Lavender

静かな部屋に、ペンを走らせる音だけが響く。
真夜中にはまだ少し早い、新月の夜。
マスタングは師匠に説かれた理論を反芻し、新たな構築式を組み立てていた。
持ち前の集中力を発揮し、師匠の家の客間に籠もって昼間の復習に夢中になっている彼は、組み立てた構築式に従って錬成陣を創ろうと、真円を描く為ふっと息を絞った。
マスタングの右手のペンが勢い良く走った、その時。
 
コツコツ。
静寂を破る控えめなノックの音が、部屋に響いた。
気勢を削がれたマスタングは、ノックの音に邪魔をされて途中で歪んだ円を恨めしそうな顔で見ると、頭を振って立ち上がる。
そして、書き損じの紙をクシャクシャと手の中で握り潰しゴミ箱に放り込むと、真っ直ぐドアに向かって歩いて行った。
 
なるべく不機嫌な顔を作らぬよう努力しながら、マスタングはガチャンとドアを開く。
扉の向こうには、ヘイゼルの瞳が不安げな表情でマスタングを見上げていた。
「あの、マスタングさん。お夜食なんですけど……よろしかったら」
リザの手に持たれた小さな木製のトレイには、湯気をあげる紅茶の入ったマグカップと、一口大に切りそろえた小さなサンドイッチが並んだ小皿が載っている。
 
確かに、リザの淹れる紅茶は美味い。
そして、キューカンバーとハムとチーズの挟まったサンドイッチは、普段なら大変魅力的な夜食であることは間違いない。
しかし、だ。
マスタングは、胸の内で大きな溜め息をついた。
これで私は、今日何度目の夜食を差し入れてもらった事になるだろう?
マスタングは自問する。
いや、夜食に限らない。昼間のお茶や珈琲やおやつを含めれば、今日1日で両手では足りない回数、マスタングはリザの顔を見ている事になる。
単純に機嫌の良いリザのサービスと思うには、リザは妙に張り詰めた表情をしている。
かといって、リザがマスタングの機嫌をとらねばならないような出来事があったわけでもない。
そして理由がどうあろうと、度々こうして集中力を途切れさせられることは、あまり有り難くはないというのも真実だ。
マスタングはデスクの横に溜まった手付かずの珈琲やリザお手製のスコーンをチラリと横目で見て、彼女に視線を戻した。
仕方ない。マスタングは意を決して言った。
 
「ありがとう、リザ。折角作ってもらったのに申し訳ないんだが、今はいいよ。さっき持ってきてくれたスコーンもまだあるから」
マスタングは心を鬼にして、ついに夜食を断る事に決めた。
さっき描き損なった錬成陣のダメージは、流石に大きかった。
リザは特に表情をかえず、すみませんと言って不自然なほどトレイを下の方で持ち、じっとマスタングを見ている。
「ごめん、リザ。台所に置いておいてくれたら、また自分で取りに行くから」
リザは頷いて、黙って踵を返した。
寂しそうな背中に、マスタングの胸はチクリと痛む。
ちらとマスタングを振り向くリザと、彼の目があった。
「もう遅いから、お休み」
リザは切ない瞳で頷くと、パタリパタリと階段を降りていく。
その後ろ姿を見送ったマスタングは、さっさと扉を閉めて錬成陣の続きを描こうとデスクに戻る。
だがしかし、ペンを手に紙に向かうマスタングの脳裏には、さっきのリザの寂しそうな瞳がチラついて、どうにも落ち着かない。
マスタングはいったん立ち上がり、また椅子に腰掛け、再び立ち上がり、お菓子の山を見た。
そして、結局ドアに向かって大股で歩き出した。
 
嗚呼、くそ!
いつも世話になっているリザを邪険に扱うなんて、やっぱり無理だ。
茶とサンドイッチくらい受け取ってやっても良いじゃないか! 私の為に作ってくれたんだぞ?
 
