overnight

overnight:【形】夜間の、夜通しの、夜を徹しての
 
     *
 
気のせいだと思うことにしよう。
ケホケホと乾いた咳をしながら、リザは鞄の中に教科書を仕舞う。
朝からちょっと頭が重たく感じるのも、鼻水が出てくるのも、気のせい。
だって帰りにお夕飯の買い物をしなくちゃいけないし、それに何より今日はマスタングさんが父に錬金術を習いに来る日だから。
だから、風邪なんて引いていられない。
リザはさっさと帰り仕度を済ませると、教室を出た。
今日の献立は何にしよう。
寒いから、温かいシチューがいいかもしれない。
前にマスタングさんに美味しいと誉めて貰ったホワイトシチュー。
ニコニコと思い出し笑いをすると同時に、リザはクチュンと可愛らしいくしゃみをして鼻をすすった。
気のせい、気のせい。
リザは呪文のようにそう唱えて、鞄を背負って表へ飛び出し商店街へと急いだ。
 
リザが買い物を終えて帰宅すると、マスタングは既に来宅していた。
父親の書斎で難しい顔をして本を読んでいる姿は、いつもの彼とは別人のように凛々しく見えて、リザはちょっとドキドキする。
が、リザの気配に気付いたマスタングが振り向いてフニャリと笑うと、急に気恥ずかしくなり、ぶっきらぼう
「こんにちは」
とだけ挨拶をして、彼女は台所へと駆け込んだ。
いつもどうしてこう素直になれないのだろう?
リザはエプロンをして、夕食の準備に取り掛かりながら後悔する。
マスタングさんが笑ってくれたら、笑い返せば良いだけなのに。
無愛想な分は、せめて美味しいご飯で補おう。
リザは鶏肉、タマネギ、じゃがいも、セロリ、人参、を次々に一口大に切って鍋に入れ、軽く炒めてから煮込む。
そして、別な鍋で溶かしバターと小麦粉をミルクで伸ばしホワイトソースを作り始めた。
塩胡椒で味付けをして味見をすると、何だか味が薄い。
いつも通りに作ったはずなのにと味の調整をして、リザはクシュクシュと連続してくしゃみをする。
胡椒のせい、胡椒のせい。
リザはそう呟いてさっさと料理を仕上げると、父とその弟子に夕食の時間を知らせに書斎へと向かった。
 
ちょうど一段落ついたところだったらしい二人は、リザが呼びに行くとすぐにダイニングにやってきた。
食卓に並んだシチューやサラダを見て、マスタングは相好を崩す。
「いつもながら、美味しそうだな」
そう言われて悪い気のする人間がいるわけもなく、リザは嬉しさを隠しきれず顔をほころばせた。
無愛想な父は食事を作ったところで美味いとも不味いとも言わずただ黙々と食べるだけの人間なので、マスタングが来るようになってからリザは食事を作る楽しみを知った。
美味しいと言ってどんどんお代わりをしてもらえると、頑張って作った甲斐があるというものだ。
今日も沢山食べてもらえると良いな。
リザは少し緊張して、マスタングの様子を伺う。
すっかり放ったらかしにされた父親は、ギョロリとリザを注視していたが、何も言わずシチューを啜りだした。
 
リザの見守る中、シチューを一口食べたマスタングは微妙な顔をした。
何かおかしかったのだろうか。
リザは何だか不安になる。
やっぱりまだ味が薄かったのだろうか?
マスタングはもう一口シチューを口に運びジッとリザの方を見てから、スプーンを置いて立ち上がった。
慌てるリザの元に歩み寄ると、マスタングは彼女の額に自分の手を当てた。
ヒヤリと冷たい大きな手が心地良くて、リザは不意にぐらりと視界が回る気がした。
「やっぱり」
マスタングは呆れた顔で己の師匠に向き直る。
「師匠。こんなに真っ赤な顔をして、熱もあるのにどうして寝かせてやらないんです?」
ああ、バレてしまった。折角自分をも誤摩化していたのに。
しょんぼりするリザを横目に見て、彼女の父はマスタングの問いに淡々と答える。
「リザが何も言わないからだ」
父親は静かにシチューを食べ続けながら、言葉を繋ぐ。
「辛ければ自分から言ってくるだろう。もう子供でもあるまいに。リザ自身が起きて家事をすると選択したのだ。何の否やがあろうか」
 
