time over

手の中の鍵は、ガチリと存外に大きな音を立てて回った。
微かな引っかかりを感じたのは、おそらく鍵穴の方に少し錆が出ているせいだろう。
リザは前回いつこの鍵を使ったか思い出そうとし、無駄な努力に苦笑すると、鞄の中に大切に鍵を仕舞った。
細く扉を開き家の中に入ると、そこはまるで時を止めたかのように全く何も変わらぬ空間が広がっていた。
陽に焼けて少し退色したカーテンや、うっすらと棚の上に降り積もった埃が過ぎた年月を主張していたが、それらを差し引いたとしても、懐かしの我が家は彼女の記憶と寸分違わぬ姿でそこに佇んでいた。
 
リザは真っ直ぐに廊下を歩いていくと、もう一つ小さな鍵を取り出しゆっくりと書斎の鍵を開ける。
子供の頃は入室すら許されなかった父の書斎は、十数年経った今日でも彼女を拒むように暗くカーテンで閉ざされていた。
書斎に置かれた本の保護の為だとは分かっていても、昼なお暗い部屋は無口だった父親の威圧感を思い出させ、彼女は無意識のうちに足音を殺した。
忍び足でそっと父のデスクの背後に回り、幼い頃は塔のようにそびえ立っていた本棚の前で、彼女は小さなメモを取り出した。
メモの上で踊る几帳面な金釘文字が、彼女に宝の在処を教える。
「デスク背面、右から二列目の最下段。中央よりやや右より、赤い表紙の小冊子。タイトルは『礼賛の儀式における賛美歌の効用と役割』」
リザは彼の文字を読み上げながら、メモの指示に従って本を探す。
彼はこの屋敷に残された父の膨大な蔵書を、その位置までも全て覚えているのだろうか。
リザは半ば感心し、半ば呆れながら、薄い本ばかりが詰まった本棚の該当部分に指を伸ばす。
ぎっしりと詰め込まれた本の間から、慎重に薄い冊子を取り出せば、深紅の表紙にメモ通りのタイトルが父の字で書かれていた。
どうやら、彼の記憶は確からしい。
どうせなら、現在のことにもその素晴らしい記憶力を発揮してくれればいいのだけれど。
リザはそう考えながら、メモの二つ目の項目に視線を落とした。
 
彼女が己の上官、ロイ・マスタングの命で己の実家にやってきたのには、二つの理由があった。
一つは彼が必要とする彼女の父の蔵書と研究録を書庫から持って来る為、もう一つは消化しきれない有給休暇の使用の為であった。
有給休暇に関して人事局から指導が入るのは毎年のことだったが、なかなか理想通りに休むことなど出来ないのが仕事と言うものだ。
いつも先延ばしになるその問題を、ロイは私用にかこつけて彼女が休み易いお膳立てを整えてくれた。
彼女が実家の鍵を彼に貸しても構わないのだが、几帳面な彼はプライベートでの彼女との接触を極端に断っていた。
曖昧な関係を抱えたまま、二人は上司と部下であり続ける。
だから、父の研究資料に関することは、全てリザの手を経由しないと解決しないのだ。
故郷に何が残っているわけでもないが、それでも休暇は休暇だ。
リザはロイの気遣いに感謝しつつ、小さな鞄一つをお供に予定外の小旅行に出たのだった。
 
「書庫南面壁側、右列下から二段目。左端に横積みされた中央辺り、黒の表紙。タイトルは『古代神学の祭礼の形と伝承』」
淡々とメモを読み上げながら、リザは頼まれたものを探し出していく。
彼の記憶力は驚くほどに確かで、リザは乱雑に様々な物が置かれた書庫の中で、迷うことなく目的のものを見つけだすことが出来た。
全ての本は古代神学の研究書の体をとっていたが、流石のリザもそれが錬金術を暗号化したものであることくらいは分かってる。
自分の背の秘伝が鎮魂の歌の形を借りていることも、ロイから聞いていた。
だが、実際に自分の父が本当に神学の研究をしていたとしても、彼女は驚かなかっただろう。
それ程までに父が生きていた頃のホークアイ家は、清貧という言葉がよく似合う生活をしていた。
 
