sunflower

ホークアイ家のダイニングテーブルの一角で、マスタングは師匠から借り受けた本を片手にペンを走らせている。
この週末は、いつもにも増してホークアイ師匠とマスタングの議論は白熱し、マスタングは夕食後ダイニングテーブルから移動することなく何かを考え続けていたかと思うと、いきなりガリガリとメモを取り始めた。
以後3時間、ずっとそのままの状態が続いている。
 
リザはそっと爪先立って彼の背後をすり抜け、台所に入ろうとした。
錬金術に熱中したマスタングが周囲の事が全く目に入っていないのは分かってはいたが、なるべく邪魔になるような事はしないよう、リザは心掛けていた。
 
なのに。
マスタングの真面目な横顔にふと気を取られ、リザは椅子に躓いてしまう。
あっと思った時には遅かった。
リザの手から滑り落ちたマグカップは床の上でガシャンと盛大な音をたて、リザは泣きたい気持ちでしゃがみ込んだ。
 
「大丈夫かい?」
マスタングは椅子からすぐに立ち上がって、リザの手を取った。
「怪我は?」
リザの手を確認するマスタングに、リザは頷いてパッと手を引いた。
「大丈夫です。邪魔をしてしまって申し訳ありません」
マスタングに触れられた指先が熱く感じて、火照る頬を抑えリザは無表情を装って答える。
割れた破片を拾おうと手を出せば、マスタングは笑ってその手を抑えた。
 
「私を何だと思っているんだい?」
彼はそう言うと、ポケットからチビたチョークを取り出して、床に錬成陣を描き始める。
リザは一瞬彼が何を始めたか分からず、一拍置いて彼の意図を悟る。
「これでも錬金術師の端くれだよ」
彼女にとって錬金術とは父の机の上で行なわれている研究であり、実際に使われる所はほとんど見たことがなかった。
だから、マスタングの行動が分からなかったのだ。
『私は錬金術師の娘なのに』と少し寂しく思うリザの思いも知らず、手早く描き終えたマスタングは錬成陣を発動させ、あっという間にマグカップを元通りにしてしまう。
見慣れぬ光景に呆然とするリザを眺めて、マスタングはマグカップを手にゆっくり立ち上がると、ひとつ伸びをした。
 
「ああ、もうこんな時間か」
お行儀悪く片足で錬成陣を消しながら、マスタングは悪戯っぽく笑う。
「リーザちゃん」
だいたい彼がこんな猫なで声を出す時は、リザにお願い事がある時なのだ。
「何ですか?」
「何か飲みたいな、リザのいれてくれる美味しいのが」
明るい笑顔が眩しくて、リザは無意識に目を逸らして俯いた。
こういう彼の天性の明るさに救われてもいることもあるのだということに、リザ自身気付いてはいる。
無意識なのか分かってなのか、感情を殺すことに慣れた彼女を当たり前の日常に引き上げてくれるのだ。
しかし、リザはマスタングの前で未だ仏頂面を崩すことが出来ないでいた。
 
「お茶で良いです?」
「リザの飲みたいもので良いよ。台所に行こうとしてたんだろ?」
この全てお見通し、という態度が癇に触るのだと思いながら、リザは肩が凝ったとグルグル腕を回すマスタングに言った。
「全く錬金術の事になると、マスタングさんも父も時間を忘れ過ぎです」
リザのイヤミをマスタングは肩をすくめて受け流し、手にしたマグカップをダイニングテーブルの上に置く。
リザはそれを取ろうと手を伸ばし、ふと机の上のマスタングのノートに目を留め、驚きに目を丸くした。
 
マスタングさん、お勉強してらしたんじゃないんですか!?」
「へ?」
リザの視線の先を見て、間抜けな声を漏らしたマスタングはノートを見て笑う。
「これかい?」
「そうです。だって、それって」
「そう、カクテルのレシピだよ」
当たり前のように言うマスタングは、混乱した表情のリザに優しく説明してくれる。
 
「これはね、暗号なんだ」
「暗号?」
錬金術師は自分の研究が他人に盗まれないよう、暗号を使うんだ」
「本当に?」
一見、カクテルのレシピ集にしか見えないマスタングのノートがどうなったら錬金術に変化するのかリザには全く理解出来なかった。疑わし気なリザの視線に、マスタングは少し困った顔で答える。
「師匠に聞いたことない? 師匠の研究記録は一見古代史の論文にしか見えないよ」
「父は錬金術の事は何も話してくれませんから」
本当に自分が錬金術のことを何も知らないことに、リザは少なからずショックを受けてしまう。
寂し気に俯くリザに、マスタングは更に困った顔になり慌てて話題を変えた。
 
「暗号と言ってもそんなに難しくはないんだよ。ほら、例えばこれ。このマークが文章の始まりの印で、続く単語の二文字目を拾っていくんだ」
ノートを指しながら一生懸命説明するマスタングの変な優しさが可笑しくて、リザはそのペースに巻き込まれる事にする。
「で、その単語を逆から並べて元の文章にはめ込んで、そこから」
しかし、マスタングの暗号はやたら凝って難しいものだったので、リザはだんだん訳が分からなくなり、眉間に皺を寄せる羽目になってしまう。
 
