月とライダー 前編

Coution!:先生×先生パラレルです。「分水嶺」(出来れば「Ange voice」も)を読んでいただいていないと、内容が分かり難いと思います。
 *******
 
くだらない。
 
向かいに座る男の薄っぺらな笑いを視界の端に捉えながら、梨紗はくるりとパスタをフォークに巻き付けた。
彼女を食事に誘った数学教師・増田英雄は、さっきから世界的なベストセラーになった著名な日本人作家の新刊について、ぺらぺらと喋り続けている。
当たり障りのない会話、気のない相槌、表面的な愛想笑い。
予約の取れないレストランの美味しいはずの料理すら、味気ない空気に負けている。
梨紗が場の空気に辟易しているのと同様に、増田もこの場の空気が白けていることを感じているだろう。
口元に浮かべた軽薄な微笑と裏腹に、さっきから男の目は全く笑っていない。
梨紗は黙って、カラスミのパスタを口に運ぶ。
好意的な微笑も、社交辞令の相槌も、提供できる新聞に載っているような話題も底をつき、梨紗の手持ちの弾倉はもう空っぽだ。
プライベートでの初めての接触に隙を見せるわけにはいかないと、アルコールを断ったのも良くなかったらしい。
目の前に座る男の涙ぐましい努力のお陰で、彼らは辛うじて『初めてのデートに緊張するぎこちないカップル』らしき形態を保っているに過ぎない。
 
彼はなぜ私を誘ったのだろうか?
そして、私は何故、その誘いにオーケイを出してしまったのだろうか?
梨紗は自問しながら、よく動く増田の口元をぼんやりと眺める。
薄い唇はオリーブオイルの力を借りずとも滑らかに、軟体動物のようによく動いている。
確か海にいる生物で、あんな色の生き物がいた気がする。
生物教師らしい妙な感想を胸に、梨紗は曖昧に微笑んで口許をナプキンで拭った。
  
やっぱり第一印象が、正しかったのだろうか。
梨紗は、増田との出会いを胸に反芻する。
梨紗が今現在、生物教師として勤めている高校に同期入職した増田は、見るからに軽薄な男だった。
そこそこの美貌とプロポーションを持った梨紗は、男の視線にさらされることに慣れていた。
しかし、増田のそれはあまりにも露骨であった。
初対面の時、ヘラヘラと笑いながらの挨拶と共に落とされた品定めをするような男の視線に、梨紗は眉を顰めたものだった。
第一印象が悪かったせいか、それ以降の男の印象は悪くなりこそすれ、良くなる事は一向になかった。
甘めのマスク、優しい声、脱線しがちな授業と分かりやすい指導で生徒には人気があったが、バレンタインなどに女子生徒に囲まれて鼻の下をのばしている姿は見るに耐えなかった。
生徒指導のことで意見がぶつかった時は、一歩も引かず議論を交わし、頭の固い男だと思った。
 
しかし、あの日のあの一件以降、梨紗はこの男から目が離せなくなったのだ。
そう、あの放課後の、ほんの一瞬の出来事のおかげで。
気付けば、目が、耳が、増田を捜していた。
放課後、生物室の窓から見える部活の風景の中で、増田は生徒と見分けがつかないほど自然な屈託のない笑顔と、それでも教師としての境界を生徒に忘れさせない威厳をもって立っていた。
部活動で鍛えられた筋肉標本のような広い背中、骨格標本にしたら綺麗だろうなと思う長い指、そして、何よりあの、声。
実は悪くないのかもしれない。
その姿を見てそう思っていたというのに。
 
今目の前にいる増田に視線をやり、梨紗は暗澹たる思いになる。
あの日、梨紗の鼓膜と心を震わせた男の温かだったバリトンの声は、固く内容のない言葉を紡ぎ続け、あの日以降、梨紗が気付けば目で追っていた生徒に向けられる柔らかな笑顔は意図的な表情筋の動きに取って代わられている。
口下手な梨紗が言えた義理ではないが、どこかの雑誌で仕入れてきたような詰まらない話題ばかりはウンザリだ。
さっさと食事を終えて、さようならをして、後は元の同僚に戻ればいい。
一瞬の幻に、子供のように夢を見た自分が莫迦だったのだ。
運ばれてきたメインディッシュを片付ける為ようやくお喋りを止めた増田を眺めながら、梨紗はのろのろと過ぎていく時間を呪いつつ、目の前の白身魚を解体し始めた。
 
