overindulgence 前編

overindulgence:【名】わがまま、甘やかし過ぎ、耽溺
 
     *
  
扉を開けば、そこは闇。
冷たく静まり返った部屋がロイを出迎える。
我知らず小さな溜め息をつき、ロイは軍服の襟元を寛げてダイニングの椅子に座り込んだ。
昔はこれが普通だったのに、一度花の彩りを知ってしまうと、独りの部屋は余りに無彩色でやたら広く感じてしまう。
リザが出ていって、早一週間。
ロイは途方に暮れて、散らかった机の上に足を投げ出した。
いつもなら、そんなことをすれば即座に彼女のお小言が飛んでくるのだが、それが無いと逆に寂しく感じるのは我が侭というものだろうか。
 
諍いの原因は、今となっては思い出せないような些細なことだった。
何も出て行かなくても良いじゃないか、とロイは思う。
きちんと話し合う余地はあった筈なのに。
 
そう考えていると、不意に椅子からだらりと垂らしたロイの指先を湿ったものが掠めた。
「ああ、ただいま。飯なら少し待ってくれ」
傍らで鼻を鳴らす子犬の頭を撫で、ロイは呟いた。
いつもはやんちゃなブラックハヤテ号も、リザが出ていってからは元気がなく、落ち着きがない。
時折、リザを探すように彼女の匂いの痕跡を探しているのが哀れに見える。
 
出ていったリザが転がり込んだ先が、軍の官舎に住む友人のところだというのは分かっている。
故にハヤテ号まで連れて行けなかったのも、分かる。
分かるけれども、何故、私が彼女の犬の世話をしなければならないのだろうか、とロイは胸の内で愚痴をこぼす。
本来なら彼は今頃、憂さ晴らしに錬金術の世界に没頭しても良いはずなのだ。
 
しかし、元はと言えばこの子犬をつれて自分の部屋に住むように言ったのはロイの方であったわけだし、自分たちの諍いに巻き込まれた罪の無い子犬を飢え死にさせるわけにはいかない。
そんな言い訳を自分にしながら、ロイは律儀にブラックハヤテ号の朝夕の餌やりと散歩(と言っても、司令部に連れて行くだけだが)を欠かさなかった。
 
自分で世話をしてみて初めて知ったのだが、ブラックハヤテ号はよく躾られていた。
ロイが良いと言うまで餌には手をつけないし、散歩中も他の犬に構わない。
そして、決してロイより前を歩かない。
 
犬の世界で先頭を歩くのは、ボスの証。
子犬のボスはリザで、リザのボスはロイで。だから、ボスのボスには服従なのだろう。
あの小さな頭の中には、主従関係がきちんと叩き込まれているらしい。
 
それに引き換え、人間の方はどうだ。
上官である私を放り出して……。
そう考えて、ロイはハタと気がついた。
家でも私が上官然としているせいか?
ロイは愕然とする。
しかし、家でもロイを上官扱いするのはリザの方だし、何度言っても「大佐」としか呼んでくれないし。
 
悶々と思考の迷路にはまり込んだロイの足元で、お腹を空かせたブラックハヤテ号はすっかりふてくされてしまい、床にペタリと転がる。
この様子だと、どうやら今夜は空きっ腹を抱えて眠る事になりそうだ。
ボスのボスの様子を窺いながら、子犬はヘロヘロと力無く尻尾を垂れた。
 
     *
 
「ちょっと、リザ。なんとかしてよ、あなたの上官。今日も食堂で恨めしそーな目つきで見られちゃったわよ」
 
レベッカの言葉に、リザは小さな溜め息をつくと、エプロンを外すとダイニングの椅子に座り込んだ。
リザがレベッカの部屋に転がり込んで、1週間。
机の上には居候の代価として、リザが用意した夕食の皿が並んでいる。
 
