サボタージュ

哀しむ暇がないほど、忙しいのは良いことだ。
ロイはそう思い、今朝方送られてきた紋切り型の脅迫状に関する報告書にざっと目を通すと、即座に解決済みの判断を下し傍らの決済箱に放り込む。
続いて現れた書類はひとまとめに提出された部下の休暇申請書で、彼はジャン・ハボック少尉の書類にサインをしながら、中央への異動の際に連れていく部下の選定を再度頭の中でチェックし直した。
セントラル。
その地名が頭に浮かぶと条件反射のように胸の奥が騒ぐ。
ロイは自分の弱さに苦笑し、再び仕事に没頭するべくペンにインクを付け直すと一気にサインを書き終えた。
ウンと伸びをした彼の視線は夜の執務室の中をさまよい、無意識の内に電話機の上で止まる。
毎日のように掛かってきていたロイ宛の私用電話は、今日は一本も掛かってこない。

親友の軍葬に参列した後、ロイはほぼとんぼ返りの状態で己の職場に戻ってきた。
確かに仕事は山積していたし、死んだ友人が残してくれた情報によるとそろそろ中央招へいの時期も近いらしい。
ここで凡ミスをやらかして揚げ足を取られるような事があり、せっかくのチャンスをふいにしては奴に合わせる顔がない。
まるで何事もなかったかのように、ロイは通常通りのシフトに溶け込んだ。
腫れ物に触るような扱いをされるのは嫌だったし、いつも通りの生活をしている方が何も考えずにいられた。
最初はロイの様子を伺っていた周囲もロイの様子がいつもと変わらないと分かると、たちまちの内に余計な気遣いを表さなくなっていった。
一人の軍人の死。
それは恒常的に国境周辺で戦争を繰り広げ続けているこの国の軍部内においては、日常茶飯事に受け入れねばならない出来事なのだ。
一つの死は、あっという間に忘却の彼方に送り込まれる。
あとに残るのは殉職者名簿と遺族年金の支給記録、そして目印としての墓石だけだ。
誰の死も特別な意味を持たない、故人に深く関わっていた人間を除いては。

しかしこうして改めて考えて見ると、あの男はロイの毎日に驚くほどその影を落としていた。
友人の少ないロイを気遣ってか、はたまた天然だったのか、軍の定時連絡さながらに決まりきった時間に掛かってくる親友の親バカ自慢の電話は、振り返れば雁字搦めの軍部の中で、ロイが個としての己を解放できる唯一の場であった。
サボリ魔だが出来る策士の皮を被っている筈のロイが、彼のしつこい娘自慢にぶちきれて受話器を投げたり、余計なおせっかいに頭を抱えたりする姿は、夕方の司令室で見られるお決まりの光景だった。
そんなやり取りの中で発散した感情が、溜め込んだ一日の澱を流していた事に、ロイは今更ながらに気付くのだ。
「まったく、おせっかいなことだ」
誰に言うともなくそう呟いたところで、答える声などあるはずもなかった。
ロイは再び書類の山に視線を戻し、黙々とペンを動かし続けた。

コツコツ。
小一時間ほど真面目に書類と格闘していたロイの耳に、執務室のドアをノックする音が響いた。
「入りたまえ」
どうせ、こんな時間まで彼と一緒に残業している人間など、彼女しかいない。
ロイは書類から目も上げずに、無防備に返答する。
カチャリ。
ドアの開く音がして、それと同時に穏やかな珈琲の香りが鼻腔を刺激する。
「今日は珍しくおサボりにならなかったのですね」
日頃の行いがものを言う、というのはこういうときに使う言葉なのだろうな。
手加減のないリザのきつい一言にロイは苦笑した。
親友の葬儀の日からずっと、リザは一貫して常と変わらぬ態度でロイに接し続けている。
葬儀の後のロイの涙すら見ない振りをする彼女の気遣いは、ロイを日常に繋ぎ止める強力な碇のようなものだった。
彼はそれに感謝しつつ、徹頭徹尾、野心家の上官の顔を崩さず、いつも通りのサボタージュと副官に追い詰められてのデスクワークの日々を繰り返す。
「誰かさんに缶詰にされているからな」
「ここまで溜め込まずに、昼間から真面目に取り組んでくだされば、私もこのような時間までお付き合いする必要もないのですけれどね」
強烈なカウンターを食らったロイはお手上げのポーズをとってみせると、机の上に積んだ処理済みの書類の束を差し出した。
「すまないとは思っているのだがね」
「そんなこと思っているなら、仕事してください」
そう言いながら、リザはロイのデスクの上に珈琲を置くと、渡された書類の内容をチェックしていく。
ロイは彼女のチェックを待ちながら、再び無意識の内に電話を眺めていた。
鳴らない電話は、無機質なただのオブジェとして哀しみの欠片のようにさえ見えてくる。

「少しくらい、おサボりになっても構わないのですよ?」
ぼんやりしていたロイの耳に、不意に彼女の控えめな声が飛び込んできた。
ハッとしたロイは、自分が電話を見つめている姿を彼女に見られたことを知る。
そういえば、いつもあの男からの電話を取り次いでいたのは、彼女だったのだ。
リザは書類に視線を落としたまま、まるでここにいない誰かに話しかけるように小さく言った。
「誰もいない時くらい、『国軍大佐、ロイ・マスタング』の顔をおサボりになられても構わないのですよ?」
ロイはグッと言葉につまったが、瞬時に体勢を立て直す。
「私がサボることで、また君の『手間』を増やすわけにはいかんからな」
「そうですか」
「ああ」
「出すぎたことを申しました」
「いや」
二人は視線も交わさずに、会話を終える。
「では、確かにこちらの書類の処理は行っておきますので」
そう言って、リザは何事もなかったかのように執務室を出て行った。
ロイは少し温くなった珈琲に口をつけ、呟いた。
「まったく、おせっかいなことだ」
先ほどまでの一人の哀しみを忘れた彼の独り言は過去と今とを行き来して、未決済の書類の上でぷつりと消えた。

Fin.

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