Ashgray 3

ロイはすっと立ち上がると、真っ直ぐに女を見た。
いっそ清々しいほどの諦念を浮かべた榛色の瞳が彼を見返し、女は小さく歩を踏み出した。
黙って微笑む女に、ロイは問う。
「否定されないのですか?」
訝しげな表情のロイの隣りで立ち止まり、女は自分の父親の殺人現場にひっそりと視線を落とした。
「むしろ、待っておりました。誰かが私を断罪してくれる日を」
そう言って晴れやかな顔で視線を上げて、女は再びロイを見つめる。
そして、その眼差しの温度を変えること無く言葉を続ける。
「もっと早くにお出でになるかと思っておりました」
笑顔のままの女の、どこか哀調を帯びた声の響きに胸の痛みを感じながら、ロイは答える。
「確証を得るのに三年掛かってしまいました」
錬金術師であるロイは、ある意味科学者でもある。
理論が実証されるまでは、容易に結論を下すことはできなかった。
「本当に三年も待たせるなんて、酷い方。待ちくたびれて死んでしまう所でしたわ」
物騒な軽口を叩く女に、ロイは呟くように尋ねた。
「どうして……あんなに仲の良いご家族だったのに」
その言葉はこの三年、ロイの胸の内に渦巻き続けた問いだった。
 
疑念は最初からあったのだ。
この事件が娘による父親殺しなのではないか、という疑念は。
あまりにも邸内を熟知し、遺留品もほとんどない人間の犯行。
疑わしいと思われた弟子達には、アリバイがある。
となると、一番の被疑者は娘なのだ。
官憲達も勿論それを踏まえて捜査はしたが、犯行の残忍さと日頃の親子関係があまりにもかけ離れている上に、何よりも動機がない。
殺された錬金術師と交流のあったロイは娘への疑惑を晴らすべく、この事件を独自に調査した。
そして、結局はそれが真実であるという結論に行き着いてしまったのだった。
確証を得た今でも、ロイはそれを信じられない、いや、信じたくないという思いを打ち消すことが出来なかった。
幾度となくその家を訪れ、温かさと愛情に溢れた家族関係を見ていたのだから。
 
ロイの追想を破るように、ポツリと女が言った。
「怖かったのです、父が」
イシュヴァールでリザから聞かされたのと全く同じ言葉。
女の顔から笑みが消えた。
能面の様な無表情は、憎しみや哀しみ、恐れと言った負の感情隠し、リザと同じヘイゼルの瞳が絶望の色に染め上げられている。
ロイは慄然とする。
最も見たくないイメージを、女の上に重ね、ロイは慌てて女の言葉を否定する。
「しかし、お父上は貴女を愛しておられた」
そう、娘を頼むと。何もしてやれなかったと。
いや、違う、これは……
記憶と情報が混線する。
「ええ、分かっております。私は……私はその父の愛情が怖かったのです」
驚いた顔のロイを見やり、女は再び表情を和らげ話を続けた。
マスタングさん、私の父が何故錬金術の研究を始めたか、ご存知ですか?」
「いえ」
女は遠い目をして、語り始めた。
「私は二歳の時、原因不明のある難病を発症しました。どんな名医に見せても、十歳まで生きられるかどうかと匙を投げられた、と父は申しておりました。当時、医師だった父はその病の研究に没頭し治療法を探すうち、いつしか錬金術の研究へと足を踏み入れていったのです。医師として病の研究をする傍ら、治療法の確立まで私の命を長らえさせるために延命の錬金術の研究を始めたのでした」
彼女の父である国家錬金術師が、元は医師だったという話は、ロイも本人から聞いたことがあった。
医師から錬金術師になる者は少なくないので、ロイも聞き流していたのだが、そんな理由があったのか。
しかし、ロイが今まで見てきた限りでは、女が病弱であったという印象はなかった。
かの錬金術師は、おそらく優れた医者でもあったのであろう。
ロイの想像を補うかのように、否、三年間己の胸の中に封印し続けた真実を吐き出したくてたまらないとでも言うように女は言葉を紡ぎ続ける。
国家錬金術師となり潤沢な資金を得て研究を進めた父は、遂に私の病が母方の家系に何代かに一人が発症する病だと言うことを突き止めました。その後すぐ母が急死し、父は更に私を溺愛するようになったのです」
それだけなら、どこにでもある話だ。
何が恐ろしいと思うことがあろうか。
そう考えるロイを余所に、娘は話を核心へと近づけていく。
「あの夜、父は私を呼び言いました。『私の長年の研究が完成した。全てお前の為だ。病気の治療法の確立にはまだ時間はかかるが、それまでお前の命を『今度こそ』完全な形で長らえることが可能になったのだ』と。そして、本当に嬉しそうに笑って、私をこの書斎へといざなったのです」
延命の錬金術が完成していた。
それが本当なら、軍は血眼になってその研究を探すことだろう。
否、自分もそれを知りたいと言う欲求を抑えることは出来ない。
ロイは胸中の興奮を抑え、女の話を待つ。
 
