Ashgray 2

セントラルでの仕事を終え、ロイは記憶を頼りにたどり着いた一軒の家の前に立っていた。
訪問の約束をした時間にはまだ少し早かったが、ロイは躊躇せず、ドアをノックした。
ノックの音を待ちかねたかのように、扉が開く。
暗い家の中には女が一人、ひっそりと影法師の様に儚げに立っていた。
低く傾いた太陽が開いた扉の隙間から女の上に光を投げかけ、壁にゆらゆらと陽炎のような影を作りだす。
 
痩せたとは聞いていたが、ここまでとは。
ロイは驚く。
最後に会った時より、女は一回り以上小さくなっていた。
眩しそうに細められた鳶色の瞳が、彼のよく知る誰かの面影を思い起こさせる。
リザよりはいくらか小柄だが、意志の強そうな眼差し、淡い色の金髪……ああ、確かに似ている。
ちょうど、イシュヴァールで思いもかけぬ再会を果たした当時のリザと同じ年頃の女は、もしもリザが戦場に行かなければこんな風になっていたのではないかと思われるような穏やかな様子をしていた。
電話でのヒューズの言葉を思い出しながら、ロイは驚きを無表情な仮面の下に封じ込め、軽く敬礼をして女と向き合った。
「ご無沙汰しております」
「本当に。五年ぶりでしょうか」
もう、そんなに時が経ったのか。
流れる時の早さと、五年の間に驚くほどに成長した女の姿をまじまじと見つめ、ロイは無表情のまま目を細めた。
そんなロイの様子に頓着せず、女は日差しを避けるように頭を下げた。
「父の葬儀に来て下さった時には、お会い出来ずに申し訳ありませんでした」
「いや、あの時は入院されていたのですから。お気になさらないで下さい」
事件は三年前、と言うことは彼女はリザと同じ年齢で父親を亡くしたことになる。
そんなことを考えながら、ロイは敬礼の手を下ろした。
「随分とお変わりになられた」
「女は五年もあれば変わります。それに、あの頃の私は子供だった上にひどいおデブちゃんでしたから」
屈託なく穏やかに笑うと、女はロイについて来るよう無言で促し、家の奥へと入っていく。
ロイは女の後に従い家の中に入ると、後ろ手でゆっくりと扉を閉めた。
閉じられた扉に遮られ行き場を無くした光は、陽の傾く速度のままに扉の上に緋の色を強めていった。
 
暗く長い廊下に、二人分の密かな足音が響く。
ロイは歩きながら、自分が最後にこの家に来た日の事を思い出していた。
そう、あれは五年前の秋だった。
この家の主が健在で、前を歩く女がまだふくよかな少女の顔で無邪気に笑っていた頃。
この家の中に光が満ちていた日。
あの日、この家にいた誰があの忌まわしい事件を想像しただろうか。
ロイは溜め息を飲み込むと、前を歩く女の背中を見つめた。
 
      *
 
三年前の冬のある夜、この家の主であった国家錬金術師が殺された。
鈍器で頭部を滅多打ちにされた被害者は、描きかけの大きな錬成陣の上で死んでいた。
激しく争った跡、破壊された室内、施錠されていなかった出入り口、そして、彼の研究室からその年の査定で提出されるはずだった書類一式が消えていたことから、犯人は彼の研究を狙った者の仕業ではないかと目された。
彼の二つ名は「延命の錬金術師」。
その名の通り不死の研究をしていたのだから、彼の研究が完成していたなら誰もが喉から手が出るほどそれを欲しがったはずだった。
翌朝、彼の弟子により事件が発見された時、娘は父親の遺体に取り縋って半狂乱になって泣き続けていたという。
そして、誰が何を聞いても「怖い、怖い」と繰り返すばかりで、誰も彼女から事件について何も聞き出す事は出来なかった。
母親を早くに亡くし、周囲も驚くほど仲の良い父子だったのだから、無理もないことだと当時の隣人は語っている。
結局犯人は見つからず、事件は三年経った今、迷宮入りの様相を呈している。
ショック状態で放心する娘は、一年間の入院とカウンセリングで漸く平常を取り戻した。
しかし、無惨な父親の死に様を見てしまった思春期の傷は大きかった。
元は大柄で肥満体とも言える体型だったものが、あっという間に標準体重以下に痩せ細ってしまった。
明るかった表情からは笑顔が消え、もの静かな憂い顔は人々の涙を誘った
それでも、娘は気丈にも一人で父親との思い出の家を守り続け、今、ロイの目の前に立っている。
 
