mignight blue 後編

不意に、リザの気管を圧迫していたロイの手が緩んだ。
身体は反射的に流れ込んだ新鮮な空気を貪り、ひゅうひゅうと喉を鳴らしてリザはよろめく。
そんなリザをしっかりと抱き止め、ロイは強張ったリザの指をゆっくりと開いてその汗ばんだ手から銃をもぎ取った。
 
リザはされるがままに銃を手放すと、未だ朦朧としながらも頬に触れたロイの胸にすがりつく。
肺を満たした空気が段々と全身に染み渡り意識が明瞭になるにつけ、リザは頬の下に響く力強い鼓動を感じ彼が生きているという事実に安堵する。
と同時に、ドクドクと脈打つ命そのものの働きである拍動を今まさに己の手で止めようとした行為の恐ろしさが、今更のようにひしひしと迫り、リザは急激に体温が下がるような錯覚をおぼえ身をすくめた。
リザの動きを察知した男は、ゆっくりと優しく彼女の背を撫で、囁くように言った。
 
「怖かったかね?」
素直にコクリと頷くリザの頭を撫でると、ロイは彼女の顔を自分の胸に押し付ける。
「私も恐ろしかった。この手の中で君の脈が浅くなっていく感覚が分かるのが。一生、人殺しに慣れる事などないのだろうな」
嘲うような声音にリザが顔を上げようとすると、男の手は強引にリザの頭を押さえ込んだ。
その手は微かに震えている。
感情を露わにしているのを見られたくないのだろう。
リザは大人しくロイの胸に頬を埋める。
規則正しく響くロイの鼓動が次第にリザの心を落ち着かせ、それと同時に彼女を悩ませていた頭痛も徐々に引いて行った。
 
「申し訳ありません」
「否、始めたのは私の方だ。少々逆上してしまったらしい。すまなかった」
「いえ、私の方こそ」
リザは僅かに口ごもり、そして言った。
「夢とは言え、酷い事を申し上げました。申し訳ありません」
「思い出したのか?」
「はい……」
少し躊躇ってリザは思い切って、ロイに尋ねる。
 
「中佐も何か嫌な夢を?」
「……ああ」
少々の間の後の返事に、ロイは普段は見せぬ弱さを滲ませた。
「イシュヴァールで最後に殺したご老人を見た。何度殺しても彼は目を開け、私に向かって淡々と『恨みます』と言うんだ」
そんな無限地獄から目覚めた時、同衾している女に“殺して下さい”などと言われてはたまったものではなかったろう。
焔の錬金術師の名で己を鎧いながら、その焔の犯した罪に灼かれる哀しい男の背に手を回し、リザは彼を抱き締めた。
 
珍しくロイがリザにもたれかかるように身体を預けてきた。
「君は?」
「イシュヴァール戦が終わって背中を焼いていただく時に、このまま殺して下さいと貴方に懇願し、互いに殺しあう、そんな夢でした」
リザはこれ以上ロイを傷付けたくなくて、夢の全てを語らず目覚める直前の部分だけを語った。
思い出した夢は、本当はもっとずっと長く酷いものだった。
血と臓物と焔にまみれ、憎悪と哀惜と悔恨を抱えて戦場を這いずる悪夢。
 
しかし、リザはそこで口を噤む。
おそらくはロイもリザを気遣い、夢の全てを語ってはいないであろうという確信が彼女にはあった。
その確信がそれ以上の言葉をリザに言わせなかった。
 
「そうか」
リザが全てを語っていない事に、きっとロイも気付いているだろう。
しかし、そんなことはおくびにも出さず、彼はリザの頭頂に口付けを落とす。
「君が夢で苦しんでいるのを見て、これで全てが済むのならと一瞬考えてしまった」
彼は、罪に苦しむリザが見た夢をも己の罪の産物として受け止めているのだろう。
リザは何も言えず、ロイの背に回した手に力を込めた。
ロイは彼女の包容を受け入れ、ホロリと言葉を零す。
 
