10.こりごり

こんな思いはもうこりごり 
そう思って避けられるなら こんな思いはしないものを
 
           *
 
莫迦莫迦莫迦莫迦だ。
 
呪文のように胸の内で悪態をつきながら、リザは傍らに瀕死の重傷で横たわる男の顔を見つめていた。
その言葉がこの男に向けたものなのか、自分に向けたものなのかは、リザ本人にもよく分かっていなかった。
 
今、この事態の全てが、悪夢のようだった。
男のシャツは大量の血が乾いて膠(にかわ)のように固まり、生々しい火傷でひきつれた脇腹は未だに血を滲ませている。
その傷は、リザに自分の背を焼いてもらった日を思い出させ、記憶の中の痛みに彼女は身震いした。あの痛みを自身に振るう胆力を持った男に半ば感心しながら、彼女は男を呼ぶ。
男がまだこの手の届く場所に存在している事を確認したくて、無意識に彼女は男を呼ぶ。
「大佐?」
閉じられていた男の瞳が、薄く開いた。
黒い瞳の光がリザに向けられ、彼女は心からの安堵を覚える。
「大丈夫だ。そう言えば、、、君は受傷はなかったのか?ハボックはもう運ばれたか?」
辛うじて意識を保っている男の唇から漏れた言葉は、やはり他人を案じるものばかりで。
リザは胸の内でまた、同じ言葉を繰り返す。
 
莫迦莫迦莫迦莫迦だ。
 
危うくまた涙が零れそうになり、リザは上を向いた。
 
    *
 
ようやく到着した救護車に上官と部下を押し込んだリザは、車で病院へ向かった。
本当は救護車に同乗したかったのだが、副官として事件のある程度の後始末をつけねばならなかった。
バリーの肉体の方が残っていたことが、事件を取り繕うには好都合だった。
 
後はホテルまでアルフォンスを送ってから病院へ向かうつもりだったのだが、彼女の命の恩人の少年は、それを断った。
 『僕なら大丈夫です。それより、大佐に付いててあげて下さい』
そう言って、自分の車を見送った少年は徒歩で帰っていったようだ。
十は年の違う少年の前で醜態を晒した自分を思い出し、ハンドルを握り締めてリザは赤面した。守らなくてはならなかった少年に逆に守られ、常は隠してきた心の深淵を見せてしまった自分が恥ずかしくて堪らなかった。
 
莫迦莫迦莫迦莫迦
 
自らの悔恨を振り切ろうと、リザは車のスピードを上げる。
急加速に悲鳴をあげるタイヤの軋みに混じり、耳にアルフォンスの言葉が蘇る。
情けないわね、と苦く笑ったリザに答えた、アルフォンスの言葉。
『誰だって一番大切な人をなくしてしまったら、絶望しちゃいます。僕だって兄さんがいなくなったら……』
 
一番大切な人。
少年の素直な目にはそう映ったのか。
一番大切な人。
こんな最悪の事態に、そんな事を思い知らされるとは!
 
知らず知らず、アクセルを踏む足に力が入る。
自分の気持ちに封をして、何も見ない振りをしてここまできた。
個人の想いは目的の邪魔になると思っていた。そのしっぺ返しを食らったのだ。
いつ何があって、永遠に会えなくなるか分からない我々なのに。
骨の一欠片、髪の一筋さえ互いの手元に戻らず、ドッグタグが戻ってくるだけかもしれないのに。
 
ドッグタグ。
 
以前、男から取り上げた小さな金属片がもたらす苦い思いに、リザの表情は歪んだ。
 
     *
 
それは、徹夜明けで眠り込んだ男の胸元に下がっていた、何の変哲もないドッグタグだった。
普段のリザなら気にも留めなかったであろう、男が身につけていて当然のもの。
 
セントラルに来る直前の激務の最中、きっちり書類を片付けて疲労困憊の体で眠りこける男を見て仏心が沸いた。
もう少し寝かせておこうかと、空いた時間の手持ち無沙汰を紛らわせる為に転がり出ている男のドッグタグの文字に目を走らせたリザは、そこに自分の名を見つけ驚愕した。
狼狽えた彼女は、男を莫迦呼ばわりした挙げ句、こう言ったのだった。
『大佐の認識票が必要になる事態が発生したなら、私は大佐より先にあの世へ行っております。上官を守り切れず生き残る程、私は厚顔ではありません』
そして、男からそれを取り上げたのだった。
『何があっても生き残れ、例え私に何があろうと』
という、男の反論を受けながら。
 
何も守れてはいないではないか。
男の命も、男との約束も。
あんな大きなことを言っておいて、私は何をしているのだろうか。
リザは、目的地で車から降りながら自問する。
 
結局、守ってもらったのは私だった。
死を思いリザの名をタグに刻む男の方が、自分よりも誠実で己に正直だったのだ。
それこそ、莫迦が付く程に。
せめて、彼の誠実さに応えられる人間でありたい。
その為にも、もっと強くならなくては。
こんな思いは、もうこりごりだった。
 
強く強く強く強く
 
病院の廊下に響く自分の足音に新たな呪文を重ね、リザは処置室へと向かう。
男の安否を早く知りたかった。
おそらく大丈夫だろうとは思うものの、万が一のことは無いとは言い切れない。
彼女はポケットに忍ばせた、捨てられなかった男のドッグタグを握りしめる。
 
あまりにも目紛しく、様々なことがリザの許容範囲を超えて降り注いだ一日は、ようやく夜明けを迎えようとしていた。
 
 
 
Fin.
 
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【後書きのようなもの】
「12.大人の純情」の【後書きの様なもの】に書いた文から、妄想。
自給自足。
 
鋼10巻はやっぱ良いっす。