ロイは女の後ろ姿に向かって話しかけた。
「お電話でもお話ししましたが、今朝、軍法会議所で現場写真を見て、漸く分かりました。あの事件の犯人が」
ロイの言葉に女の背中が一瞬ビクリとし、そうして立ち止まるとゆっくりと振り向いた。
暗闇に浮かぶ青白い顔には一種泣き顔にも似た表情が浮かび、それとは裏腹に凛と力を帯びた声がロイに投げかけられる。
「もう軍部にはご報告なさったのですか? 逮捕はいつ?」
「いえ、物証も何もありませんから」
「では、どうやって犯人を……」
「こんな所でお話しするのも、何ですので」
女はロイの言葉に頷き、再び歩き出す。
ロイは黙って彼女について行く。
やがて、一つの扉の前で女は立ち止まった。
ロイはその扉の向こうにある部屋を良く覚えていた。
ロイがこの屋を訪れた時に必ず通された部屋、殺された国家錬金術師の書斎だった部屋。
女はドアノブに手をかけ、背中越しにロイに語りかける。
「父のお話を聞くのでしたら、この部屋が一番相応しいでしょう」
その言葉と共に、扉が開かれる。
凄惨な殺人の痕跡の残る部屋が、ロイの目の前に広がった。
 
どす黒く変色した血痕か残る異常な部屋に足を踏み入れた瞬間、戦場を見慣れたロイも流石に息をのんだ。
彼のよく知る父娘が、穏やかな団欒を交わしていた場所だったのだから。
白い壁に飛び散った血の痕がどす黒く変色し、いっそ鮮やかなと言ってもいいほどの異様なコントラストを描いている。本棚から放り出された貴重な文献、実験器具が割れて飛散しているテーブル、開いたままのノート、全てが事件が起こった日で時間を止めていた。
フローリングの床の中央には複雑な錬成陣が描かれ、その上に人型のチョークの跡が生々しく残っていた。
よく見ると錬成陣は被害者の抵抗の痕なのか、あちこちが擦られ消えており、血の跡が文字の判読を拒んでいる。
事件のあった日の様子をそのままに埃の堆積した部屋を見回し、ロイは暗澹たる思いに陥った。
「何故、片付けてしまわれなかったのですか」
ロイは聞く。
「父を忘れない為に、ですわ」
当然の事だ、というように女は答え、少し間を置いて付け加える。
「でも、あの日以来この部屋に入るのは初めてなのですけれど」
ほんの少し目を伏せた女にロイは尋ねた。
「辛くはありませんか」
「辛くない、と言えば嘘になります。でも自分が受け入れた道ですから」
自虐でもなんでもなく淡々と答える女に、ロイは哀しみの目を向ける。
 
錬金術師を父に持った娘たちは、どうしてこうも強いのだろう。
そして同時になんと歪(いびつ)で脆いのだろう。
そのアンバランスさが彼女らを、余計似た者同士に見せているのかもしれない。
ロイはつと前に出ると、書斎の真ん中に描かれた錬成陣の前に立つ。
まさか殺人のあった部屋が、そのまま残されているとは思わなかった。
これなら、物証を探し出せるかもしれない。
そう思ったロイは、錬成陣の前に跪いた。
「お父上は、研究を完成されていたのですね」
女の返事を待たず、ロイは持参した羽根帚で錬成陣の上の埃を丁寧に払う。
堆積した埃の下から姿を現した錬成陣には、写真で見た限りでは読み取れなかった部分にも、みっちりと文字と紋様が描き込まれていた。
錬成陣の中心に近い部分は書き込みが少なく、それが描きかけの状態であることを示している。
錬成陣のおおよそ七割を描き終わった所で、事件は起こったのだろうとロイは推測した。
血塗れの手形が錬成陣を擦り取った痕がある。
ロイは丹念に錬成陣を読んでいった。
 
素晴らしく緻密で美しい錬成陣だった。
生命の根源と奇跡に触れる天才的な閃きに溢れ、綿密な計算に裏付けられたそれは、殺された錬金術師がどれほど偉大な頭脳の持ち主だったかを無言のうちに示していた。
ロイはその素晴らしさに打たれながらも、全く違うものをその錬成陣の中に探していた。
軍法会議所で見た写真では小さ過ぎて、確実には読み取れなかった文字を。
三年前の殺人事件の物証となる一文を。
 
「並の錬金術師には解読出来ないと、父は申しておりました」
そんなロイを見守る女の口から出た言葉は、いつかリザの口から出たものと酷似していた。
ロイはその言葉に手を止めると、雑念を振り払うかの様に一瞬目を閉じて、再び錬成陣を読み進める。
「父の研究のことよりも、父を殺した犯人のお話を」
女は静かに、ロイの方へと歩み寄ってくる。
その時、ロイの文字を辿る手がある場所で止まった。
「やはり、貴女だったのですね」
確信を持ったロイの言葉に、女は動きを止める。
 
「お父上を殺したのは」
 
そう言って立ち上がり、振り向いたロイの目の前で、女は笑った。
彼の愛する女とよく似た顔で、清らかに。
彼の愛する女とは似ても似つかぬ表情で、艶やかに。
 
 
To be Continued...