ところが、女は不意にロイに問いかけた。
マスタングさん、錬金術の基本は何でしょう」
ロイは面食らいながらも、答える。
「等価交換、ですが」
「だとしたら、延命の為に必要な等価はなんでしょう」
「命と等価であるもの……」
ロイの脳裏に、エルリックの兄弟の姿が浮かぶ。
彼らは母親の蘇生の為に人体を構成する物質と等しいものを用意したが、母親を創りだすことは出来ずその身体を失った。
魂と同等の存在、命と等しいもの、果たしてそんなものが存在するのだろうか。
賢者の石、しかしそれは幻の存在だ。
言葉に詰まるロイに、女は答える。
「命と等しいもの、それは命しかありません」
「しかし、それでは!」
「ええ、父の研究はそう言うものだったのです」
愕然とするロイに、女は哀れむ様な微笑みを向けた。
「父はそういう人だったのですよ。自分の娘の命を救う為に他人の命を平気で奪える殺人者であったのです」
言葉を失うロイに向かって、女は畳み掛ける様に話し続ける。
「最初の犠牲者は私の母でした。母は、私の命を延ばす為に父にその命を奪われたのだそうです。父自身が申しておりましたから、間違いのないことです。しかも、父は私の病が母方の家系からの血筋のせいであることを理由に、母のことを悪し様に罵りました。そして、母は私への贖罪の為に死ぬべきだったのだとさえ言ったのです」
「母上の命が貴女に……」
「父の口ぶりでは母の死の当時の延命の錬金術は、不完全なものだったようです。果たして父の術が本当に発動していたのかどうか、それとも全てが父の妄想で母は単に殺されてしまっただけなのか、今となっては全ては闇の中です。父の新たな殺人を阻むため為に、私が父を殺したのですから」
女は懐かしむ様に、床の血の跡と錬成陣に再び目を落とした。
その口元に義務のように浮かぶ笑みは、女の表情を人形のように見せる役割しか果たしていなかった。
生気を失ったその笑顔は、今は欠片もリザには似ていなかった。
「大好きだった父が愛する母の命を奪った。しかも、そのおかげで自分は生き長らえている。それを知った時の私の絶望が分かりますか?」
ロイには答える言葉がなかった。
国家錬金術師になどならなければ、父は母を殺すことも無く、私達家族は穏やかに暮らし、私は短いながらも普通に生命を全う出来たかもしれなかった」
女は歌うように言う。
ロイは衝撃と戸惑いを隠せぬまま、死んだ錬金術師の穏やかな笑顔を脳裏に浮かべる。
「しかし、だからといってお父上は」
「悪くない、とおっしゃいますか? 家族の命を守るためなら、他人を殺してもいいとおっしゃいますか? 錬金術の発展の為なら、人の命も惜しくはないとでも」
女の言葉は静かだった。
静かだったからこそ、どうにも動かしようのない重みを持っていた。
 
女の言葉に、ロイはイシュヴァールを思い出す。
国を守るためと言い、民を殺す。
身内を守るためと言い、他人を殺す。
戦場での軍人とは、そんな生き物なのだ。
ましてや国家錬金術師であり、生物兵器と呼ばれる自分の存在などその最たるものではないか。
女の言葉を否定することは、イシュヴァールでの己の罪を肯定することになる。
ロイは、力なく首を横に振った。
そんなロイの答えが目に入らぬかのように、女は一人喋り続ける。
「父は死の間際に言いました、『全てお前の為だった』と」
それがあの錬金術師の娘への愛の現れだったのか。
否、本当にそれは愛と言えるのだろうか。
「私は例え病がちでも父と母が居てくれれば、それで良かった。例え、十歳で命を終えようと幸福な家庭があれば、それで良かったのです。なまじ、父に錬金術の才があったことが、私達家族の崩壊の始まりだったのです」
そう言って、女は口を閉ざした。
二人の間に冷たい沈黙が横たわった。
二人は黙って床の錬成陣を見つめ、同時に視線を上げ互いを見た。
「逮捕なさいますか?」
女はそう言って、花のように笑った。
夕闇に白く浮かぶ水蓮のように、消えてしまいそうな笑顔で。
 
ロイは考える。
果たして、どちらが幸せだったのだろうと。
彼の知る、2人の錬金術師の娘たち。
方や、父の研究の為に己が身を捧げるも、最後まで錬金術に没頭する父親とは交流出来ぬまま、父の研究をその身に託され、その愛を知らず生きる娘。
方や、父の想いの全てが己に向けられ、その愛ゆえに父親どころか錬金術すら憎み、その愛に背を向けた娘。
どちらも錬金術に父親を奪われたことに、変わりはないのだろう。
 
ロイは暫く躊躇した後、ゆっくりと口を開いた。
 
 
To be Continued...