嘘吐きな黒猫

怒ったように無言で梨紗の前を歩く少年の背中は、それでも歩幅の小さな彼女の足音を気遣う余裕を持っていた。
いつの間にか、彼もそのくらいには大人になったということか。
梨紗は少々感慨深い想いで、振り返りもせず緩やかな坂道を上がっていく彼の後を追う。
週に一度の梨紗の授業が終わった後、増田が駅まで彼女を送っていくのはこの二年間、一度も欠かさず行われた習慣だった。
くだらない話や、授業の延長のような問題を話しながら、彼らはこの坂を上った。
いつもは並んで歩いていたから気付かなかったが、こうして後ろから彼の背中を見ると、この二年の間にすっかり肩幅も広い一人前の男の背中になっていた。
そんな風に見えるのは、自分の贔屓目のせいだろうか。
そう考えた梨紗は苦笑して、小さな白い息を吐き出した。
その弾みに冷たい空気が梨紗の肺を突き刺し、彼女の呼吸のリズムが崩れる。
それを察したらしい彼はぴたりと立ち止まり、黒いコートのポケットに手を入れたまま、ゆっくりと彼女の方を振り向いた。
何か言いたげな唇が少し動き、白い吐息が漏れる。
いつもより口数が少なく、少し様子がおかしい気もするが、家庭教師との別れに身構えているのだろう。
じっと彼女を見つめる黒い瞳は今日は彼女から逸らされることはなく、その事実に梨紗は今日が最後の日であることを改めて思い知らされるのだった。
 
祖父の知人が家庭教師を探しているという話が梨紗の元に持ち込まれ、彼女が目の前の少年・増田英雄と出会ったのは二年前の春のことだった。
ちょうど高校の二年生に上がったばかりの増田は理系の特進クラスに進んだ生意気な少年で、当時、大学に入ったばかりの梨紗がタジタジとするような質問を授業の合間に投げかけてきた。
今思えば、それは彼なりの梨紗に対する試験だったのだろう。
梨紗が彼の理系分野に関する問いに綺麗な解を与えてみせると、一転して彼は警戒心を解いた気紛れな猫のように彼女になついた。
この二年の間に数学や科学の問題についてだけではなく、彼は淡い初恋についての相談を彼女に持ちかける程、梨紗に心を許した。
そのおかげで梨紗は随分と悩まされもしたものだったが、今となっては、それも懐かしい思い出だ。
 
そんな回想に心を遊ばせていた梨紗は、じっと自分を見つめる少年の姿に、あぁと納得する。
そうなのだ。
今、目の前に黒いコートに黒のタートルネックジーンズをはいた彼の姿に何かを連想すると思っていたが、それは黒い猫の姿だったのだ。
そのことに思い至り、梨紗はクスリと笑った。
この猫のような少年に、自分はどれほど振り回されたことだろう。
そんな梨紗の想いを知ってか知らずか、増田はぶすりと子供っぽい仏頂面を作った。
「何笑ってるの、先生」
「何も。ちょっと思い出したことがあるだけ」
梨紗の答えに納得していない顔で、増田は一歩梨紗の方へと歩み寄る。
坂道の傾斜の分だけ、増田の背が高く見える。
少年を見上げるように梨紗は彼の視線を捕らえ、小さな笑みを浮かべてみせた。
「たった二年だったけれど、色々あったなと思って」
増田は梨紗の言葉にマフラーに顔の下半分を埋めたまま、肩をすくめてみせた。
「二年もあったら、そりゃ色々無けりゃ困る」
「そうかしら」
梨紗は曖昧に微笑んだまま、己の感情を持て余す。
増田は梨紗の返事を聞いていないかのように、もう一歩彼女に近付くと自分が巻いていたマフラーをフワリと彼女の首に巻き付けた。
「先生、寒がりのくせに」
そう言った増田は一転して大人びた顔で笑うと、また彼女の先に立って歩き出す。
この子、天然の女たらしなんじゃないかしら?
梨紗は彼の体温の残るマフラーに心をかき乱されながら、それでも黙って彼の後に続く。
出会った当初から、こういった気障でありながら自然な気遣いの出来る子ではあったのだが、最近は自分でもその行為が女性に与える効果を分かりきって行っているとしか思えない事がある。
大人びた気遣いと子供っぽい無邪気さの間で揺れ動くアンビバレンツさは、猫の気紛れさを加味されて、更に彼を魅力的に見せた。
彼女自身も気付かぬうちに、その魅力にいつの間にか嵌っていた。
だが、所詮、彼女はただの家庭教師だ。
彼の青春に割り込むには、年が違いすぎる。
梨紗は微かに染まった頬を隠すように俯き、駅へと向かう道を急いだ。
 