そんなリザを見てマスタングは困ったなと頭を掻いた。
「もう少し分かり易い例えにしていただけると、分かるかもしれないんですけど……」
申し訳無さそうに言うリザに、やたら難しい話をしてしまったとマスタングは逆に謝ってくる。
そうして少し考える素振りを見せると、傍のマグカップを手に取ってリザを見た。
 
「もっと簡単に言うとだね。こうやって普通に話をしている最中に、だ」
マスタングは手に持ったマグカップでコンコンと二度机を叩いた。
「こうやって二度合図を送ったら、それが“ここからが暗号の始まりですよ”という合図になる」
うんうんと頷くリザにマスタングは説明を続ける。
 
「分かったらお返しに同じ合図を返してみて」
リザは指先でトントンと机を表面を弾いた。
「よし、じゃぁ紙とペンを渡すから私が今から話す言葉から人の名前だけを書き出してご覧?」
「はい」
リザは素直にマスタングからペンを受け取ると、真面目な顔で身構える。
「そんなに肩肘張らなくていいよ、遊びなんだから」
マスタングは笑ったが、リザは真剣だった。
 
マスタングは肩をすくめて言葉を続けた。
「トリシャは、エドワードとアルフォンスの母親だ」
そして言葉の最後に、コトンとマグを机に落とす。
「はい、これが終わりの合図。分かったら同じ合図を」
リザは頷いて、自分もペンの先で紙の上から机を1度トンと叩いた。
「今、書き出した人名の先頭の文字だけ読んでごらん?」
 
Trisha……Edward……Alphonse……ということは。
「TEA! 紅茶ですね!」
「当たり!」
パッとリザの表情が輝いた。
マスタングはキラキラと目を輝かせるリザの笑顔に目を細める。
普段あまり表情を露にしない彼女の笑顔が、花のように眩しく感じられたからだ。
 
「じゃ、今度はもう少し長い文章にしてみようか」
「はい!」
「暗号だから、リザも話を合わせてみてくれるかい?」
「はい!」
マスタングとのゲームの様なやりとりが楽しくなり、リザはペンを持ち直してマスタングをじっと見て待つ。
少し考えてから、彼はリザに向かってゆっくり話し始める。
 
「先週の週末は来れなかっただろう?」
「はい」
「ちょっと師匠に頼まれ事を仰せつかってね、街の図書館に行っていたんだ」
「そうなんですか」
「行きのバスでヒューズに会ったんだが、ヤツも忙しいようで直ぐ分かれてしまった」
ヒューズさん、名前だけれどまだ合図がないから……。
リザは少し考えて微動だにせずロイを見つめる。
そんなリザを満足げに見て、ロイは机の下でドンドンと足を踏み鳴らした。
リザは直ぐに合点して、ペン先で紙をトントンと叩いた。
 
「図書館で司書をしているシェスカに頼んで本を出してもらったんだけれど、マイルズに今貸し出していると言われてね」
リザは一生懸命、紙の上に名前を書き始める。
最初がSheska……そしてMiles……。
 
「同じ司書のイズミが、ああリザは知ってるよね。エドワードの師匠の」
「はい、知っています」
リザはイズミを知らないけれど、話を合わせて適当な返事をする。
Izumi……Lizaは呼びかけ? でも名前だから。そして、Edward
 
「彼女が『オリヴィエとニーナとマリアがこの後貸し出しを予約しています』と言うんだ」
「そんなに人気のある本なんですね」
Olivier……Nina……Maria……
「ああ。で、私も困ってしまってね」
「どうされたんですか?」
 
「だから、同じ本を持っているエリシアに借りることにしたんだ」
そう言って、マスタングは手にしたカップをコンと机に当てた。
最後はElicia。
 
リザもペンを置いて右手の指先で、トンと控えめに合図を返す。
マスタングは何も言わず、ニコニコと笑いながらリザを見ている。
文章になると文節を区切らないといけないから、さっきよりずっと難しい。
リザは手元の紙をじっと見る。
 
S、M、I、L?
 
リザはハッとして、マスタングを見た。
極上の笑顔でマスタングはリザに言う。
「そうやって夢中になって笑ってる方が可愛いよ、リザ」
「!」
リザは一瞬照れたあまりむくれた顔になって、俯いてしまう。
しかし意を決して顔を上げると、リザはマスタングを真っ直ぐに見つめる。
そして頬を染めたまま、彼女は彼に向かって微笑みを浮かべてみせた。
 
向日葵の様な、とびきりの笑顔を。
 
 
 
Fin.
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【後書きのようなもの】
19巻の暗号ネタです。
二人の間に暗号があるというのは原作以前にoverflowで書いてしまったので、特に萌えはなかったのですが(笑)、やっぱり一度は書いておきたいなと。
あの暗号自体は非常に単純なものですから、きっとこんな風に二人の幼い頃の遊びの中で出来上がったのではないかと思いまして、こんなお話にしてみました。
 
マスタングの例文は完全なお遊びで、頑張って鋼キャラの名前を使ってみました。
貴方にこの暗号は解けましたでしょうか? にこにこ