     *
 
くだらない。
 
向かいに座る女の仏頂面を真正面に見つめながら、増田はギチギチと皿の上に乗せられた子羊の肉を切り裂いた。
彼が食事に誘った生物教師・鷹目梨紗は、さっきから一生懸命会話が途切れぬように努力を重ねる彼を冷たい視線で見続けている。
気のない返事、接ぎ穂も与えられぬ会話、冷たい表情。
せっかく無理をして予約したバカ高いレストランのコースも台無しだ。
増田が無理やりにこの席に座り続けているのと同じように、鷹目も一刻も早くこの場を立ち去りたいと感じているのだろう。
愛想笑いすら放棄した女に匙を投げ、増田は無駄なお喋りを封じ、子羊の肉片を口の中に放り込む。
社交的な笑いも、女が喜ぶ話題も、取って置きのバーも今日は封印、増田は己の手札を総仕舞いにすることにした。
アルコールを断られたのも、こうなってはとっととバイクで帰れるから好都合だったと言えるだろう。
何の障害もなくスムーズに取り付けたデートの約束は、いつしか『デートの体裁にすらならぬ空しい独り相撲』の様相を呈している。
情けない思いで、増田は胸のうちで溜め息をついた。
 
彼女はなぜ自分の誘いに乗ったのだろう?
そもそも、何故、自分は彼女を誘おうと思ったのだろうか?
自問しながら、増田は柔らかな肉を咀嚼する。
背筋を伸ばして皿の上の魚を食べる女の姿は、まるでナイフとフォークで解剖を行っているようにすら見える。
色気のないことこの上ない。
増田は味わってすらもらえぬ可哀想な羊と魚に同情しながら、カチャリとカトラリーを皿の上に置いた。
 
やはり、あの日の彼女の姿は幻だったのだろうか。
増田はある放課後の鷹目の姿を胸の内に反芻する。
一瞬の恥じらい、頬を染めた無防備な姿、思いもかけぬ反応。
苦手だと思っていた女が、実は可愛い女なのかもしれないと思わせたあの日の出来事。
“梨紗”
舌の上で転がした女の名は、想像以上の甘露を彼にもたらしたというのに。
両生類と爬虫類の水槽に囲まれた、ガラスのお城の姫君はやはり変温動物のように冷たい血の持ち主だったらしい。
 
思い立ったが吉日、と増田が職員会議の後に思い切って申し出たデートの誘いを、鷹目は呆気ないほど簡単に了承した。
犬猿の仲と周囲にも思われるほど接点などない彼らであったが、あの出来事以降、増田自身も彼女の視線を感じることが多々あったから、呆気ないとは思いこそすれ意外とは思わなかった。
それまで、彼女が他の女たちと同じ様に彼を軽い男だと思い、近寄らぬようにしているだろうことは想像に難くなかった。
自分が軟派な男だと見られやすいという自覚は増田にもあったし、それを訂正する気は彼には毛頭なかった。
その方が重たい女は近寄ってこなかったし、逆に安全牌と見られて不要なアプローチを避けることも出来たからだ。
自分の夢想を当て嵌めて、それに合致せぬと怒る女という存在は、増田にとって不可解で面倒なものだった。
数式のようにきっぱりと理路整然とした答えがあっても、感情でものを捻じ曲げる思考回路が理解できなかった。
だから、同じ理系の教科を教える鷹目なら、そんな齟齬が生じることもないと思っていたというのに。
女を喜ばせようという彼の努力は空回り、女のバリケードはますます高くなるばかりだ。
 
目の前に座る美しいけれど無味乾燥な鷹目の姿に、増田は何度目か知れぬ溜め息を胸の中でこぼす。
あの日、彼に向けられた淡い恥じらいは何処かに消え去り、あの日以降、増田の視線を受け止めては淡い薔薇色に染まっていた頬は硬く引き攣ったままだ。
大抵の女なら喜ぶ最新の話題にも上の空、なおざりな相槌には腹が立つほどだ。
さっさと食事を終えて、さようならをして、後は元の犬猿の仲に戻ればいい。
一瞬の幻に、子供のように夢を見た自分が莫迦だったのだ。
下げられたメインディッシュの皿に変わって運ばれてきたデザートに手をつける鷹目を眺めながら、増田はようやく終わろうとする苦行に半ば安堵しつつ、苦い苦い珈琲に口をつけたのだった。
 
     *
 
そして長い長い食事は終わり、彼らの待ちわびた別れの時がやってくる。
「じゃ、気をつけて」
「失礼します」
素っ気無い別れの言葉を交わし、食事を終えた二人はまだ夜が始まったばかりの街を正反対の方向へと歩きだした。
別れを惜しむこともなく、嬉々として互いに背を向けて。
梨紗が歩み去る方向を見て増田はふと表情を変えたが、先程までの不愉快な時間を思い出したらしく、結局彼は眉間に皺を寄せて何も言わずに歩き出した。
『もう二度とプライベートで関わる事はないだろう』
互いが互いにそう思いながら。
 
しかし、彼らの予測はその夜のうちに外れることになる。
思いもかけぬ闖入者の存在によって。
 
To be continued...
 
 ***********
【後書きのようなもの】
 大変お待たせいたしました。
 naruse様からのリクエストで「先生同士のパラレル」、及びよしの様からのリクエストで「「分水嶺」の増田先生が鷹目先生を口説く話」です。が、続きます。ごめんなさい〜。