     *
 
いつから、自分は彼に生徒に対する以上の感情を持つようになったのだろう。
梨紗は自問する。
 
彼女が最初にそれを自覚したのは、一年目の冬。
彼に初めて恋愛の相談を持ち掛けられた時のことだった。
三月のある日、一を聞けば十を知る聡明な生徒である増田が、ひどく躊躇いながら彼女に質問を投げかけてきた。
本命の彼女に渡すホワイトディのお返しには何がいいだろうか、と耳まで赤くなって聞く増田の姿に、梨紗は自分の心が騒ぐのを他人事のように不思議な想いで感じた。
よくよく話を聞けば、彼はバレンタイン・デイには両手では数え切れない数のチョコレートを貰っていたらしいが、本命からはどう考えても義理としか思えない市販のチョコレートしか貰えなかったらしい。
気を遣ってコンビニでチョコレートを買って来てやったことが無意味だったことを癪に思いながら、梨紗は彼に女の子なら大抵知っているパティシエの店を教えてやったのだった。
相談の礼に教えた店のマカロンを貰った梨紗は、以後、幾度も彼から恋愛相談を持ちかけられることになった。
その度に、小さな棘が自分の心をチクチクと突き刺す事実に、梨紗はいやでも自分がこの少年に惹かれてしまっていることを思い知らされた。
幾度も報告される少年の恋は焦れったいほどに遅々として進まず、手も握らずに共に駅まで一緒に帰るような純情さを保ったまま夏を迎える。
梨紗はそんな経過を聞きながら、自分の身の内に巻き起こる嫉妬の炎を宥め、毅然と家庭教師として年上の威厳を保つよう努めた。
 
そんなある日、彼女にとって忘れられない事件が起こった。
事の起こりは、増田の何気ない一言だった。
「先生。キスしたこと、ある?」
今日と同じような家庭教師の授業の終わった後の帰り道、この坂道で増田は暗闇に表情を隠して梨紗にそう尋ねた。
夏の夜の粘つく暑さが梨紗の思考を麻痺させ、答えに詰まる彼女に増田は重ねて問うた。
「先生。キスの仕方、知ってる?」
「……知っているわ」
辛くも虚勢を張った梨紗は、彼との間に大人と子供の線引きをするために、さも何でもないことのように言葉を続けた。
「増田君は?」
街灯の微かな光の陰で増田は、するりと梨紗との間合いを詰める。
「ない。先生、教えてくれる?」
にこりと笑った笑顔は、闇に細く輝く。
今日も授業の合間に、増田から彼女ののろけ話を聞かされたばかりだった。
相変わらず手も握れぬ彼女との間が、それほどに進展したのだとは思えなかった。
からかわれている。
梨紗はそう感じると、尚更後に引けなくなった。
「知りたいの?」
「予習は大事だって、先生、いつも言ってる」
「家庭教師って、こんなことまで教えなければならないのかしら?」
「さぁ? どうだろう」
狡猾な獲物を狙う猫の視線が一瞬のぞき、増田は無邪気な顔で笑ってみせる。
自分から近付いておきながらスルリと逃げ出す猫の尻尾を、梨紗はうっかり掴んでしまう。
「どうしても、知りたいのなら」
増田は街灯の暗がりに立ったまま、すっと梨紗の手を引いた。
あっと思う間もなかった。
「どうしても、知りたい」
そう言った少年の顔は、梨紗の目の前に迫っていた。
いつの間にか自分を見下ろすほどに背の伸びた少年の唇が、梨紗に次の言葉を紡ぐ暇も与えずその唇をふさいだ。
唇をあわせるだけの繊細に彼女を気遣う優しい口付けが数秒続き、やがて大胆にも彼女の口唇を割り開き彼の薄い舌が彼女の中に進入する。
柔らかな舌は驚く彼女の舌先をぺろりと舐めると、貪るように彼女の内奥を求めてきた。
拒もうとする彼女の抵抗は、少年の片手の中で封じられ、梨紗は改めて彼が既に成熟した男の領域に片足を踏み入れている事実を思い知らされる。
動きを封じられ、驚くほど熱心に求められ、梨紗は自分の理性が蕩けていくのを呆然と受け入れた。
初めてとは思えないほどに、増田の口付けは強引でありながら優しく巧みであった。
膝が砕けそうになり、梨紗は無意識に背後の電柱に身を預け、自分の上を吹き荒れる口付けの嵐に耐えた。
少年に対する愛しさが溢れそうになり、それでも年上の自分がそれを表現する引け目にそれを抑え、梨紗は少年の口付けをただただ受け止め続けた。
永遠に思える刹那の後、増田はやはり暗闇に表情を隠したまま梨紗から離れた。
梨紗は息が上がっているのを隠して、何とか普段通りの声音を保つと増田に言った。
「練習にしては、やり過ぎよ」
梨紗の言葉に増田は少し口をぱくぱくさせると、下を向いてしまった。
「ごめん」
そう聞こえたのは梨紗の聞き間違いだっただろうか。
しばらく黙って地面を見つめていた少年は、やがて無言で駅に向かって歩き出した。
呆然と立ち尽くしていた梨紗は、我に返るとよろよろとその背を追いかけた。
無言のまま彼らは駅にたどり着き、その夜のことはその後彼らの間で話題にされることはなかった。
 
