SSS集 6

  彼の知らない彼



「ん?」
 本棚から落下してきた錬金術の専門書を頭で受け止めたロイは、怪我がないか確認しようとあわせ鏡で己の後頭部を見て不審そうな声を上げた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、こんな所に前からホクロがあったかと思ってね」
 リザの問いに答えたロイは、自分の耳の後ろを指さしてみせる。耳朶のすぐ後ろに隠れるように存在する彼の小さなホクロを見て、リザはクスリと笑った。
「ええ。私が大佐の副官になった頃には既にございましたが」
「そうなのか? 自分の事なのに全く知らなかった」
 不思議そうに言うロイに、リザは再び笑った。
「いくら大佐でも、自分の後頭部はご覧になれませんでしょから」
 リザの答えにロイは笑った。
「確かに君の言うとおりだ。しかし、面白いものだな。自分の事だというのに、私が知らずに君が知っていることがあるとは」
 ロイの言葉にリザは微笑む。そう、彼は知らない。彼がリザだけに向ける笑顔、彼がリザだけに見せる無防備な寝顔、そんなものがあることを。それは、リザだけの秘密なのだ。彼女だけが知っている、彼の知らない彼の顔。
 
(あちらに、ちょっとだけ大人風味なSSSあります)
  恐い顔

「泣けばいい」
 酷く恐ろしい顔をして、彼は言った。世間一般では、それを『ひどく優しい笑顔』というのだろう。私は、自分で自分を抱くようにぎゅっと両の腕に力を込めた。そうでもしなければ、私はこの場に崩れ落ちそうだった。
「何をそんなに意地を張っている?」
 止めて 止めて 止めて
 無表情を保つ私が、その裏でどれほど揺らいでいるか、貴方は知らない。
「君は女なんだ、泣いても誰も何も言わない」
 止めて 止めて 止めて
 私をただの女扱いするのは止めて。
 彼は眩しい程の笑顔で、私の肩に触れた。彼にとってはなんて事のない副官とのスキンシップは、私を殺す苦い毒だ。ああ、いっそ殺してくれれば良いのに。貴方の前で泣くくらいなら、死んだ方がマシだ。
 
(何だ、このネガティブ加減は)
  Brown

 淡いセピアにモスグリーンのチェックの柄の入ったスカートに、焦げ茶色のタートルネックを着たリザは、マスタングに熱い紅茶を手渡して窓の外の落葉に目を留めた。
「秋ですね」
 マスタングは師匠の課題を解く手を止め、同様に窓の外に視線をやり、頷いて熱いカップを口元に運ぶ。
「ああ、熱いお茶が美味しい季節になった」
 そう言って笑うマスタングに、リザははにかんだ笑顔でスカートの裾を摘んでみせる。ロイはそれを見て、ああと感心したように言葉を続けた。
「そうか、衣替えしたのか」
「はい」
 キラキラと目を輝かせるリザに、マスタングは極上の笑顔で言い放った。
「うん、良いね。茶色い」
「え?」
「いや、だから茶色い」
 可愛いとか、秋らしいとか、そういった類の言葉を期待したリザは、物事を見たままの事象としか捕らえぬ錬金術バカに溜め息をつく。そして、カボチャを練り込んだパウンドケーキを机の上に置くと何も言わずに、父の弟子に背中を向けた。
マスタングさんの莫迦
 少し頬を膨らませ、そっと呟かれたリザの言葉はマスタングの耳には届かず、彼は美味そうに茶色いお菓子にかぶりついた。
 
(天然若ロイ……と言うより、ただの莫迦
  足元を崩すもの

 ザリリと砂を踏めば、たちまち小さな砂埃があがる。乾燥しすぐに様々なものを風化させるこの土地では、何もかもが一瞬で消え去っていくかのようだ。
 カチリ。足元で異質な音がする。足を上げればそこには小さなスプーンが落ちている。
 パリリ。もう一歩進めば、足の裏に今度は割れた皿が触れる。
 ギリリと歯噛みして、砂を蹴り上げればイシュヴァールの砂は侵略者に向かって襲いかかる。露出した砂はすぐに流れ、そこに埋まっていた血に塗れた小さな人形がロイの目の前に曝け出される。
 彼が足の下に踏むもの、それは穏やかな生活の欠片たち。壊れて戻らぬ欠片たち。
 耐えきれず、ロイは最大の火力で灰も残らぬ程に人形を燃やし尽くす。こんなものに心を乱される自分が弱いのか、こんなものすら軍に従うために燃やし尽くさねばならない自分が弱いのか。ロイは自問し、出るはずのない答えにジリジリと自分を焼く太陽を見上げた。
 
(イシュロイ)
  冬の訪れ

「今、帰った」
 野菜を刻むリザの背後で、扉を開く音がした。ロイはガサガサと何やら物音を立てながら、彼女の傍に歩み寄る。
「リザ」
「何でしょう?」
 包丁を置いたリザは濡れた手のまま、彼の方を振り向いた。彼女が手を離せない事を見越したロイは、その細い顎を掴み、薄く開いた唇の隙間に何かを滑り込ませる。
「?」
「寒くなったからな」
 そう言って笑う男は、背後から彼女をそっと抱いた。おとがいにかけられた指が優しく彼女に上を向かせ、柔らかな唇が落ちる。
 
 カリリと歯に固いチョコレート。唇に触れた氷のように冷たい彼の指先。体温の高い男の包容の心地好さ。
 ああ、もうそんな季節なのか。リザは男の唇の熱が自分の口中のチョコレートを溶かしていくのを感じながら、冬の訪れを体全体で感じとった。
 
(冬季限定チョコ、出始めましたね)