SSS集 9

  血の河



 我々の前には果てしなき、この人殺しの道が広がっている。愛する者を失うことを恐れ、愛する者を残して死ぬことを恐れ、生きる道が。
 これからは、ずっとこれが続くのだ。血の河はますます深くなり、足をとるその重みはますます増し、たとえ戦いの日々が終わっても、その重さは消えない。
(荷物の整理中に出てきたメモの殴り書き)
  大人の顔

「おめでとう、これで君も晴れて軍の狗だ」
 少年に銀時計を渡しながら、皮肉でも何でもなく、私はそう言った。
 これでそう遠くない未来、彼には『人間兵器』と呼ばれ恐れられ、蔑まれる日が約束されたのだ。いつかの私と同じように。
 こんな子供に酷だと思う気持ちが無い訳ではないが、後悔はしていない。それを補って余りあるものを彼は手にするだろうし、彼の目的にそれはなくてはならないものだろう。
 ただ、その特権の向こうにあるものをきちんと見せていない自分に、少し嫌気がさすだけだ。あんな酷いものは、純粋に明日に向かってだけ走っていられる年代の彼らには、まだ見せなくていい。否、見せたくはない。
 それは己の血にまみれた過去を見せたくはないが為の言い訳に過ぎないことを、自分自身が一番よく分かってはいるのだ。
 そう、分かってはいるのだが。
荷物の整理中に出てきたメモの殴り書き)
  ズルい人

「リザ、いい加減に出ておいで。師匠がお呼びだ」
「イヤです!」
「外出から帰ってきて直ぐ、部屋に閉じこもって。一体何があったって言うんだ」
「……だって」
「どうしたの? 言ってごらん」
「……変なんですもの」
「何が?」
「床屋さんが……髪を切り過ぎちゃって」
「何だ、そんなことか」
「そんな事って何ですか! もう、恥ずかしくて、明日学校行けないくらいなのに!」
「大丈夫だよ、リザ」
「見てもいないのに、マスタングさんの嘘つき!」
「だって、リザだったらどんな髪型でもきっと似合うさ」
「……マスタングさんって、ほんと、ズルいです」
(荷物の整理中に出てきたメモの殴り書き。若ロイは無意識に女たらしだと良いと思う)
  引っ越し

 案の定、リザが部屋に入ったことにも気付かず、雪崩を起こしそうな書籍と書類の山に埋もれて、男はうずくまっていた。本のページを繰る指が動いていなければ、彫像かと見紛うばかりの集中力だ。デスクワークでこの集中力を発揮してくれればいいのに。そう思いながら、リザは言う。
「大佐、セントラルへの引っ越しは明後日なのですが」
「ああ、分かっている」
 全然分かっていない口先だけの返事に、苛立ちを感じながら、リザは手近な本の山の頂上に置かれた書類を手に取った。
「業者にお任せになられますか?」
「否、君の父上の門外不出の資料もあるんだ。他人に任せられるか」
「では、私がお手伝い致しましょうか?」
「君、錬金術が分からないだろう? 分類できまい」
「では、大佐が荷造りに取りかかられませんと、お話にならない気が致しますが」
「まぁ、待て。昔の研究メモが出てきたんだ。今なら解ける気がする、もう少しなんだ」
「大佐の“もう少し”を最初にお聞きしてから、既に三時間は優に経過していると思われますが」
「今度こそ、もう少しだ」
 端から見れば、過去のデートの予定を見返してニヤケている男にしか見えないロイに溜め息をつき、リザはガチャリと派手に銃の撃鉄を起こした。
「では、第四の選択肢で参りましょうか。この山がなくなれば、大佐のお引っ越しもはかどりますよね?」
 不穏な空気にロイは一気に青ざめた。
「君、何をする!」
「仏の顔も三度までという諺がございます。大佐、ご存じですか?」
 にっこりと微笑むリザの冷たい視線に弾かれるように、ロイは立ち上がった。
「分かった、私が悪かった!」
 どこまでも手の掛かる上官にもう一度溜め息をつき、リザは組み立てた段ボールと軍手をロイに押しつけたのだった。
(引っ越し王道ネタ。絶対ロイはこんなんだと思う)
  Don't forget...

 あまり物を持たないよう生きてきたと自分では思っていたが、セントラル異動の為に引っ越しの荷造りをしてみれば、リザの私物を詰めた段ボールの数は、優に二〇を越え、それでも収まらぬ細々とした雑貨が棚のあちこちに残っている。リザは予想以上に時間のかかる作業に苦笑し、細々としたアクセサリーの梱包を始めた。ピアスを一組ずつ丁寧に小箱に詰めていくうち、不意にリザの手が止まる。
 綺麗な小箱に混じって、古びたブリキ缶が棚の奥に置かれている。彼女はそれを手に取った。中に入っているのは、ライフルの空薬莢だった。イシュヴァール戦最後の日、彼女の足下に散らばっていた“人殺し”の証。
 あの日、戦争の終わりを告げる声と共に、紅蓮の錬金術師の声が聞こえた気がした。
『忘れるな』
 空耳は繰り返す。
『忘れるな、彼らは忘れない』
 リザは己の銃を片づけ、そして最後にケースの中に彼女が撃った弾が排出した空になった薬莢をひとつ、拾って詰めたのだった。
 カラカラとされこうべのような乾いた音を立てて、リザの手の中で空薬莢が鳴る。彼が負う火蜥蜴の代わりにもならないと、リザは乾いた笑いで美しい小箱の横に無骨なそれをそっと置いた。
(引っ越しネタ。IA的には、このくらいの苦さがちょうど良いかと)