mistwhite

軍人の風呂などというものは、大概が烏の行水と相場が決まっている。
ロイもリザもそのご多分に漏れず、彼らの日常生活に占める入浴時間というものは非常に些末な扱いを受けていた。
そんな彼らの日常に、ある日異変が起きる。
往々にしてそんな些細な異変が、日常の生活習慣を変える事が多いのもまた一つの事実である。
 
その日、リザは一週間の疲れを流すべく、ゆるりと深夜のバスルームで手足を伸ばしていた。
熱めの湯が身体の隅々に染み渡るように、硬くなった身体と心を解していく。
扉の向こうではロイが勝手知ったる何とやらで、棚の中の備品を探している気配がする。
慣れ親しんだ男の存在と、心地よい湯の温もりにリザは一気に自分の緊張が解けていくのを感じていた。
 
一週間程前に巻き込まれた面倒ごとがようやく片づき、数日ぶりに司令部の敷地から外へと足を踏み出したロイとリザは、草臥れきって彼女の部屋へとたどり着いた。
常ならロイの表だった訪問をあまり歓迎しないリザも、この日ばかりは司令部からより近い場所にある自分の部屋に彼を迎え入れ、とりあえずの休息を取ることを最優先させた。
いつもなら下心満々にリザに迫るロイも、流石にこの一週間働きづめで目の下に隈を作り吹き出物をこしらえた彼女にそんな無体を働く気にはならなかったらしい。
彼は大人しく軍服を脱ぎ捨て、二人は揃って遅すぎる夕食を取った。
彼らは疲れきっていた。それこそ柔らかなシーツの間で抱き合うよりも、睡眠を貪る方がよほど魅力的な行為に思えるほどに。
リザはなんだかんだと理由をつけて上官を先に休ませようとしたが、結局『上官命令』の一言でバスルームに強引に押し込まれたのだった。
 
湯の中で洗い髪を弄びながら、リザはいつもの習慣で考えるともなくロイの予定を脳裏に思い浮かべる。
明日は自分は非番だが彼は査察が二件入っていたはずだ、とにかく日付が変わるまでに彼にはベッドに入ってもらわないと。資料はブレダ少尉に渡してあるから良しとして……
そんなことを考えながら、リザは蛇口から水滴が落ちていることに気付いた。
 
ピチャン。
水面に波紋が起こる。
ああ、パッキンが緩んでいるのだろうか。
勿体無い、水は貴重品だ。リザは思う。
ピチャン。
飲み水を確保する事すら出来ない経験。
イシュヴァールにいた頃は、一口の水が宝に思えた。
ピチャン。
内乱が終わって街に戻って、最初に感じた幸せは風呂に入れた事だった。
あまりの心地よさに夢見心地になり、そして、たかがそんな事で戦場で犯してきた事を一瞬でも忘れかけた自分に、反吐が出そうな思いがしたのだった。
 
苦い思い出を噛み締めて水滴が湯の表面に作る波紋を見つめながら、リザはバスタブの縁に頭をもたせかけた。
目の前に広がるたっぷりの湯に、意味もなく罪悪感を感じるのは疲れのせいか。
リザはそんな自分の感情を見ない振りをしようと、瞳を閉じた。
瞼の裏の闇は心地よく、何も考えずリザはその闇に身を委ねた。
温かな湯と暖かな闇は、優しくリザを包み込んでいった。
 
「リザ!!」
 
突然、心地よい闇が破られた。
せっぱ詰まったロイの声がリザの鼓膜を叩き、次の瞬間、彼女は大きな男の手で思いきり頬を張られた。
突然の痛みに彼女は驚き、次に不意に感じた寒さと自分をのぞき込む男の鬼気迫る形相にギョッとした。
「大……佐?」
リザが反応したことに安堵の表情を浮かべたロイは、再び眦(まなじり)をつり上げると彼女を頭から怒鳴りつけた。
「この大莫迦者が!」
「え?」
リザの薄い反応に、ロイの怒りは更に大きくなったらしい。
更に声を荒げて、彼はリザをねめつけた。
「風呂で寝るなどと、愚かにも程がある。死ぬ気か!!」
未だ状況がわからぬリザはロイの顔を見つめ、ぽやんとした頭で現状を理解しようと己の姿を確認し、しばらくして漸く繋がった脳細胞が認識した現実に青ざめた。
 