いつしか彼らの間には受験に向けた話題以外は持ち出されることはなくなり、梨紗は少年の恋の行方を気にしながらも、それを聞かなくても良い日々に安堵した。
そして、あの夏の日を無かったことに出来ない自分の気持ちに蓋をして、彼女は家庭教師の顔で彼の前に立ち続ける。
秋が過ぎ、冬が来て、危なげなく増田は全ての試験を終え、そして梨紗の家庭教師としての仕事は終わりを迎えた。
今日、この日を最後にして、彼らの繋がりは切れてしまうのだ。
 
     *
 
梨紗は自分が想い出を反芻している間に、増田が立ち止まっていることに気付いた。
「どうしたの?」
いつかの日と同じように、増田は街灯の陰に隠れて立ち尽くしていた。
過去の想い出に胸がざわめき、梨紗はちょっと表情を歪めるとそれでも大人の顔でもう一度彼に聞く。
「どうしたの? 増田君。何か」
「先生」
増田はつんのめるような勢いで彼女の言葉を途中でひったくった。
「何?」
「俺、先生に言っておかないといけないことがあるんだ」
驚く梨紗に口を挟む隙を与えず、増田はまくし立てるように言った。
「練習なんかじゃなかったんだ」
「え?」
自分の追想を読まれたのかと赤面する梨紗に向かい、増田は耳まで赤くしながら告白した。
「俺は、あの時、先生とキスしたかったんだ」
そこで初めて梨紗は、自分たちがあの時のキスの現場に立っていることに気付く。
はっとする彼女に、増田は全く余裕のない幼い表情で言葉を続けた。
「先生、めちゃくちゃ鈍いから、俺、どうして良いか分からなくなって。ずっと、好きだったって惚気てた彼女って、先生の事なのに全然分かってなかったし」
「え!? なに、それ!」
「授業終わった後、手も握れずに駅まで一緒に行くだけ、って先生しかいないじゃんか! バレンタインだって、義理みたいなコンビニチョコしかくれなかったの、先生だけだ!」
「ちょ、ちょっと待って! 増田君。この期に及んで、何を」
「今だから、言うんだよ! 今しか言う時ないじゃないか!」
梨紗は泡を食いながら、実は非常に高度なテクニックを使って増田が自分に好意を伝えていたことに今更ながら気付かされる。
「言わなきゃ分かんない人だとは薄々感じてはいたけど、あんなキスしても全然反応してくれないから、俺もう絶望しちゃって。でも、先生の為にも受験は頑張らないとって思ったから、全部終わったら玉砕しても良いからちゃんと言おうと思ってたんだ」
「でも、増田君。私、貴方より幾つ年上だし」
「二つか三つくらい、関係ない! 俺、先生が好きなんだ!」
増田の言葉に梨紗は仰天して、返す言葉もなく口をぱくぱくさせた。
「すっごいクールな顔して鈍くさいとことか、めちゃくちゃ才女のくせに変なとこ抜けてるとことか、年上のくせに危なっかしくて見てられないとことか」
「……全然、褒められてる気がしないわ」
「……ごめん」
ようやく落ち着いた梨紗の冷静なツッコミに、増田はしゅんとしてしまう。
そんな彼の様子に梨紗は思わず苦笑して、彼が巻いてくれたマフラーに手をやると言った。
「ごめんなさい。鈍くって」
「だから、ごめんって」
「でも、私、教え子に受かって貰うのが一番のお仕事だから」
「知ってる、先生は凄く教えるの上手かった」
「だから、それ以外のことは」
「“ごめんなさい”って?」
諦めたようにため息をつく増田に、梨紗は少しだけ余裕を持って相対する。
いつも振り回されてばかりいたと思っていたけれど、実は、それは増田の方でも同じだったらしい。
ならば。
「そうね。貴方に『春』が来たら、考えても良いわ」
梨紗の言葉に増田はぱっと顔を上げ、驚くほどあどけない笑顔を彼女に向けた。
「先生、本当に?」
梨紗はそっと頷く。
増田は躍り上がりそうな勢いで、街灯のピンスポットの中に躍り出た。
「俺、絶対受かる。だって、先生があれだけきっちり教えてくれたんだ。落ちるわけないじゃないか」
「どうかしら」
「先生は教えるの上手いから」
そう言った増田は、いつか見たことのある獲物を狙う猫の目をしてこう続けた。
「勉強だけなじゃくて、キスも凄く上手かった」
そうして、梨紗を赤面させておいて彼は無邪気に笑う。
「先生、また教えてくれる?」
そう言った黒猫は、するりと彼女の抵抗をすり抜け、その懐に飛び込んだのだった。
 
Fin.
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【後書きの様なもの】
  大変大変お待たせいたしました。
 ゆずり様からのリクエスト「パラレルで家庭教師リザと教え子タング。」です。いやもう、パラレルは相変わらず七転八倒です。しかも年齢逆転、冷や汗かきながら書いている内に愛着がわくのは何時ものことなんですけれど。
 リクエストいただき、どうも有り難うございました。少しでも気に入っていただけましたなら、嬉しく思います。

お気に召しましたなら

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