「ごめんなさい、レベッカ
「焔の錬金術師殿がいつか私に嫉妬の炎を飛ばして来やしないかって、全く気が気じゃないわ」
「大丈夫、その前に私が大佐を蜂の巣にするわ」
「リザ、そういう問題じゃないでしょ?」
レベッカは呆れ顔で、リザの的外れな答えに首を振る。
 
「貴女だって、口を開けば大佐の話ばかり。気付いてないとは言わせないわよ?全く、お互い意地張ってないで、素直に歩み寄ればいいのに。ホント似た者同士ね、あなた達」
「そうは言うけどね、レベッカ。私から歩み寄らなきゃならない事はないと思うの」
リザのその言葉に、レベッカは『やっていられない』といった風情で肩をすくめた。
「だから、最初が肝心だって言ったでしょ?」
そう言われたリザは返す言葉もなく、うなだれた。
 
ロイに押し切られた形で、リザはロイのアパートで彼と共に暮らし始めた。
愛する男と暮らすことは、気恥ずかしくも嬉しいものだった。
しかし共に暮らせば、『生活』というものが二人の間に出現する。炊事、洗濯、掃除、その他諸々の雑事。
当然のごとく、リザはその全てを引き受けた。
莫迦ね、そんなの分担すれば良いのよ。最初が肝心よ!』と、レベッカには言われたが、上官に自分の下着を洗わせるなんて出来るわけがない。
そう思っていた。
だが、日々を重ね激務に身を投じる日常を過ごす内、リザは自分が全てを引き受ける事が『当たり前』になっている現状に、いつしか何とも言えない苛立ちを感じている自分を見つけてしまった。
 
ほんの少し、協力してくれれば。
ほんの少し、気にしてくれたら。
ほんの少しで良いのだ。
 
例えば、夕食だと言ったら錬金術の本を置いて食器を出すとか、リザが洗った食器を片付けるとか。
欲を言えば、リザが家事に掛かりきりになっている時、ブラックハヤテ号の散歩なんてしてくれたら本当に助かる。
いや、「手伝おうか?」と一言、声をかけてくれるだけでも報われる。
それは、本当に、本当に小さなことなのだ。
しかし、男にはそれが分からないらしい。
少しずつ積み重なっていく、小さな棘。
それが遂に爆発したのは、ロイが非番でリザが出勤日だった先週の月曜日だった。
 
その日の深夜、残業を終えてクタクタになって帰ってきたリザが目にしたものは、朝食を食べ終わった時そのままに散らかった食卓。リザが出掛けた時から、寸分変わっていない。
ロイはリビングのデスクの前で、上機嫌でガリガリと構築式を描き散らしている。
お腹を空かせて足元にまとわりつくブラックハヤテ号の水入れも空っぽになったままなのを見た瞬間、リザの中で何かが切れた。
後は思い出したくもない、酷い言い争い。
そしてリザは、ロイのアパートを飛び出したのだった。
 
自分が何故怒ったのかをロイが理解して謝ってこない限り、リザはロイのアパートに帰る気にはなれなかった。
でも、ヒントの一つも出さなければ、あの無能は未来永劫それに気付かないかもしれない。
そう考えて、リザは呆然とした。
自分が彼を甘やかしてしまったのは、分かっている。
しかし、公私の使い分けが上手く出来るほど、自分が器用ではない事もリザは十分わかっていた。
では、どうすれば良かったのだろうか。
 
すっかり自分の思考の中にはまり込んだリザの向かいに座り、レベッカはすっかり冷めてしまった料理に手をつける。
この様子だと、どうやらまだ暫くはリザの手料理を食べる事になりそうだ。
眉間に皺を寄せるリザの様子を窺いながら、レベッカはモリモリと勢い良くサラダを平らげ始めた。
 
 
 
To be Continued...
  
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【後書きの様なもの】
どうも、所帯染みた話で、すみません。
生活を共にするという事は、例え好きな相手でも意外に色々大変です。