追う者、追われる者

ぽかぽかと気持ちの良い陽射しが、主のいない席を温めている。
リザはしばらく黙って空っぽの上官のデスクを眺めていたが、無表情のまま胸に抱えた書類の束をトンと置いた。
しんと静まり返った部屋に、慌ててガサガサと書類をいじる音が立ち始め、背後でマスタング組の面々がビリビリと神経を尖らせている空気が伝わってくる。
リザは彼らの期待に答えるべく、大きな溜め息をついてみせた。
わざとらしい彼女のパフォーマンスに、背後では猛烈な勢いでペーパーワークが進んでいくことだろう。
リザはロイの机の上の申し訳程度に手のつけられた書類の山と彼のデスクの備品を眺め、それから窓の外に視線をやって、何気ない仕草でホルスターの上から愛銃を撫でた。
背後で部下たちのペンを動かす音が倍速になるのを聞きながら、リザはトレイの上に出しっ放しになっているロイのコレクションである四本の万年筆に視線を戻し、もう一つ溜め息をついたのだった。
 
特にスケジュールの入っていないこの時間帯、執務室でデスクワークをこなしている筈の上官の逃亡は日常茶飯事。
その度に繰り返される追いかけっこは、追う者と追われる者の総力戦だ。
互いに手の内を知り尽くした彼らは、如何に相手の裏をかくかに知力の限りをつくす。
ある意味これは彼らの別の意味での戦場だった。
時計を見れば、現在時刻一五一八。
ホルスターのフラップをパチリと開けたリザは、戦々恐々と彼女の様子を窺うマスタング組の面々に背を向け、何も言わずにパタリとドアを開け部屋を出たのだった。
 
リザはまず手始めに中庭へと歩を進め、楡の樹の下に向かう。
涼しげな木陰を作る楡の樹の根元は、ロイの格好の昼寝場所だった。
草いきれに包まれたロイは、若き日の父のお弟子さんであったロイ・マスタングを思い起こさせる。
ホークアイ家の庭にあったアーモンドの木陰で、二人並んで語った日すら懐かしい。
今では軍服が汚れるのも構わず地面に直接寝転がる上官の無頓着さに、リザはいつも頭を抱える。
変わったもの、変わらぬもの、どちらもが木陰に寝転がる男の形でリザの記憶の中にある。
誰もいない楡の樹の傍でしばし立ち止まったリザは、くるりと踵を返しA棟へと向かう。
 
階段を三階まで一息に上がり、資料庫に辿り着く。
壁の時計を見上げれば、現在時刻一五三〇。
幾人かの軍人が行き交う資料室を抜け書庫の中を覗いても、薄暗い部屋の中に人影は見えない。
そっと足音を殺して入り込む書庫は、微かな黴の臭いと、独特の湿った冷ややかな空気に満たされている。
父の書庫もこんな空気に満たされていた、勿論、幼いリザには立ち入り禁止の場所だったけれど。
自由に父の書庫に出入りするお弟子さんが羨ましくて、ずっとその背に追い付きたいと思っていた。
追うもの、追われるもの、立場が変わったのはいつのことだったのだろう。
リザは誰もいない書庫を出て、資料室を後にする。
 
上に向かった足をもう一歩伸ばし、屋上に出たリザを迎えたのは強い風だった。
イーストシティを見下ろす景色に、リザは目を細める。
この屋上からの景色に彼はいつも何を思っているのだろう。
似たような屋根の立ち並ぶ街並、一つの屋根の下に一つの暮らし、幾つもの人生。
守りたいもの、守れるもの、己の無力さを噛み締める日もある。
リザは誰もいない屋上と屋内を繋ぐ扉をそっと閉じる。
 
階段をわざとゆっくりと下り、総務課の前を通りかかる。
窓口を覗き込めば、現在時刻一五五八。
時刻を確認したリザは、再び執務室の方向へと歩き出した。
部下たちの騒ぐ執務室を通り越し、リザの足が向かったのは二つ向こうの書類を一時的に片付けておく倉庫だった。
コツコツ。
「開いている」
ノックの音に答える声に、リザは扉を開けた。
乱雑に書類が積み上げられた棚の向こう、窓際に置いた小さな木の椅子に腰掛けた彼女の上官は手元の本を置くと、ぐっと伸びをして「もう、そんな時間か」と懐の銀時計を取り出した。
逆光の彼の姿が眩しくて、リザは目を細めながら言う。
「いい加減、莫迦な遊びはお止め下さい」
「でも、君はこうして付き合ってくれている」
そう穏やかに微笑まれては、リザに反論する言葉はない。
 

ロイのデスクの万年筆を使った二人だけの暗号は、彼の小さな我が侭だ。
本来なら彼は研究に打ち込み、生涯を錬金術の研究に捧げてもおかしくない学者の一面を持っている。
そんな彼が軍務から逃げ出し、純粋に自分だけの誰にも邪魔されない時間を持つ為に、リザと決めた秘密の合図。
それは、机上に出した万年筆の本数の時限まで、彼はこの倉庫で一人の時間を過ごすというものだった。
今日は四本だから、十二時間表記の四時までを、自由にさせて欲しいという彼の意思表示なのだ。
この合図がある時だけはリザも彼のサボりに目を瞑り、彼を捜す振りでその自由時間を確保してやるのだ。
居場所を決めておけば、火急の際はすぐに呼び出せるので問題もない。
 
「一時間なんて、あっという間だな。万年筆をもう一本余分に出しておくのだった」
ロイが残念そうにそう言えば、リザはにっこりと微笑みフラップを外したままのホルスターに手をやってみせる。
「その時は容赦なく、即刻連れ戻させていただきますので」
「ああ、恐いね、震え上がりそうだ」
「ご冗談を」
部下たちすら欺く彼らの暗号は、追うものと追われる者の間で交わされた不戦協定。
子供の頃のように無邪気でバカバカしい、それでも大切な秘密に二人は共犯者の目で笑いあい、そして十六時を知らせる街の鐘を共に聞く。
 
Fin.
 
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