Lavender【おまけ】

泣く子も黙る(?)イシュヴァールの英雄、ロイ・マスタング国軍大佐殿が自らの副官に頭が上がらないこと、それは今更確認するまでもない事実である。
太陽が東から昇るように、水が高い所から低い所へ流れるように、彼は“鷹の目”と称される彼女に睨まれると自然に「ごめんなさい」と謝罪の言葉が口からこぼれ出るほどなのだ。
勿論彼に非があるからこそ彼女に睨まれるわけなのだが、その辺りの自分に都合の悪いことは棚に上げ、彼は毎日虎視眈々と彼女の裏をかいて仕事をサボる隙を狙っている。
 
その日も朝からロイの机の上には、大量の書類がうず高く積み上げられていた。
練兵場の使用許可申請苦情処理、事件の報告書、一般からの嘆願書。
見るのも嫌になるほど大量の書類の山は彼を取り囲み、すでに昼食も近い時間になったと言うのに一向に減っていく気配を見せない。
どれほどサインを続けようと、処理した分だけ新たに書類が増えるのでは、堂々巡りもいいところだ。
今もまた新たな書類の束が、彼の机の上に追加された。
ロイはペンを動かす手を止めギロリと横を睨み、わざとらしい大きな溜め息をついた。
「お前、私に何か恨みでもあるのか?」
「とんでもないッス。俺はただ、中尉に言われたとおりにしてるだけッス。俺だって命は惜しいッスから」
書類が減らない元凶、すなわち新たな書類をまるで営巣するコマドリのようにせっせと運んでくるのは、非番のリザにロイの見張りを言いつけられたハボックだった。
「私より中尉の命令を聞くのか、お前は」
「ことデスクワークに関しては」
「まったく、人をなんだと思ってるんだ」
「文句があんなら中尉に直接言ってくださいよ〜」
目障りなヘヴィースモーカーの姿を視野の端に収めながら、ロイは昼食を口実に執務室を逃げ出すことを決意する。
中尉もいないというのに、こう仕事ばかりではやっていられない。
ロイは表向きは真面目な表情で、手を動かしながら脱走の機会を窺った。
 
十二時を半時ほど回った頃、ロイはうんと伸びをして立ち上がり辺りの様子を確かめる。
流石にハボックも昼休みはどこかへ行ったらしく、執務室の近辺にその姿は認められない。
チャンスだ。
ロイは何気ない風を装い、するりと部屋を抜け出した。
この廊下を右へ行くか、左へ行くか、それが問題だ。
下らないことを大問題のように呟き、ロイは軽やかな足取りで廊下を右に曲がると査察という名目を胸の内に掲げ、さっさと東方司令部の門扉をくぐった。
後ろの建物で喚くハボックの声が聞こえた気がしたが、ロイは構わず鼻歌交じりにイーストシティの雑踏の中へと足を踏み出した。
 
週の終わりの昼下がりの繁華街は人で溢れ、ロイは雑踏を避けて路地裏をぬって気に入りの店のランチを目指す。
勿論彼とて午後の業務をまるまるサボり倒す気は、さらさらない。
なんと言っても軍服姿なのだから行動範囲は限られているし、翌日出勤してきた中尉に銃殺刑に処される訳にもいかない。
ちょっと息抜きをして帰ってハボックの小言を聞き流して……、と考えながら大通りに抜けたロイはふと自分の前方に目をやり、視界に入った光景にギョッとして再び路地に飛び込んだ。
バクバクと飛び跳ねる心臓を押さえ、ロイは思わず声に出して呟いた。
「何で会うんだ……」
ロイは角の建物の陰から、そっと表を窺う。
彼の視線の先には、怖い怖い副官殿がウィンドウショッピングを楽しむ姿があった。
ショーケースに飾られたワンピースを眺めている姿は、普段の副官の表情をしている時の彼女からは想像もできないほど穏やかだ。
穏やかな表情の彼女を見るのは、ロイにとっても望ましいことだ。
それが彼が執務室を脱走中の出来事でなければ、の話だが。
しかし、なぜこうも広いイーストシティの街中で、何千分の一の確率であろうに彼女と遭遇してしまうのか。
万が一見つかったら、そう思うとロイは生きた心地がしない。
そっと回れ右をした彼は、お気に入りの店を諦めて手近なカフェへと足を向けたのだった。
 
