Embrace me.

「なんだ?」
「…いえ。何も?」
微かに柳眉を寄せながら、彼女は手にした書類へと視線を戻した。
いつもなら、何だかんだと理由を付けてはサボりたがる癖に…
こうも真面目に仕事に専念されると、却って妙な感じがする。
定位置に座り耳を澄ませれば、積み上げられた書類の向こう側でペンを走らせる音とサインを済ませた書類を捲る音だけが
規則正しく繰り返されている。
そして、それは定時を告げるベルが鳴り響く直前まで止まることはなかった……。


Embrace me.


「珍しく仕事に励まれていると思ったら…」
「ひどいなぁ。私だってたまには真面目に頑張るさ。それに、定時に終わる為に私がどんなに頑張った事か」
「仕事を頑張るのは当たり前でしょう?何を馬鹿な事を仰っているんですか全く…」
ベッドの端に腰かけたロイから琥珀色の液体の揺れるグラスを受取り、ローテーブルに置くと、
彼女は苦笑しながら小さな溜息をついた。
そんな彼女の様子を構う事なく、ロイは彼女を誘うべく、ぽん、と軽く隣の空間にを叩いた。
相変わらず、と苦笑を浮かべる彼女もまた、相変わらず遠慮しつつそっとロイの隣に腰を下ろす。
それを合図とする様に近づいてくる黒曜石の瞳に、彼女はそっと瞳を閉じた。



「…ふ」
光を反射して煌めく柔らかな金糸に指を埋めながら、ロイはふと思う。
それこそ、数え切れないほど口唇を重ねているというのに。
触れるだけで、蕩ける様に柔らかな薄紅彩(うすべにいろ)した口唇はいつも容易く理性を崩壊させてくれる。

誰よりも愛しくて…

誰よりも大切で、

柔らかな光を放つ金糸のひとすじ、白く滑らかな爪先。

その全て手に入れてもまだ足りぬ程愛しくて…

いっそ全てを壊してしまいたくなる程に愛しくて…

柔らかな躰を身動き出来ぬ程に抱きしめて、呼吸すら全て奪い取るかの様に重ねられた口唇の、
その微かに開かれた隙間から忍び込み、絡め取れば、僅かに残った理性の全てを奪い去るかの様な甘い声が零れ落ちる。
「ぅん…」
蕩ける程に甘く柔らかな感触に、文字通り、溺れる様に深く口付ければ、息苦しさからか、抱きしめた腕の中。
シャツの胸元に添えられた細い指先が、更に深い皺を刻んで行くのを、彼は閉じた瞳の奥で感じていた。



「…ふ」
彼の柔らかな口唇が触れた瞬間、足元が崩れ去ったかの様に己の躰すら支えられなくなる。
けれど、それはほんの束の間…。

吐息すら、全てを奪い去る様に重ねられた口唇が、とても苦しくて。

けれど、触れる温かさはとても優しくて。

狂おしい程の力で抱きしめられた躰は悲鳴をあげるのに、

心はどこか物足りなさを感じている。

唯一の感覚を与える口唇は、

全ての感覚を奪い去る。

溺れ、流されてしまわない様にと、縋る様に伸ばした指先に触れた柔らかな感触を、彼女は縋る様に握りしめた。



柔らかな黒髪が、くすぐる様に肌の上を滑ってゆく。
何よりも心地よいその感触に、ルームライトの光を反射して煌めく鳶色の瞳を閉ざしながら、
彼女はゆっくりと、水底へと沈むような感覚を覚えた。
それはまるで、いつか聞いた童話の中のお姫様のように。
誰よりも愛しい男(ひと)を抱きしめたまま、どこまでも深い海の底へと、
誰にも妨げられることない二人だけの世界へと沈む様で…

肌の上を曲線にそって辿る熱い感触に、彼女は、あぁ、と溜息の様に小さな吐息を漏らしながら、
そっと柔らかな黒髪に白い指先を差し込んだ…。
 


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シークレット・ガーデンの朔夜様より、10万打リクエストでお願いさせて頂きましたSSです。
リクエストいたしましたのは「ロイアイで奪う様なキス、蕩ける様なキス」。
読んでる方が蕩けてしまいそうな素敵なお話を頂いて、有頂天です。しかも、背景まで頂いてしまいました。うふふ、嬉しい!
朔夜様、どうも有り難うございました!