幾つかの難点はあった。
まず、マスタングがいくら言っても未だフェンシングの授業を止めようとはしないこと。
ダンスやピアノのレッスンを切り上げてでも、彼女が細い剣をふるわない日はないほどだ。
そしてもう一つ、帝王学を始め、男のするような学問にも手を出していること。
これに関しては、独学の域に収まらずファルマン教授やマスタングを質問責めにすることもしばしばだ。
社交界において、賢しい女は面倒だと思われるだけだと言うのに、まったく困ったものだとマスタングは思う。
しかし、それがこのお嬢様の気晴らしになるのなら仕方ないと、この頃は彼も諦めの境地に入り、彼女の剣のお相手や図書室での勉強の相手を引き受けている。
実は彼自身、この優秀な生徒との貴重な時間を楽しんでいたが、それは彼だけの秘密であった。
彼は常に令嬢の我が儘に付き合う気難しい執事としての立場を崩さず、どんな時もお小言を忘れず彼女に煙たがられるお目付け役であり続けるのだった。
 
短い休憩が終わり、マスタングティーセットを片づけているとふとファルマンが思い出したようにリザに話しかけた。
「ジャージー種と言えば、来月はあちらの離島にお出かけになられるとか。秋の小旅行というのも洒落たものですな」
リザは彼の言葉に珍しく困ったように表情を崩し、無理に微笑むと「祖父がどうしてもと言うものですから」と言葉を濁した。
明らかに不愉快そうな表情を浮かべるリザに、ファルマンはそれ以上は何も言わず口を噤み、マスタングは微かに己の心を揺らす動揺を感じた。
だが、彼は彼女の様子に気づかないふりで、さっと全てをワゴンの上に積み込むと部屋に入ってきた時と同じように軽く一礼すると、勉強部屋を後にする。
胸の内に湧き上がってくるモヤモヤとした感情は、執事としての彼には不必要なものであったから、優秀な使用人である彼はそれを全く無視していつもの業務に戻っていく。
ただ執事の証である白手袋に包まれた手は持ち主の内面を表すように、いつもより強くワゴンの押し手を掴んでいた。
いつもの優雅さに欠ける彼の所作は、誰に見られることもなく静かな廊下の絨毯に染み込んでいった。
 
グラマン家に降って湧いたリザを巻き込んだ旅行の計画は、マスタングの直接の主であるグラマン男爵の急な発案により慌ただしく決められたものだった。
表向きは、忙しい男爵がこの夏に休暇を取れなかった分、一族とともに優雅に秋休みを楽しむため離島への旅を計画したことになっている。
だが計算高い海千山千の男爵が気紛れや思いつきで、そのような季節はずれのバカンスを言い出したのではない事くらい、マスタングにも分かっていた。
雨のように降る縁談を切っては捨てている年頃の孫娘の為、せっかちな男爵があるお膳立てをこの旅行の中に組み込んでいる事をマスタングは知っていた。
この避暑地である離島には、王族の末端に属する一族が別荘を所有していて、その一族の少し歳のいった妻に先立たれた男が“偶然”この島で彼らと行き会う事になっているのだ。
“偶然”出会った男はグラマン一家と共に休暇を過ごし、休暇が終わる頃には美しい孫娘に求婚をする段取りが既に出来上がっていた。
王族に縁故が出来ればグラマン家は安泰であるし、位の高い男に孫娘を嫁がせれば男爵も彼女の行く末に安心もできる。
男の方は一回り以上も若く美しい新妻を娶ることが出来るのだから、何の否やがあるだろうか。
こうして、秘密裏に偶然を装った見合いの準備は着々と進められていた。
 
だが、いつの世も人は皆ゴシップが大好きな生き物だ。
どこから洩れたのか、いつの間にか使用人たちの間で囁き交わされ出した噂話は、執事であるマスタングが口止めをする間もなく、あっと言う間に屋敷中に広まってしまう。
当然それはリザの耳にも入ってしまうわけで、この旅行の話が出る度に彼女は憂鬱な顔を隠そうとしなくなっていた。
マスタングマスタングで彼女のそんな表情をみる度、微かに騒ぐ己の胸を鎮めるのに心を砕いていた。
彼は自分を律することに慣れてはいたが、それでも殺せぬある想いがあることに彼自身気づいていた。
それは決して執事である彼が抱いてはならぬ想いであり、まだ小さな芽である今の内に摘まねばならないものであった。
だから彼は、先刻見た彼女の悲痛さを押し隠した困惑の表情を忘れるため、今日も日課である銀の食器を磨く行為に専念する。
 
執事にとって銀食器を始めとする食器の管理と、ワインセラーの管理は最も重要な仕事である。
夜も更け皆が寝静まった頃、彼は自室の隣にある食器庫で全ての食器のチェックを終えた後、丹念に銀食器を磨いていく。
それは彼の職務に対するプライドと主からの信頼を確認する大切な仕事であったが、現在の彼にとってそれは使用人である己の分際を確かめる行為であり、己の“私人”としての心を殺す行為ともなっていた。
昼間は男爵の秘書のような仕事までこなす彼は、忙しさに全てを忘れることが出来る。
だが、静かな夜は彼に考える時間を与えてしまう。
寝付けぬ夜の儀礼のように、彼は己の仕事にとりかかる。
執事の証の白手袋をきっちりとはめ、指紋をつけぬよう磨き粉とクロスで一心にナイフやフォークを磨く行為は彼を無心の世界に連れて行く。
だが、蝋燭の灯火の下、揺れる焔を映す鏡のように磨き込まれた銀食器を彼は眺めた彼の脳裏を不意にある考えが掠めた。
自分が磨いた銀食器を、彼女は後何度使うのだろう?
予期せぬ己の思考に、思わず彼の唇から零れた溜め息が灯火を揺らす。
銀食器に映る焔が波紋に崩れた水面のように揺れた。
まるで、彼の胸の内を映すかのように。
 
 To be Continued...
 
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【後書きの様なもの】
  大変大変お待たせいたしました。
 かめ様からのリクエスト「じゃじゃ馬慣らしの続編」ひなた様からのリクエスト「じゃじゃ馬ならしの設定で甘酸っぱい話」FuFu様からのリクエスト「パラレルで身分違いの恋。リザ高、ロイ低で」の合体です。これで50万回転リクエストも最後です! 長い道程でした、最後までお付き合い下さいませ〜。