師匠の答えにぐっと詰まったマスタングは、熱でぼんやりしたリザの瞳を覗き込んで問う。
「どうしてこんなに熱があるのに起きている?」
リザは返事に詰まる。
マスタングさんが来るから、なんて恥ずかしくてとても言えない。
黙りこくるリザをじっと見てマスタングは、師匠を振り向き真っ直ぐに言い放つ。
「師匠、後片付けは私がやりますから、リザを休ませて良いでしょうか」
マスタングさん!?」
自分を仰ぎ見るリザを一顧だにせず、マスタングはじっと師匠の返事を待つ。
「リザがそう望むなら」
リザの父は2人をチラと見て、面白くも無さそうに答える。
「ありがとうございます」
マスタングは有無を言わさず、リザの手を掴むとダイニングルームから彼女を引きずり出す。
繋いだマスタングの手はやはりヒヤリと冷たいのに、リザは熱が上がったようにますます頬が紅潮してしまう。
 
マスタングさん、離して下さい!」
「ダメだ。こんなに熱があるのに起きていて良い訳がない」
「でも、お食事も途中だし片付けもまだだし」
「いいから」
力の入らない手でリザが抵抗しても、彼は全く耳を貸さない。
仕方ないと、リザは作戦を変える。
マスタングさん、手が痛いです」
「ああ、すまない」
そう言って彼が手を緩めた隙にリザはするりと逃げ出そうとするが、直ぐに首根っこを捕まえられてしまう。
「そんな手が通用すると思っているのかい?」
リザは自分の失敗に気まずくなり、呆れた声のマスタングの顔を見ることが出来なかった。
「猫じゃありません!」
せめてもの抵抗に掴まれた首根っこに抗議してみるも、流石に今度は聞いては貰えなかった。
「君が逃げるからだ。嫌なら抱っこするぞ」
リザは渋々マスタングに従う。
これ以上ドキドキさせられたら、口から心臓が飛び出してしまいそうだ。
結局リザは不本意なまま、自室に連行されてしまった。
 
「私は夕食を片付けてくるから、それまでにちゃんと支度してベッドに入っているように」
そう言って部屋を出ようとするマスタングを、リザは呼び止めた。
どうしても、聞いておきたいことがあったのだ。
「あの、マスタングさん」
「何? まだ抵抗する気なのかい?」
怖い顔を作ってみせるマスタングに、潤んだ瞳が縋るように訴える。
「あの……お夕飯のシチュー、美味しくなかったですか?」
予想外の問いにマスタングは渋面をゆるめ少し吃驚した顔になり、そして優しく笑って答えてくれた。
「美味しかったよ」
「でも、あの時」
「何故直ぐに食べなかったかって?」
コクコクとリザは頷いた。
「いつもより味付けが濃かったからだよ。それに真っ赤な顔をしているから、ひょっとして熱があるんじゃないかと思ってね。案の定だったんだけれど。きっと熱のせいで、味覚がおかしくなっているのだと思うよ」
ポヤンと立ち尽くすリザの頭をクシャクシャと撫で、マスタングはそう答えてドアに手をかけた。
「じゃ、続きを食べて戻ってくるから、それまでに着替えてベッドに入っているんだよ」
マスタングが部屋を出て行くと、リザは力が抜けてベッドに座り込む。
 
ああ、良かった。
ちゃんと食べてもらえるんだ。
いつもより味が濃いことに気付いてもらえたのも、自分の料理をきちんと知っていてもらっているからだし。
リザは嬉しくなって、微笑んだ。
同時にリザはシチューの味がどの位濃かったのかが、無性に気になりだした。
塩を振り過ぎたのか、胡椒を挽き過ぎたのか。
喉が渇くなら、水差しを出しておかなくちゃ。
ちょっとお鍋を見てこよう。
少しだけなら大丈夫、見つかる前に部屋に戻れば。
リザはこっそり部屋を抜け出して、キッチンへと入り込んだ。
 
まだ鍋はほのかに温かい。
そっとシチューの味見をしてみるものの、リザにはどう味が濃いのか全く分からなかった。
食べてもらえるのだから、それほどひどく辛いというわけではないのだろう。
胡椒は見た目にもそう多くは無さそうだし。
うーんと考えこんでいると、冷たい大きな手がリザの首根っこをむんずと掴んだ。
ハッと気付いた時には、頭の上から雷が落とされていた。
 
「こら! 寝てろと言ったのに何をしている!」
いつもは優しいマスタングに大きな声で叱られて、リザは竦みあがる。
「全く言うことを聞かない病人だ」
マスタングは軽々とリザの体を抱き上げた。
「ますます顔が赤くなっているじゃないか、また熱が上がったんじゃないか?」
あなたがそんな事をするから、赤くなるんです、とは言えずリザは黙ったままマスタングの腕の中で俯いた。
「もう今度は逃がさないぞ。一晩中ベッドサイドで見張っているから、しっかり寝なさい」
そんなことをされたら、ますます熱が上がってしまう。
リザはクラクラと目眩を覚えながら、マスタングに抱かれベッドへと運ばれていったのだった。
 
 
 Fin.