気付けばリザはバスルームの床の上で、ロイに抱きかかえられていた。
彼女は素っ裸で、ロイはワイシャツもズボンも水浸しで。
リザは自分が風呂の中で長時間眠りこけてしまい、不審に思って様子を見に来たロイにバスタブから引き上げられたらしいことを知る。
彼の発火布によって鍵を焼ききられたバスルームの扉が、焦げくさい臭いを放っている。
無意識の内にリザの右手はロイのワイシャツの肩口を握りしめていて、彼女はハッとしてその手を離した。
「申し訳ありません! 大佐」
リザは慌てて立ち上がろうとして、失敗した。
ロイが彼女がシャツから離した手首を握り、真正面から彼女を睨みつけたからだ。
「全くこの莫迦者が!」
そう怒鳴ったロイの声は、リザの目を完全に覚まさせるのに十分な怒りを滲ませていた。
「君はこんな莫迦な死に方をする為に、戦場で生き残ったというのか? ホークアイ中尉」
あまりに正鵠を射た厳しいロイの言葉に、リザは項垂れるしかなかった。
「申し訳ありません」
リザは力なく呟いた。
「申し訳ありませんで済むか!」
そう言ったロイは、じっと彼女を燃えるような黒い瞳で見つめた。
更なる叱責の言葉を覚悟して、リザは泣きたい想いで瞳を上げた、その瞬間。
リザは濡れて冷えた彼のシャツの胸に抱き寄せられた。
リザはあがいたが、彼の手は決して彼女を離そうとしなかった。
それどころか増々リザを抱くロイの手に力がこもり、彼女は痛みすら感じる程だった。
「この、莫迦者が……」
呟くように零された言葉は、リザからそれ以上の言葉を奪った。
ロイの肌に張り付いた薄いワイシャツの生地の冷たさと、その向こうでバクバクと異常に早い心音を刻む男の心臓に気付き、リザは抵抗を止めると黙ってロイの胸に頬を寄せた。
冷たいシャツ越しに感じる男の体温は、先程までのバスタブの湯以上にリザを温かく包み込んでいた。
 
その日以降、ロイは彼女が風呂に入る時は必ずバスルームの扉の向こうで話しかけるようになった。
自分の不注意が招いた事態にリザは文句を言う事も出来ず従ううち、それは二人の新たな習慣となっていく。
当初の目的は次第に薄れ、やがて扉越しの会話を楽しむほどに。
顔も見えず、触れもせず、それでも不思議なほどに相手との距離を感じさせない風呂と言う無防備な空間で。
それはまるで、彼の声に抱かれているような安堵と至福とをリザに与えた。
今日も今日とて、彼らは扉を挟んで他愛もない言葉を交わす。
 
「ですが、大佐。あの角のデリのサラダメニューから、豆とドライトマトのサラダがなくなってしまったんですよ?」
「それは痛手だな。ま、私はあそこのミートローフがあれば文句はないのだが」
「男の方は野菜には興味がおありではないでしょうが」
「いや、あそこのシーザーサラダならお代わりしても良いぞ?」
そう言ってクツクツと笑うロイは、扉の向こうでパチリと懐の時計を開いたらしい。
「まだ上がらないのか?」
そんなロイの口調が少しきつくなるのは、以前のリザの失態を彼が思い出した所為だろう。
リザは申し訳なく思いながらも、控えめに彼に問う。
「もう少し、こうしてお話をする時間を……良いでしょうか?」
「私は構わんが……のぼせるなよ?」
「その時の為に大佐がそこに居てくださるのでしょう?」
そんなリザの言葉に扉の向こうから返された苦笑と白い湯気とに包まれて、リザはもう少しだけこの心地好いひと時にどっぷりと浸ることを許された幸せに酔う。
 

あの日以降、彼女が風呂に溺れることはない。
その代わりに、彼らは二人して莫迦のように平和な一時に溺れる。
指がふやけるまで会話を続け風呂で遊ぶ事が許される平和を、否、水を身体を洗うことに使うことが許される平和を享受する後ろめたさを思い出さないように。
温かな湯気に満ち、視界の霞むこの小さな空間で。
 
Fin.
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【後書きじゃない一言】
ちょっとした会話のやり取りから出来上がったSSです。
何か、こういうのって楽しい。
 
というわけで、これはリンクするお話です。サクラリウム様TEXTページをみていただくと、面白い事があるかもです。ふふ♪
 
お気に召しましたなら

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