「自分で否定したくせに、すまん。まぁ、君と共に死ねるならそれも本望なのだがな」
おどけた口調に潜む真実の匂いにリザは幾ばくかの驚きを感じ、ロイの手に抗って顔を上げた。
そこには、時に冷酷なまでにリザの弱さを叱咤し、揺るぎなく前を向いて歩いている強い上官の姿はなかった。
ただ傷付き疲れたひとりの男が、リザを見下ろしていた。
 
虚を突かれ少し情けない表情で自分を見つめるロイが哀しく、そして愛おしくて、リザは手を伸ばしてその頬を撫でる。
自分の漏らした弱さが彼に重責をかけ、こんな表情をさせたかと思うと、自分の不甲斐なさがリザは口惜しかった。
「情けないと思うかね」
真顔で尋ねるロイにリザはふるふると首を横に振り、両手で彼の顔を挟み込む。
彼岸を垣間見た時、リザ自身も同じように考えたのだから、ロイを責めることなど出来なかった。
 
しかし、ロイはそんなリザの否定を笑って振りほどく。
「沢山の人の人生をその人の許可なく終わらせた、その私達が勝手に死にたい時に死ねる訳が無いはずなのにな」
リザは間接的に自分の弱さを突かれ、思わず絶句する。
確かにロイの言う通りだった。
生きたくても生きられなかった人たちを、この手で沢山殺したのだ。
そうして生き残ったくせに死にたいとは、何と言う勝手だろう。
 
「逃げてはならないのは分かっている。君が言った通り、私には焔の錬金術師であり続ける義務もあるのだからな」
「申し訳ありません」
リザがおもわず零した謝罪の言葉に、ロイは不思議そうな顔をする。
「何故君が謝る?」
「秘伝をお伝えしたのは私です」
「欲したのは私だ」」
膿み疲れた表情を晒してすら、全てを独りで背負う覚悟がリザの謝罪を拒むのだと気付き、リザは更に哀しみを覚える。
 
何度肌を重ねても二人の間に横たわる溝、それは互いが互いを気遣い合うからこそ生まれた孤独。
相手を気遣って嘘をつき、自分を気遣う相手の嘘を分かっていながら受け入れる。
相手の苦しみを癒やしたいがために、己の苦しみを己の中に封じ込める。
どれだけ側にいようとも、どれだけ共に時間を過ごそうと、分かち合えぬものは永遠に存在する。
それでも、二人は共に生きるのだ。
二人でいればいるほど独りであることを痛いほどに感じながらも、互い無しでは生きて行けないのだから。
 
「もう二度とこんな考えは起こさん。焔の錬金術師の名に賭けてな」
いつもの不敵さを取り戻しつつあるロイから視線をそらし、リザは目を伏せる。
男がまた、リザを守る為に自分の中に全てを封じ込めようとしている事に気付いてしまったから。
 
しかし、それも一瞬。
リザはきりりと顔を上げる。
自分の弱さが男の孤独を深めるのなら、自分はそれを捨てなければならない、と。
 
まず手始めに、明日からはベッドに銃を持ち込むのは止めよう。
リザはそう心に決め、何も言わず自分から目の前の男に口付け、彼を驚かせたのだった。
それは、目に見えぬ何かの始まりの合図だった。
 
 
 
Fin.
  ********************************
【後書きの様なもの】
久々に長いの書いたら、着地点がブレました、申し訳ありません。
自己満足で、お恥ずかしい限りです。陳謝。
 
16巻p11のリザさんの科白、
「沢山の人の人生をその人の許可なく終わらせた その私達が勝手に死にたい時に死ねる訳が無いはずない」
にわざわざ「」が付いているのは、過去に二人がこの話題を交わしたことがあるのではないか、と言う妄想から生まれたお話です。
中佐&少尉時代は、二人とも若くてもっと揺らいでいたのではないかなと。