dawn purple

午前5時。
いつもなら眠っている夜と朝の境界の時間、小さな灯火のともる部屋でリザは冷えた手を擦りながら時計に目をやった。
窓の外に広がる冬の闇は重く、時計の秒針さえ凍り付いてその動きを鈍くしているのかと思う程だった。
と、その時。
カツン、と窓ガラスに小石の当たる音がした。
待ちわびた合図にリザは急いで窓辺に駆け寄ると、細く自室の窓を開ける。
二階の窓から外を見下ろせば、もこもこに着ぶくれたマスタングが吐く息も白く、寒さに真っ赤になった顔で小さく手を振っている。
リザは窓を閉めると、彼に言われていた通り自分が持っている中で一番温かいコートを大急ぎで羽織ると、マフラーと手袋を片手に、もう片方の手に靴を持ち、細心の注意を払って静かに静かに部屋の扉を開けた。
 
物音をたてないようドアを閉め二階の廊下を抜けたリザは、抜き足差し足で父の部屋の前を通る。
古い家は、まるで意地悪をするように一足ごとにギシギシと音をたて、リザはヒヤヒヤしながら猫のようにひっそりと爪先立って一番の難関をクリアした。
急いで靴を履き、逸る心を抑えて軋む階段を降りれば、玄関はすぐそこ。
そろりと玄関の扉を開けば、頬が切れそうな冷たい空気の中、笑顔のマスタングが自転車に跨って待っていた。
 
「先にマフラーと手袋! 寒いんだから」
駆け寄るリザの手からマフラーを取り上げ、彼女にぐるぐる巻きつけながら、マスタングは白い息を吐きひそひそと話しかけてくる。
「師匠に見つからなかったかい?」
「はい」
返事をするリザの吐く息も白い。
「じゃあ、行こうか」
「あの、何処へ?」
「それは着いてのお楽しみだよ」
そう言ってマスタングは、自転車の後部座席にリザをいざなう。
少し躊躇ったリザは意を決して、えい! とばかりに勢い良くマスタングの自転車に横座りに乗って、座面の端を掴んだ。
それを確認したマスタングは、ゆっくりと街灯も疎らな田舎道の暗闇の中に自転車を漕ぎ出した。
真っ暗な冬の夜はあっという間に小さな二人の姿を飲み込んで、後には静寂だけが残される。
少しの不安とマスタングへの信頼を胸に、リザは一寸先も見えない闇の中、自転車の振動に身を任せたのだった。
 
「あの、本当に良かったんですか?」
自転車の後ろで揺られながら、リザは遠慮がちにマスタングの背中に尋ねる。
「何が?」
「だって、お友達と集まって年越しパーティーをなさるって」
「ああ、あいつらなら去年のうちに酔いつぶれて、日付が変わったのにも気付いてないさ」
可笑しそうに答える彼の言葉に、リザは血相を変える。
「酔いつぶれるって!マスタングさん、飲酒年齢に達してらっしゃらないじゃないですか!?」
リザの剣幕に動じる風もなく、マスタングは笑った。
「“新年くらい堅いことは言いっこなしだ”ってのが、うちの養母(はは)の言い分でね。保護者が酒を用意してるのは、流石に我が家くらいだろうな」
マスタングの言葉に、リザは目を白黒させて黙り込んだ。
 
大らかな、と言っていいのだろか?厳格なホークアイ家では、想像もつかない情景だ。
リザの気配を察したのだろう、マスタングはフォローのように言葉を足した。
「まぁ、未成年が知らない所で悪さをして事件になるよりは、自分の監督下で少し羽目を外すのを見逃す方が安心だと思っているんだよ、あの人は」
「そういうものなんでしょうか」
「まぁ、あの人にかかったら、私なんか坊や扱いだからね」
リザは更にびっくりする。
父とも対等に議論を交わし、リザから見れば大人のお兄さんにしか見えないマスタングが、坊や扱いされているなんて!
リザは何と言って良いものか分からなくなって、黙り込む。
 
それを合図に、今度はマスタングが彼女に尋ねた。
「リザの方こそ構わなかったのかい?」
坂道にさしかかった自転車に、ペダルを漕ぐ彼の足に力が入る。
「はい、前にも申し上げた通り、我が家は新年のお祝い事には縁がありませんから。父はいつも通り書斎に籠もりきりですし、ご馳走を用意しても普通に食べておしまいです」
「はは、師匠らしいな」
短い返事と共に、マスタングはますます急になる坂を息を切らせて登っていく。
 
「あの、マスタングさん。私、降りましょうか?坂道ですし、それに、あの……、私、重たいでしょう?」
「ん、大丈夫だ。重くない。重くないったら重くないぞ」
躊躇いながら気をきかせたリザの言葉に、まるで自分に言い聞かせるような返事をしたマスタングは、自転車のサドルから尻を半分浮かせて必死にペダルを漕いでいる。
なんだかムキになっている彼の姿がいつもより身近に思えて、リザは一人微笑んだ。
 