難解なタイトルの並ぶ中、最後の一行に目を留めたリザは、思わず口元をほころばせた。
「書庫北面窓側、左列上最上段。左端小冊子。空色の表紙に絵付き。『こどもさんびか』、添付物多数、注意」
絵付き、ということは、あの父が何らかの絵を描いたというのだろうか?
絵を描く父親の姿が全く想像出来ず、リザは口元を笑みの形にしたまま、書架に立てかけられた梯子を上る。
梯子のてっぺんで見つけ出した目当ての本は、残念ながら彼女の父親が書いた本ではなく、市販のどこにでも売っている子供向けの歌の本であった。
今まで探し出した本や、研究録のファイルとは異質な優しいタイトルの本は、どうやら暗号の解読に必要なものであるらしい。
薄い本の間には、沢山の書き込みのされたメモが乱雑に挟み込まれていた。
どうやら多数の添付物とは、これらのペーパーのことらしい。
リザは用心深く薄い本を小脇に抱えて、そろりそろりと梯子を下りていく。
 
その時、ひらり、と一枚の紙片が本の間から滑り落ちた。
ひらひらと舞い落ちた古びた紙は梯子の足元に着地し、そのままふわりと床面を滑っていく。
梯子の中段から見守るリザの目の前で、紙片は本棚の手前で止まった。
ああ、どこかに飛んでいってしまわなくて助かった。
そう思いながらリザは落ちた紙片を拾い上げる。
何気なく紙片に目をやれば、そこには手元のメモと同じ几帳面な仮名釘文字が余白を埋め尽くす勢いで整然と構築式と理論式を綴っていた。
ロイのこういう几帳面なところは、今も昔も変わらない。
なんとなく可笑しく思い、リザは落ちた紙片を挟もうと手元の本を開いた。
その瞬間。
 
『リザ』
几帳面な仮名釘文字が思いがけず、自分の名を綴っている紙片が彼女の目の前に現れた。
彼女は仰天して、危うく本を取り落としそうになる。
何故?
リザは本に挟まれた紙片にそっと手を伸ばした。
他の紙片には全てみっしりと何らかの文章や構築式が数式が書かれているというのに、端の黄変したその古い紙にはただ彼女の名だけが記されていた。
彼女の父の蔵書をロイが手にすることが出来たのは、彼女が背の秘伝を見せた後、彼が軍に入隊するためにこの家を去る時までの筈だから、この紙片は彼女が士官学校に入る前に書かれたものに間違いなかった。
『リザ』
『リザ』
『リザ』
繰り返し彼女の名を呼ぶように、彼の文字で綴られた彼女の名。
おそらく一度は破棄しようとしたのだろう、くしゃりと紙を丸めた跡の残る紙。
リザは書かれた文字の上をそっと指でなぞり、胸の奥から沸き上がる熱い塊を必死になって押さえ込んだ。
それが何を意味しているのか、そんなことを考えたら明日から自分は彼の前に副官の顔をして立つことなど出来なくなる。
リザは古びた紙片を大切につまみ上げ、丁寧に折りたたむとそっと自分の鞄の中にしまった。
胸が高鳴ったまま動悸が止まらず、リザは乱暴に残りの紙を本に挟み込むとバタンと本を閉じる。
 
この本を彼女に持ってこさせようとしている時点で、彼はきっとこの紙片の存在を忘れているに違いない。
無理矢理自分にそう言い聞かせ、リザは探し出した全ての資料を一纏めにすると父の書斎を飛び出した。
父の死、背中の秘伝、彼との束の間の逢瀬。
彼女の中に仕舞い込まれた想い出とそれと共に封印していた想いをこじ開けたのは、たった三行の彼の綴った彼女の名。
そんな事で揺れる自分が悔しくて、リザは書斎の鍵をかけることも忘れ、鞄ごと愛しい男の綴った文字を抱き締めると扉の前でぺたりと座り込んだのだった。
 
Fin.
 
お気に召しましたなら。

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