適当に選んで飛び込んだ店の珈琲は、予想外に美味かった。
ロイは酸味の混じった香ばしい煎りたての豆の香りを楽しみながら、手の中のカップを揺する。
ずっと職場にいて東方名物・不味い珈琲ばかり飲んでいると、気持ちまでクサクサして仕方がない。
気分転換も効率の良い仕事の為に、不可欠なものなのだ。
自分に都合の良い理論を組み立てながら、ロイはマスタードをたっぷりつけたホットドッグに勢いよくかぶりついた。
その時。
 
「こちら相席よろしいですか?」
背後から聞き慣れた冷ややかな声が、ロイの耳をうつ。
ロイは思わずマスタードにむせた。
ツンとした刺激が鼻に抜け、涙がこぼれそうになる。
しかし、ロイはぐっと踏ん張った。
ただでさえサボリを見つかって立場のない自分が、これ以上弱いところを見せるわけには行かない。
咀嚼物をゴクリと飲み込み、ロイは何食わぬ顔で如何にも何でもないことのように振り向くと、思い切り胡散臭い笑みを浮かべてみせた。
「やぁ、中尉。こんなところで奇遇だな」
ロイの精一杯の虚勢を突き破るかのように、リザの鋭い眼光が彼に向かって冷ややかに注がれ、ロイは背中に冷たい汗が滴るのを感じる。
「先程、ハボック少尉とこの近くで偶然行き会いまして」
微かな笑みを浮かべ、近付いてくるリザの目は全く笑っていない。
「大佐のお姿が指令部内から消えてしまったと報告を受けました。姿を消すなどとは、またどんな新しい錬金術を発見なさったのか、お伺いいたしたく参上いたしました」
イヤミたっぷりの科白と共に、リザは下目使いに威圧の意を込めてロイを見下ろしている。
ロイはひきつる己の頬をなだめながら、負けじとポーカーフェイスを保って微笑みを返す。
「私の方こそ、日頃から君が使っている、何処に居ようと君が私を見つけだす事の出来る魔法の種明かしをして貰いたいものだがね」
二人の間に見えない火花が散った。
 
何食わぬ顔でリザは答える。
「魔法などではありません。大佐のお傍に仕える者として、当然のことかと」
「では、ハボックのヤツはまだまだ修行が足りんというわけだ」
「私は常日頃から観察力と洞察力を養う訓練をする機会を頂いておりますので、それと比較するのは酷かと」
「つまり、それだけ」
「大佐がおサボリになっていらっしゃる、ということでしょうね」
ピシリと言ってのけるリザの口調が、更に冷たくなる。
ロイは内心ダラダラと汗をかきながら、必死に無駄な反撃を試みる。
 
「君らが優秀だから、私もこうして息抜きをすることも出来るのだがね」
「無駄な労力を我々に強いていらっしゃる、とも言えますが」
「無駄な労力と言うなら、私のことは放っておけばいい。君、非番の日までそんなに働くこと無いんじゃないかな」
「大佐の本日分の業務が明日の業務に支障を与えては、更に無駄な労力が必要となりますので」
ロイのヘ理屈にも負けず、リザは淡々とロイの言葉を論破していく。
「明日に仕事を残さないためには、ちょっとした息抜きも必要だと思わないか?」
「ちょっとした息抜きでしたら、指令部内でも十分とれるかと思うのですが」
「たまには街の空気を肌で知ることも」
「たま、でしょうか? しばしばのお間違いでは?」
そう指摘するリザの瞳は、いっそ触れれば切れる刃の如き鋭さだ。
どんどん旗色の悪くなるロイは笑みを浮かべたまま、遂にリザから目をそらす。
手元の珈琲に口を付け、体勢を立て直そうと足掻くロイに、リザはとどめの一言を情け容赦なく浴びせかけた。
「大佐、いい加減サボリは切り上げて司令部にお戻りください。お願いした書類は恐らく半分片付いていれば良いところかと推測されますので、今お戻りいただければ本日中には全て仕上げて頂くことも可能と思われます。残業を一時でも早く終わらせたいとお思いでしたら、どうぞ今すぐお戻りを」
一息にまくしたてるリザの剣幕に押され、ロイは遂に白旗を揚げる覚悟をする。
元から自分が悪いのだ、この賢しい副官殿を何とか言いくるめようというのが元より間違っているのだから。
 