マスタングは自分に言い聞かせるようにブツブツと唱えると、部屋履きのまま客間を飛び出した。
二階の手摺から身を乗り出して階段の下を覗き込めば、リザはちょうど階段を降りた玄関の脇に立っている。
ちょうど良いと彼女を追いかけ、マスタングは階段を踊場まで駆け下りた。
部屋履きを履いているせいで足音のしないマスタングに、リザは気づかない。
彼女はトレイを玄関のスツールの上に置き、ぼんやりと姿見を見ている。
 
何をしているのだろう?
不思議に思いながらも、マスタングが彼女に声を掛けようとしたその時。
不意にリザは、その場でクルリと回転した。
ちょっと吃驚したマスタングの目の前で、フワリと淡いラベンダー色のスカートが広がり、リザは再び鏡に向かうと嬉しそうにその裾を摘んだ。
スカートと共布で出来たヘチマカラーのボレロの肩の位置を直したリザは、一生懸命肩越しに鏡を見て自分の後ろ姿を確認し、また笑顔を見せたかと思うと、一瞬で塞ぎこんだ表情になり溜め息をつく。
背後からリザの百面相を見ていたマスタングは、思わず微笑んだ。
ようやく彼は今日1日のリザの行動に、合点が行ったのだ。
リザは新しい洋服を着ている所を、マスタングに見て欲しかったのだ。
 
マスタングは自分の養母の例でよく知っている。女というものは、新しい服を手に入れると必ず身内を相手にファッション・ショーを始める生き物だという事を。
クリスは仕事柄、毎週のように新しいドレスを調達し、必ずマスタングの前で取っ替え引っ替え着替えてみせる。
そして、彼が似合っているとか綺麗だとか言うまで彼を放してはくれないのだ。
リザも、多分そうなのだろう。小さくても女は女だ。
 
あの綺麗なラベンダー色の洋服は確かに初めて見る気がするのだが、マスタングは女の洋服などには全く無頓着な質だから、確信はない。
しかし、あれだけリザがウキウキと鏡を見ているのだから、きっと間違いないだろう。
恐らく彼女の父親は、娘が何を着ていようか全く頓着しないはずだ。それも、何を賭けても良いくらいの高い確立で。
ならば、彼女の身近でファッション・ショーに付きあってくれそうな人間はマスタングしかいない。
今日一日リザはあの服に気付いて欲しくて、一生懸命マスタングの周りをぐるぐるしていたのだ
 
言ってくれれば良いのに。
マスタングは苦笑する。
そうすれば、マスタングも無駄に腹一杯になるまで珈琲や紅茶を詰め込む事もなく、リザも夜食を作る手間が一回で済んだ筈なのに。
マスタングは踊り場の手すりに頬杖をついて、姿見の前で様々なポーズを決めるリザを見ながら考える。
勿論、リザの性格から言ってそれは無理だろうし、そんな野暮を言えばクリス辺りにどやされるであろう事もマスタング自身分かっている。 
 
やれやれ、女というものは何とも面倒で愛らしいものだ。
マスタングはいっぱしの大人のように胸の内で嘆息する。
その時、ちょっとした悪戯心が彼の胸に浮かんだ。
彼はそれを押さえきれず、そっと声に出して言ってみる。
 
「リザ、似合っている。可愛いよ」
 
マスタングの柔らかいバリトンの声は、階段を駆け下りリザの耳を直撃する。
背後から突然声をかけられたリザは、吃驚して文字通りその場で飛び上がった。
振り向いたリザは、階段の踊り場で頬杖をついたマスタングが自分を見ているのを確認すると、思わず頬をほころばせかけ、直ぐに驚愕に頬を引きつらせた。
自分の独り遊びをマスタングに見られていた事に気付いたリザは一瞬で耳まで真っ赤になり、驚くほどの早さでその場を逃げ出した。
転びそうになりながら、廊下を駆けていくその可愛らしい後ろ姿を見送ったマスタングは、大人気なく書き損じた錬成陣のお返しをしてしまった自分を反省し、リザの置いていった夜食を回収しに階段をゆっくり下りていった。
 
ちょっと可哀想な事をしてしまったかな。
マスタングはキューカンバーのサンドイッチをお行儀悪く摘み、頭を掻いた。
そして、彼女に謝罪しようとトレイ片手に夜の台所へと歩いていった。
 
Fin.

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【後書きのようなもの】
きっと、仔リザは台所で『恥ずかしいとこ見られた! どうしよう!?』とジタバタし、『可愛いっていってもらった! どうしよう!?』と転げ回っていると思われ。
 
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