昨年最後の父の講義の日、何かの話の弾みでリザから新年の予定が何もないことを聞いたマスタングは、初日の出を見に行こうと彼女を誘ってくれたのだ。
何度も遠慮して断るリザに、マスタングは半ば強引に約束を取り付けた。
彼女の父なら、初日の出など『毎日同じ陽が昇り落ちるというのに、わざわざ見に行く方が不思議だ。日蝕や月蝕ならともかくも』というのがオチだ。
同じ錬金術師でもこうも違うものなのか、とリザは不可解に思う。
 
新年も誕生日も1人で過ごすことに慣れたリザを、世間でいう所の“一般的な日常生活”に引っ張って行こうとするマスタングの存在は、気づけば彼女の生活になくてはならないものとなっていた。
それが面映い様な、嬉しい様な、自分でも理解出来ない感情に振り回され、リザは彼と二人きりになるとどうして良いか分からなくなる。
今だって一生懸命喋っているけれど、特に話題もない自分がつまらない子供に思えて、リザは軽い自己嫌悪を感じていた。
 
その時、
「リザ。いったん下るから、しっかりつかまって!」
「きゃ!」
考え事の最中に不意にかけられた声と急加速する自転車に驚き、リザは思わず目の前のマスタングにしがみついてしまう。
リザは自分の大胆な行動に赤面し、彼の身体に回した手を離そうとしたが、凄まじい勢いで加速する自転車のスピードはそれを許さず、結果、リザは夢中でマスタングにつかまるしかなくなってしまう。
緊張のあまり頭の中が真っ白になるリザの耳に、風に負けないように声を張り上げるマスタングの言葉が届く。
「リザ。しっかりとは言ったが、そこまで力いっぱいだと、流石に腹が苦しいんだが」
苦笑混じりの声音に、リザはハッとして手に込めた力を緩める。
熱くなる頬をマスタングの背に押し付け、リザは早く坂道が終わるよう一心に祈った。
 
下り坂が緩やかな傾斜に変わり、リザは急いでマスタングから手を離す。
「……ゴメンナサイ」
ぎこちなく謝るリザに頓着せず、彼は言葉を継ぐ。
「寒いからくっ付いてくれるのは構わないんだが、如何せん真っ暗なんで私もちょっと余裕がなくてね。何せ道が見えない」
「え!?」
「あー、大丈夫だよ。よく来る場所だから、星明かりでだいたいは分かる」
マスタングは笑って、リザの方を少し振り向く素振りで言った。
 
「それに例え万一何かあったとしても、その時は私が全力でリザを守るさ」
思わぬマスタングの言葉に、リザは瞠目する。
そして、ストレートな言葉に感じた嬉しさをマフラーに埋めた口元に隠し、マスタングの顔が見えないことに勇気を得て、リザはマスタング上着の裾をぎゅっと握り締めた。
マスタングがそう言って一緒にいてくれるなら、身を切るような風の中でだって、暗闇の中でだって何処までも行ける気がした。
再びの登り坂に息を切らすマスタングの背中に、表現のしようのない暖かな感情を覚えながら、リザは大人しく自転車の振動に揺られていた。
 
やがて空は漆黒から深い群青へと色を変え、行く手が仄かに白み始める。
まるで夜明けに向かって走っているような気がして、リザは寒さに強張った顔が自然にほころぶのを止められなかった。
「もう少しだから! ああ、くそっ。日の出前に着けるかな」
独り言めいた言葉と共にがむしゃらにペダルを漕ぐマスタングが、緩いカーブを曲がり切ったその先には。
白み始めた東の空とそれを映す鏡のような湖が広がっていた。
 
マスタングがブレーキをかけ自転車を止める間にも、空はどんどんその明るさを増していく。
漆黒から群青、紫、瑠璃の色から水の色、様々な形容しつくせない種類の青がグラデーションを作って空を埋め尽くしている。
空の一番地面に近い部分は、刷毛で掃いたような淡いオレンジ色が刻々とその色合いを変え、やがて闇は姿を消し、低い空にかかった紫色の細い雲たちがサーモンピンクに、薔薇色にと頬を染めた。
そして空の上で様々な色に分解されていた光は、遂にその姿を取り戻し、太陽の形をして世界を照らし始めた。
鏡面のような湖には全く同じ光景が地平で対称に映り込み、幻想的な夜明けを更にドラマティックに演出する。
 
リザは自転車を降りるのも忘れ、ぽやんと口を開けてその光景に見惚れた。
この世にこんな美しい景色がある事を彼女は知らなかった。
泣きたいような気分で隣に目をやれば、まだ息を切らしているマスタングが、リザを見て満足げに微笑んでいる。
 
「新年おめでとう、リザ」
自分がマスタング上着の裾を掴んだままなのも忘れ、リザは笑った。
「おめでとうございます、マスタングさん」
ぐんぐんと力強く上昇する朝陽を浴びて、二人は新しい世界の始まりに立ち会うかのごとく、自転車の上で寄り添って新年の始まりの時を共に過ごしたのだった。
 
 
Fin.
 
 **************
【後書きのようなもの】
“明けない夜はない”と、かのW.Sha/kes/peareも言っています。
これはこれでまた、別の冬の青のお話。
彼らを迎える新しい世界が希望に満ち溢れたものでありますように。
 
旧年中は、皆様この小さなBlogにお付き合い頂きありがとうございました。
本年も、どうぞよろしくお願い致します♪
 
お気に召しましたなら。

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