それでも、上官の威厳、元よりあるかないか分からないものだが、は守りたい。
一応は仕方ないという風を装い、ロイはお手上げのポーズで肩をすくめてみせる。
「分かった。ただし、昼飯を食う時間は考慮してくれ」
「了承いたしました」
リザはようやく戦闘態勢を解き、冷ややかな目でロイを見下ろすのを止めた。
こうして普通にしていれば、可愛らしい顔をしているというのに。
ロイは溜め息を隠して、リザに己の隣の席を指し示した。
「折角だ、君も座って何か食うかね」
「昼食は済ませましたので、お気持ちだけ」
「じゃ、珈琲はどうだ。いつも不味い珈琲ばかり飲んでいるからな、我々は」
とりあえず上官のサボリを阻止出来たことに満足したらしいリザは無表情を保ったまま、ではお言葉に甘えて、と言うと彼の隣の椅子を引いた。

片手に持った買い物の荷物を下に置いたリザは、今まで近寄って来なかったギャルソンにカフェオレを注文する。
私服姿で髪を下ろしたリザは、いつもの軍服のときとは違う柔らかな雰囲気をまとっていて、先程までの舌戦の威圧感が嘘のようだ。
「買い物の途中だったのかね」
まさか店先で君を見たとも言えず、ロイは素知らぬふりでそう言った。
「はい」
「何か戦利品でもあったのか?」
「私物を何点か」
あくまで上司と部下の一線を踏まえた答えにロイは少し鼻白み、行儀悪く彼女の持ったショップの紙バッグを覗き込む。
「何だ、洋服か」
「何か問題でも?」
「いや」
話の接ぎ穂も与えられず、間の保たないロイはヤケのように食べかけのホットドッグに手を伸ばす。
腹立ち紛れにムシャムシャと一気にホットドッグを腹の中に詰め込むと、後は珈琲を飲めば仕事に戻らねばならなくなってしまう。
せっかくのお目付役が休みの日に、結局これか。
そう思うと、隣でカフェオレをゆっくりと飲むリザのすました顔が無性に癇に障る。
ロイは思わず恨み言を言いたくなる。
 
「君、いつからそんな可愛げ無くなったんだろうねぇ」
「なんでしょうか?」
僅かにムッとした表情になるリザに、ロイは何気なく言う。
「昔は可愛かったという話だよ」
「副官に可愛さは不要かと思われますが」
少しばかりムキになるリザに、おや?と思い、ロイは持ち前の悪戯心を発揮する。
「まぁ、副官の君には不要かもしれんがね。いや、確かに可愛かったよ。新しい洋服を手に入れた時なんか、君、私に見て欲しいのに言い出せなくて、夜食攻めにした挙げ句……」
「大佐!」
カチャンと大きな音を立てて、リザが慌てたようにカップを置く。
ロイはニヤリと笑ってリザの動揺を眺め、彼女が遮ろうとした台詞を一気に放つ。
「鏡の前でクルクル回っていたんだよな。ああ。可愛かったなぁ、全く」
言葉もなく唇を震わせ、さっきまでの無表情は何処へやら。
真っ赤になってスカートの裾を握りしめるリザの姿に、ロイは思わず脂下がる。
うん、そういう処は昔以上に可愛らしいと思うのだがね。
言葉には出さずそう思いながら、ロイは彼女に一矢報いることが出来た事実に満足し、珈琲を飲み干すとガタリと音を立てて席を立った。
リザは顔も上げず、耳まで真っ赤になったままだ。
「さて、私は君の言いつけ通り、仕事を済ませに戻るとするよ。ここの支払いは済ませておく」
そう言ってロイは伝票を手に取り、その場を去りかけた。
しかし、思い直して再びリザの元に歩み寄ると、その耳元でそっと囁いた。

「副官の君には可愛げは皆無だが、普段の君の可愛さは私だけが知っているからそれで十分さ」
リザは遂に首筋までを赤く染める。
ああ、本当に可愛いな、君は。
ロイはやり込められた憂さ晴らしが出来た事と、リザの普段見られぬ一面を見られた事に満足し、足取りも軽く司令部への帰路につく。
 
午後はフル稼働でなるべく仕事を早く片付けて、最速で家に帰ろう。
可愛い可愛いリザの待つ家へ。
出来れば、あの時彼女がショウウィンドウで見ていたワンピースを買って。
そんな事を考えながら
 
Fin.
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【後書きのようなもの】
 H様より頂いた拍手コメントより妄想爆発SSです。H様許可ありがとうございます〜。リザはちっさいのもおっきいのも可愛いのです。ふっふっふ〜♪
 
お気に召しましたなら

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