光の庭

 甘く、何処からか忍冬が香った。
 ロイは探し人の姿を求め、ゆっくりと古びた建物の外周を回って庭へと足を運ぶ。煉瓦作りの壁は目につく限り生い茂る蔦に覆い隠され、過ぎた年月の長さを物語っていた。蔦の壁の角を曲がれば、見慣れた庭の景色が目の前に広がる。手入れの行き届かぬ草木がぼうぼうと生い茂る庭は、人の住まぬ家の寂しさを垣間見せる。
 後で手が空いたら庭の手入れもしていくか。ロイはそう考えながら、庭の一角にある小さな東屋へと足を運んだ。元は白かった東屋はすっかりペンキが剥げ、その細い柱や小さな屋根には生命力に溢れた植物達が好き放題に浸食し緑の影を絡みつかせている。さっきから香っていた忍冬もその中に混じり、白い花弁をアクセントの様に緑の中に添えていた。
 ロイは懐かしさに、小さな花に手を伸ばす。摘み取った花の付け根に唇をつけ、チュと音を立てて吸い上げれば仄かな蜜の甘みが口中に広がった。まだ、彼がこの家に弟子として通っていた頃、初夏になると彼はリザと共にこの花の蜜を口にした。記憶の底に沈んでいた甘みに再会し、ロイは目を細める。
 忍冬の花からそっと天然の緑で出来た屋根の下に視線を移せば、彼の予想通り美しいハニーブロンドの持ち主はお気に入りの籐の寝椅子にもたれ、午後の陽射しの中で微睡んでいる。ああ、やはり此処にいたか。ロイは一人微笑むと、手に持った本を傍らに置く。そして、幼い頃からの特等席で眠るリザの枕元に手をつき、その穏やかな寝顔を覗き込んだ。
 
 年に二度、ちょうど季節の変わり目の頃、ロイはリザを連れて彼女の生家へと足を運ぶ。今はもう誰も住まぬ家に残された貴重な錬金術の資料の虫干しの為、そんな名目を唱えて小さな休暇を二人で過ごすのは、彼らのここ数年の慣わしとなっていた。この時ばかりはリザも文句を言わず彼に従い、懐かしの我が家の片付けに熱中する。ロイはロイで師匠の残した膨大な資料を読み耽り、進まぬ作業をリザに叱られることすら楽しみながら、短い休暇を満喫するのだ。
 そこは、まるで時間と空間の狭間に存在するような、とても不思議な場所だった。彼らは軍人として互いに大佐と中尉の肩書きで呼びあいながら、幼き日のままのリザとマスタングさんの行動をトレースする。客間でのんびり書物を読み続けるロイにリザは夜食を差し入れ、庭で太陽を浴びて洗濯物を干すリザに二階の窓からロイが夕食のメニューを尋ねる。彼女の父親の不在、彼らの現在の年齢、軍人としての経歴、そんなものすら超越したセピアに色褪せた時間の中で、彼らは過去に遊ぶ。全てを忘れない為に、全てを共有する為に。焔の錬金術の生まれた場所で、焔の錬金術の継承された場所で。彼らは彼らの義務を確認し、刹那の休息に溺れる。
 
 そんな休暇中のある日、ロイは書庫の片隅でおとぎ話の本を見つけた。魔法でカエルにされた王子が王女のキスで人間に戻るそのお話は、幼い頃のリザのお気に入りの童話だった。小さな彼女はよく父のお弟子さんを掴まえては、こう尋ねたものだった。
マスタングさん、錬金術でカエルは王子様になるんですか?』
 あどけない質問に当時のロイは笑った。そして、錬金術が魔法ではないことを、小さなリザに滔々と説明した。リザはよく分からないながら、一所懸命に彼の話を聞いていた。
 錬金術と魔法は違うものだと彼女が知ったのは、一体幾つの頃だったのだろうか。おとぎ話の世界の常套句『そして、末永く彼らは幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし』が、現実にはあり得ないということを知ったのは、いったい幾つの頃だったのだろうか。
 彼女が魔法だと思っていた錬金術は、カエルを人間に変えることも、人々を幸せにすることも出来ず、幼かった二人の日々の終わりは彼女の父の死に彩られちっともめでたくなど無かった。そして成長した彼女の前には、幸せを運ぶカエルの王子の代わりに、死と破壊をもたらす火蜥蜴を連れた錬金術師が現れたのだ。彼女自身もお姫様になることはなく、青い軍服をまとうただの人殺しとなり果てた。おとぎ話はおとぎ話のままこの庭で時間を止め、そして彼らは血と焔と硝煙にまみれた現実の世界へと旅立った。
 それでも彼らは、彼らの物語が最後には国の平和という形で『めでたしめでたし』のエンドクレジットで締めくくられる日を夢見ている。時間を止めた、こんなちっぽけな世界の片隅の東屋で。
 
 束の間の安らぎの中で眠りに身を委ねるリザに、ロイはそっと手を伸ばす。まるで、今の彼女が見ている夢を壊すまいとするかのように。穏やかな彼女の表情に、ロイの中の小さなリザと大きなリザがオーバーラップする。
『カエルは錬金術で王子様になりますか?』
『その夢……背中を託していいですか?』
『人に幸福をもたらすべき錬金術がなぜ人殺しに使われているのですか?』
 忍冬の甘い香りに酔い、ロイは彼女の疑問を受け止め続ける。そう、彼らの幼年期の終わりがやってくるその日まで、彼は彼女の問いへの答を探し続けるのだ。互いに封印した想いを僅かな触れあいの中に交わしながら。
 ロイはリザの上にかがみ込み、彼女の上に精一杯の優しさを込めた柔らかな口づけを落とす。と、いつの間にか目覚めていたリザの手が、ロイの背に伸ばされた。
「忍冬、ですね」
 ロイの口中に残った甘い幼年期の思い出にリザは微笑む。
「ああ、今年も咲いた」
 そう答えて、ロイは少し考えて言った。
「明日は何時までいられる?」
「午後一番の汽車の切符を押さえてありますが」
「そうか……ならば、庭木の手入れをするくらいの時間はありそうだな」
「あまり無理はなさらないで下さいね」
 そう言いながら、リザの手がロイの頬に触れる。明日から現実に戻り、軍人の顔に戻れば、暫くは見られぬ彼女の柔らかな微笑に酔い、ロイは再びリザの上に口付けを落とした。
 再びこの庭に時が戻る日を、心密かに夢見ながら。
 
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【後書きのようなもの】
 6月のオンリーで出したペーバーの再録です。ペーパーでは、サクラちゃんの素敵絵とのコラボをさせて頂きました。
 今年のロイアイの日のサクラリウム様のTop絵(ギャラリーに収納されてます)に惚れて許可貰って、突発で書いたSSでした。『甘く、何処からか忍冬(スイカズラ)が香った。』の一文がパッと浮かんで、後は一息でした。こういうコラボも楽しいです。
 余談ですが、後から調べてみましたら忍冬の花言葉は何と『愛の絆』だそうで、あまりの偶然に吃驚したのはここだけの話です。
 
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