mist over

遠くから、怯えた子犬の鳴き声が聞こえる。
徹夜明けで痛む頭を抱えたリザは、ふらりと執務室を出た。
期日ギリギリまで溜め込まれた上官の書類を片付けるのに結局朝までかかった彼女は、尻を叩いて夜明けまで働かせた上官を仮眠室に送り出し、ようやく一息ついた所だった。
 
リザは、廊下の窓から光溢れる中庭を覗き込む。
あまりの眩しさに思わず目を細めるリザのその視界の片隅に、銀色に輝く大きな人影が映った。
ブラックハヤテ号がいる筈の場所にいるのは、大きな甲冑姿のアルフォンス・エルリックだった。
リザは、自分のデスクに置かれた備忘録の一項目を思い出す。
そう言えば、今週エルリック兄弟がロイに何やら頼み事があるとかで、ここ東方司令部に立ち寄ると言う連絡が入っていたのだ。
 
しかし、いくら気の短いエドワードが強硬な態度で迫ろうと、徹夜明けの今日のロイを働かせる事は至難の業であろう。
小さなエドワードにキィキィ文句を言われて頭を抱える、海月のようにふにゃふにゃになった上官を思い描き、リザは思わずクスリと笑う。
しかし、そんな事を考えている間も、子犬の鳴き声は止まない。
子犬にひゃんひゃんと吠えられ続けるアルフォンスはどうにも困り果てているようだ。
仕方ない。
リザは綿のように疲れ切った身体をおして、一段とばしで中庭へと続く階段を駆け下りた。
 
朝のまだ冷たさを残す空気を胸に吸い込んだリザは、アルフォンスの背後から声をかけた。
「アルフォンス君、久しぶりね。元気にしていた?」
「あ! 中尉、おはようございます!」
驚いた声で振り向くアルフォンスに、リザは微笑んだ。
「ごめんなさいね。驚かせてしまったかしら?」
小首をかしげるリザに、アルフォンスは首を横に振って少年らしい快活な口調で答える。
「そんなことないです。僕の方こそ、ブラックハヤテ号を驚かせてしまったみたいで、ごめんなさい」
語尾に少しの寂しさを滲ませた少年の謝罪に、リザはなるべく優しい笑顔を作って首を横に振ってみせた。
 
甲冑姿の少年・アルフォンスと相対する時、リザはいつも細心の注意を払って会話をしている。
リザたち軍人は、常に会話の端々で見られるちょっとした視線の動きや、何気ない仕草、語調の変化、無意識の表情の動きを捉え、相手の心の動きを読むクセがついている。
表情豊かな彼の兄のエドワードなど、まるで新聞の三面記事よろしく全てが顔に書いてあるので、面白いくらいだ。
しかし、鎧の姿をしたアルフォンスの場合、表情を持たない彼の内面をうかがえるのは、その声の調子と大ぶりな仕草しかない。
嘘をつくと人は右に視線が泳ぐだとか、緊張状態ではまばたきが増えるだとか、そんな基本的な情報すら得ることが出来ない。
まるでマネキンを相手に会話をしているようなものなのに、その相手の中身は多感な思春期の少年なのだから大変だ。
万が一にも彼を傷つける事のないよう、リザは注意深く彼との会話を続ける。
 
「普段は人見知りしない仔なんだけど、いきなり番犬としての自覚に目覚めたのかしら?」
子犬を抱き上げながら冗談で返すリザに、アルフォンスは当たり前のように言った。
「いいんです、中尉。僕、慣れてますから。多分、生きている気配が無いのに動くから、動物は僕が怖いんだと思います。こないだデンが大丈夫だったから、ちょっと油断しちゃって」
大きな手で頭を掻く素振りを見せるアルフォンスの姿に、リザは思わず言葉をなくす。
 
体温も体臭もないという生物として不自然な状態は、相手の正体が分からぬ不安感を動物たちにもたらすのだろう。
自分の腕の中でしきりに鼻をうごめかしているブラックハヤテ号の動きを見ながら、リザはそっと胸のうちで嘆息した。
きっと今まで幾度となく心無い人の言動に傷つけられたり、動物たちの反応に自分の今を思い知らされ、それでも彼は旅を続けているのだろう。
リザは思わず言葉にして言ってしまう。
 
「アルフォンス君、あなた強いわね」
リザの突然の言葉にアルフォンスは頭を掻く素振りを止め、真っ直ぐリザの方に顔を向けて動きを止めた。
リザは子犬を抱いたまま、自分もアルフォンスに視線を固定した。
そして、しゃがみ込んでいる彼の横に腰を下ろすと、彼の体温のない手に触れた。
朝露に濡れた鋼の手の冷たさは彼の孤独の証しのようで、リザは伝わるはずもない自分の体温が少しでもこの体を暖める事が出来れば良いのにと、らちもないことを考える。
アルフォンスはリザの行動を黙って受け入れ、しばらくしてそっと言った。
 
「僕には兄さんがいてくれます。だから、大丈夫です」
ウィンリィちゃんも、ピナコさんも、他にも沢山の人たちもね」
「そうです。それに僕には沢山の思い出がありますから」
アルフォンスは静かに、しかし力強く言葉を繋ぐ。
「小さい時兄さんとケンカして出来た傷の痛みとか、一緒に魚釣りに行った川の冷たさとか、母さんの手の温もりとか、ウィンリィとロックベルのおばさんが僕等の為に作ってくれたクッキーの味とか、忘れられない大事なものがちゃんと僕の中にあるから」
まるで自分に言い聞かせるようなアルフォンスのその言葉は、普段彼が兄にも言えず心にしまい込む弱さを追い払う呪文なのかもしれない。
リザはそう思いながら、自分の心の内をそっと覗き込む。
 
アルフォンスと同様に、リザの胸の中にも沢山の思い出が眠っている。
それは、まだ彼女が自分がこの様な人生を歩む事など夢にも思わなかった、少女の頃の優しい日々。
変わり者の父とその弟子である少年と過ごした、彼女の人生の中で最も平穏で笑顔に満ち満ちていた時。
その記憶はあまりにも温かく眩し過ぎて、まるでこの中庭の朝の光のようにリザの目をくらませるのだ。
 
「ごめんなさい、中尉。こんな話しちゃって。やっぱり僕あんまり強くないみたいだ」
アルフォンスの一言に呪縛を解かれたようにリザは現実に立ち戻り、首を横に振って彼の言葉を否定してやる。
自分の言葉にクスクス笑ったアルフォンスは、少し吹っ切れたようにブラックハヤテ号に手を伸ばす。
フンフンとアルフォンスの臭いを嗅ぎながら、子犬は今度は好奇心を丸出しにして甲冑の少年に向かっていく。
さっきからリザとアルフォンスのやり取りをじっと見ていた子犬は、飼い主の様子からこの甲冑が害を与える存在ではない事を理解したらしい。
リザはアルフォンスの手から自分の手を離し、大人しく頭を撫でられるブラックハヤテ号を少年の手に預けた。
少年と子犬は今度は友好関係を築けそうに見え、リザは戯れる一人と一匹を見ながらぼんやりと考える。
 
優しかった父の弟子は、今では彼女の上官として黙々と目的に向かって前進し続けている。
その彼に昔と同じ様な感情を持って良い訳が無い。
リザはそう自分に言い聞かせる。
厳しく生きようとする自分の邪魔をするならば、この記憶さえ消してしまいたい。
どれほどそれが寂しい事であろうとも、この想いをもまっとうする為ならば。
 
眩しすぎる朝の光が目に染みて、リザはぼんやりと霞む景色に幼い頃の自分の姿を見る。
寝不足の頭の見せる幻は、笑っているのか泣いているのかリザには分からず、ただその姿に向かって知らず知らず彼女は誰にも聞こえぬ呟きを零していた。 
「……」
その声にぴくりと一瞬ブラックハヤテ号の耳がひらめいたが、朝の風が全てを流した。
何事も無かったかの様にリザはウンと伸びをすると、いつもの表情を取り戻す。
そして、エドワードに困らされているであろう上官を救いに行くべく、凛とした副官の顔をして立ち上がった。
 
Fin.
 
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